鉛筆

阿賀沢 周子

鉛筆

 小雨が降っていた。室内は薄暗く、畳は湿っていた。卓袱台の上に広げた下書き用の藁半紙は、どう角度を変えても読みづらくなっていた。

 光子は、少し明るい窓の方へ卓袱台を引っ張って行った。

 書いているのは詩だ。担任の先生がお母さんのことを詩にしてくるようにと、木曜日に宿題を出したのだ。

 ちびた鉛筆を回し、芯の角度を変えて、出来るだけ細く綺麗に見えるように文字を書いていた。                           

 雨が柾屋根を打つ音が、大きくなった。柱時計を見上げた。五時十五分だ。さっき見てから十分と過ぎていない。雨音で針の音は聞こえない。窓硝子を流れる雨の影が、時計の下の壁に映っている。                   

 朝から紙を前にしているが、詩はできていなかった。お母さんという言葉だけが紙の上に並んでいる。時々お父さんとも書いてある。


 三日前、母は家を出た。その前の夜遅くに、父と母が、大声で言い争いをしていた。母が、家で採れた野菜や卵を背負い、炭鉱の長屋をまわって売り歩いて、帰宅が遅くなったのが原因だった。                         

「何時までかかるんだ。あれだけのものを売るなら、半日で済むだろう」

「いつも沢山買ってくれる和田さんが留守だったし、残ったら持ち帰るのがしんどいから、あちこち足を棒にして回ったからさ」

「これで何度目だ。どこで油売っているんだか」

「重たい物持ってどこで油売るってさ」

「とにかく、半日仕事だっ」

 父の怒鳴り声は、どんどん大きくなった。

ふすま一枚隔てた寝室で、光子は布団の中で耳をふさいだ。目尻から熱いものが流れ落ち枕を濡らした。声を出せずに唇を咬んでいた。

 翌朝、起きると、母ではなく父が流し台に立っていた。

味噌汁の香りがしていた。

「みつ、ご飯は自分でつげ」

 光子は、卓袱台を出し布巾で拭いた。お母さんはどうしたの、と訊けないくらい父は険しい顔をしていた。

 父と向い合ってごはんを食べたが味がしなかった。父の手作りの味噌汁ははじめてなのに、旨いのか辛いのか分からなかった。ご飯を味噌汁で流し込んだ。

「学校、遅刻するなよ。父さん、午前中畑仕事して、昼から街に行って来るから」

 お母さんを探しに行くの、と喉まで出かかったがやはり言えなかった。

「遅くなるかもしれんから、夜はじょっぴんかって、残り物でも食べてろ」

 夜、父は独りで帰ってきた。母が一緒でないことに、光子はひどくがっかりした。


 卓袱台の上も暗くなり、出窓の上に藁半紙を移した拍子に、鉛筆がころがった。探そうと屈んだ時、右足の下で小さな音がした。芯が折れたのだった。赤い筆箱から鉛筆削りを出して削ろうとしたが、短すぎてうまくできなかった。筆箱にはもう鉛筆は入っていなかった。

 出窓の右側に、使い古した菓子箱が二つ重ねてあった。

上の箱は光子のものだった。手に取って、蓋を開けた。中には、今し方削れなくなった鉛筆と同じようなちびたのが何本も入っていた。

 以前、父が、野良仕事がない雨の日に、二本の鉛筆をセメンダインでくっつけたのを何本か作ってくれたが、何回と使わないうちに付けた所がとれてしまった。

それを見て母はいった。

「そんなんじゃあ、やっぱり駄目だわ。今度街に行った時、買ってきてやるから」

 今回、母が、街へ商いに行くと決まった時から、光子は「鉛筆買うのを忘れないでね」と再三頼んでいた。

 父と母が喧嘩した日、母が鉛筆を買ってきてくれたのかどうかも分からなかった。


 今日は朝から雨だった。父は、朝早く街へ行くといって家を出た。父が作った大きなおむすびが、四個皿に載っていた。

 お母さんの詩は、明日、月曜日が締め切りだった。お母さんという文字は、三日目、藁半紙の裏表を埋め尽くしていた。

 箱の中から、何とか芯のある鉛筆を探し出し、窓辺の紙に向かった。

 雨音が低くなり、あたりが明るくなったような気がして、外を眺めた。

 庭先から50メートルくらい下って電信柱があり、畑の脇をバス停までの道が通っている。遥か向こう、国道へ降りる前の曲がり角に、黒い二つの頭が、小さく見えた。一つの頭には白い手拭いがまかれている。もう一方は、頭一つ分背が高く黒々とした髪が揺れている。

 あの道は、家までの一本道だ。お父さんとお母さんが帰ってきたのかもしれない。急に鼻の奥がツーンとして顔をしかめたが、じきに笑顔になった。

 ランドセルから原稿用紙を取り出した。鉛筆を回し回し、細く綺麗に見えるように「お母さん」と題名を書き始めた。           

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鉛筆 阿賀沢 周子 @asoh

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