乳揉技巧とユウマの闇 その2
――くに♡ くに♡
律季が空中でリズムよく指を曲げるたびに、その拳を覆う炎の勢いが強くなる。
「『
俺はその弱点を、この
意趣返しのごとくユウマの表現を
……が……なぜかレンとユウマは睨み返してこない。それどころかドン引きだった。シリアスな雰囲気を演出したつもりだったのに、かえって律季の方が肩透かしを食らってしまった。
「……えっと、どうしたんですか? 二人ともそんな顔して……」
「どうしたもこうしたもねぇよ! なにが乳揉みスキルだバカかお前は!?」
当然のツッコミであった。
そんなふざけた名前の技と、今から真剣に戦わねばならない身、レンは声を裏返して抗議する。
「数日に及ぶ訓練の成果ですよ。おっぱいを揉んで高めた魔法の
「……訓練? そういえばこの前、『思い切り乳繰り合う』とか言ってたけどまさか……」
「ええ。察しの通り――そうやって編み出した技です。おっぱい揉んだら強くなれました」
「どんな有言実行だッ!」
関西伝統のどつき漫才のごとく、レンが律季に蹴りをかます。
それはレンにとって、律季のギャグ世界観に飲まれることへの抵抗でもあったが――律季はそれを見切ってかわし、炎をまとった拳をふりかぶる。
「!」
「そこだ、〝
レンは驚愕に赤い目を見開いたが――それもそのはず、律季は自然体がそもそもふざけているだけであって、本人はこの戦いでは一度も冗談を言っていない。この場合レンとユウマは、勝手に揺さぶられた気になって自ら心を乱したにすぎない。
「〝ソニックエッジ〟!」
「ッ――〝
隙をさらしたレンを、ユウマが風魔法で援護する。律季は出しかけた攻撃技を直前で防御に切り替え、焔を纏った拳を上向きに半回転させ、虚空に向かってパンチの連打を撃った。
炎の壁が律季の前方に出現し、風の刃が弾かれる。一拍遅れて熱風が吹き荒れ、ユウマとレンをたじろがせた。
「この前に比べると、出力が弱くありませんか? ユウマさん。
部屋の中だからですか? 物を壊したくないからですか? ――いいや、そうじゃあない。単にもう力が残ってないだけだ」
「……なるほど、キミはそう思うのかな?」
「ええ――でなきゃ真っ先に『カレイドスコープ』を撃ってくるはずだ。俺もそれにどう対処するかが問題だった。あんたがどれだけ文月先輩に入れ込んでるか知らないけど、『友情の証』とやらは高くついたらしいですね。まともに戦うこともできないとは」
「ッ、ほう……! ルーキーのくせして、ずいぶんと調子に乗ってくれるじゃないか……!」
額に青筋を立て、ユウマが再び杖をかざす。今度はレンの援護ではなく、同時攻撃で畳みかけるためだ。
左から風魔法、右から『迅』をかけたレンの跳躍が、律季へと襲い来る。室内にはこの面攻撃を回避できるほどのスペースはなく、先ほどの連打技で撃ち落とすことも不可能だ。
「『堅』」
律季は両腕で顔面をかばい、半身の姿勢で攻撃が当たる面積を減らして、防御強化の術である『堅』を全身にかけた。かまいたちの刃に切り裂かれ、いたるところから鮮血が飛び散る。律季は一瞬だけ痛みに顔をしかめたものの、負傷をいとわずその場を動かなかったおかげで、レンに対応する時間ができた。
「何ッ!?」
「調子になんて、乗りたくても乗れませんよ……」
「――レン、避けてッ!」
「そして今度こそだ! ――〝
「がぁ……ッ!?」
動揺して攻撃が出遅れたレンに向かい、律季は全力のストレートを繰り出す。黄白色の光の軌跡が宙に描かれ、高速の拳がレンの腹に突き刺さった。
「――お前ッ!!」
「させるか、
「あ……っ!?」
血相を変えて、クールタイムなしに杖を振りかけたユウマより早く、律季のもう片方の手が杖を差し伸べた。
先日の光景の再現の如く、ユウマの杖が握る右手ごと跳ね上がる。魔法の出を潰されたユウマと、ボディブローをまともに喰らったレン。すぐに行動に移ることはできなかったが、律季も追撃はしてこない。にらみ合いの沈黙が部屋に流れた。
(……こ、こいつ……強い……!)
