窓のない夜

ころっぷ

窓のない夜

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ちびた鉛筆を最後まで使う為のキャップを、私はその時初めて見た。

シルバーの金具に小指の先位になった鉛筆が差し込まれている。

斜めに傾げたちゃぶ台の上、インスタントコーヒーの空き瓶の中にそれが無造作に3本突っ込まれていた。

初めて寺岡泡人(ほうじん)のアパートに行った時、暖房器具の一切無い冷え切った部屋で私は、その寂しげに光るシルバーのキャップをずっと見詰めていた。

寺岡泡人は世間から忘れられた男だった。

90年代の終わりに3冊の詩集を出し、そのどれもが詩壇の激賞を受けた。

幾つもの有名な賞を取り、多額の印税と名声を手にした。

その時寺岡泡人は若干22歳で、正に時代の寵児と持て囃された。

萩原朔太郎の再来、中原中也の生まれ変わり等々。

思い付く限りの美辞麗句に囲まれて、前途有望の期待の星であった。

しかしそれ以降、寺岡は1文字たりとも詩を発表する事は無かった。

石の様に固く閉じ、一切の創作から身を引いてしまったのだ。

勿論数多の出版社、百千の編集者が寺岡の元に原稿依頼に訪れた。

しかしその悉くが門前払い、次第に業界からも嫌忌され、彼の事を知る人間も居なくなっていったのだった。

その伝説の詩人、寺岡泡人が目の前に座っている。

私は斜陽化した出版業界の、そのまた片隅にぶら下がっている様な弱小出版社の文芸部5年目。

さして思い入れも無い文芸誌で、上司に押し付けられた原稿を取ってくる事を生業としていた。

「伝説の詩人の30年振りの新作だ。来月号の目玉企画だからな、死ぬ気で取って来い」

上司のパワハラ発言には辟易だったが、今更他にやりたい仕事がある訳でも無い。

私は原稿取りに命を掛ける気など毛頭無かったが、今年遂に30歳の大台に乗り上げる身とあっては、上司のパワハラ如きに一々腹を立