(……能力だよりかと思ったが、この数日でしっかり基礎技能を身に着けてやがる。杖も握ったことなかったド素人が、これほど……!)
律季は「ふーっ、ふーっ……」と、深呼吸して興奮を抑えつつ、虹色のきらめきが乱舞する目で二人を睥睨した。
遮光カーテンから漏れたほのかな日光が、彼を背後から照らしている。闇色のマントを身にまとい、右手に炎を、左手に杖を帯びたその姿は、プロのエージェントをして警戒させる凄みがあった。
「なるほど――天道炎夏が留守にした理由がわかったよ。ボクたちを油断させた上で、成長したキミをぶつけるためか……」
「……そういう腹積もりも、無くはありませんでした。でも俺たちの目的はあんたらを倒すことじゃない。あくまで文月先輩やみんなを守ることが最優先だ」
部屋の隅で倒れた螢視に視線をやると、律季の瞳の輝きが翳る。
「それがこんなことになったんじゃ、ひっぱたかれるだけじゃ済まないだろうな。……申し訳ありません、文月先輩。全部俺のせいです……」
「大丈夫だよ。螢視ならちゃんと戻って来るって」
「さっきからなんなんですか、その根拠のない自信は?」
律季は頭が痛くなる気分だった。話を聞く限りだと、螢視を昏倒させた術式は、一度かかってしまえばユウマ自身にも解けるものではないらしい。つまり、ここで二人を叩きのめしたところで、螢視を救うことはできないのだ。
「俺としては正直ハラワタ煮えくり返る思いですが、これ以上戦っても意味無いし、近所迷惑です。おとなしく文月先輩を渡してください」
「やーだね」
「ッ……レンさんは? 見た感じ、そんなに乗り気じゃなさそうだけど……」
「俺はユウマの味方で、
「あんたらは無関係の人を巻き込んだ。そういうのは、俺たちの辞書だとテロって言うんですよ。正しくもない拳をいつまでも振り上げて。結局引っこみがつかないだけでしょう?」
「対話は無意味だと言っているんだ。主張は勝った後にするんだな」
杖を持つ手が互いを向いた。これが西部劇の早撃ちならば一瞬の差でユウマが勝っていたが、今の彼女に律季を仕留める余力はない。――無論、依然として『捕縛』指令が生きている以上、律季を殺すわけにはいかないのだが。
「『ウィンディー・デイ』!」
「!? か、風……ッ!?」
魔法発動に身構えた律季は、その足元から防御姿勢を崩された。かまいたちの斬撃が来ない代わり、四方八方からの強風が彼の体を叩きつけて、無理やり体幹を揺さぶって来る。
「『ソニックエッジ』より高燃費だ。普段は扇風機がわりになるぐらいだけど、閉所ならこういう使い方もある。――レン、やっちゃって」
「ああ」
足元はぐらつき、しっかり握らなければ杖が吹き飛ばされてしまうほどの乱気流。律季が転倒しないよう必死になる中、レンは風の流れを完璧に読み切り、むしろ追い風として迫ってきた。さすがのコンビネーションだ。
「オラァッ!!」
「がは……ッ!」
風の勢いに加えて『剛』を乗せた棍が、律季の胴体を横から殴った。律季は体をくの字に曲げて吹き飛び、壁際にあった作業机に叩きつけられる。衝撃で引き出しが壊れ、中にあった紙の束が風圧で舞ったが、頭を打った律季にそんなことを気にする余裕はなかった。
「あ……!」
(! しまった……!)
レンとユウマが、机から飛び出したその紙を見て凍り付く。そこは二人にとって、損傷してはいけない場所だったのだ。
なぜ追撃してこないのかと一瞬疑問を抱いた律季だが――考えている余裕はない。頭の中で火花が散り、涙目になりながらも力を振り絞って、痛む体中に『迅』をかけた。
優先して攻撃すべき対象は定まっている――『
「おおおおおおおッ!!」
「待て! 水鏡律季、今は――!」
ユウマは律季の動きに対応できていない。「入る」と思ったが――ユウマの体に攻撃が突き刺さる直前、律季の拳が何かを貫いた。
『バリィッ!』と破裂音がする。舞っていた紙のうちの一枚が、真ん中を『
――その光景が、ユウマの眼前に『過去』をフラッシュバックさせる。
(……!? なんだ……?)
「――あ……ああっ……ああああぁぁぁぁぁ……」
律季の拳に宿った炎が、中心を破かれた漫画原稿に燃え移り、黒く焦げていく。その一部始終を見せつけられたユウマの瞳が、みるみるうちに焦点を失っていった。予想外の事態に攻撃を止めた律季は、その瞬間に全てを察する。これを描いたのが誰であるかを。
(まさか、これって――)
「――うあ゛あ゛あァァァァアアアアァァァァァ――――――――ッ!!!!!」
風がぴたりと止み、漫画の原稿がはらはらと落ちる。次の瞬間、ユウマの絶叫が耳をつんざいた。
凄まじい形相を浮かべた彼女が、杖を持たず素手で律季につかみかかって来る。『あれに触れられてはならない』――。本能的に危機を察知した律季が拳を引っ込めて退いた。
そしてその勘はどうやら正しかった。律季を外したユウマの掌を、その先にあった壁が受け止めると――触れた場所から黒ずんだ染みが滲み、そこにあったあらゆるものをドス黒く侵食する。まるでバケツ一杯のインクをぶちまけたかのような惨状。カレンダー、壁一面、床までもがあっという間に黒一色に染まり、『それ』が倒れ込んだ螢視に触れようとした時――
「水鏡律季ッ! ――こふっ」
レンが跳躍し、彼の体を拾い上げた。緊迫した表情で律季に近寄り、螢視の身柄を渡してくる。咳を受け止めた手に吐血していたが、あまり意に介していないようだった。
「逃げろ」
「――は?」
「戦闘どころじゃなくなっちまった。早くそいつを連れて逃げろ!」
そう語るレンは律季の顔を見ていない。壁に手をついたきり、黒一色に染まった領域の中で、頭を両腕で抱え込んでへたりこむユウマを全力で注視していた。
しかし、床の上に散らばった漫画の原稿だけは、白い紙の色を保っている。レンも片足が黒くなった床の上にあるが、問題はなさそうだった。
「あいつから出てる黒いのに触れるな。特に文月螢視には絶対に当てるなよ。魔法使いじゃない奴は廃人になる」
「一体どうなってるんですか? やっぱり俺があれを破いちゃったから……」
既にレンに害意はないようだ。火と〝
「グズグズしてる暇はねぇ! 急がなきゃ部屋中がこうなる! 早く出ろッ!!」
「は、はい! わかりました!?」
意識不明の螢視を連れ、ほうほうの体で逃げ出す律季。土足で突入したので、そのまま部屋の外へ駆けていく。
際限なく周囲を黒く染めるあの『現象』は、部屋の外にまで影響するのではないか? その懸念はあったが、今の最重要は螢視を助け出すことである以上、律季はすたこらと建物の外へ逃れることしかできなかった。
「――ひっく、ひっく……レン……」
すっかり真っ黒になった部屋の中、死んだ眼を見開いてすすり泣くユウマを、レンは胸の中に抱いている。
床の上に散らばった原稿たちは、突き破られた一枚を除いてすべて無傷だった。
「……あいつ、あれだけ慌ててたってのに、一枚も漫画を踏まなかったな……」
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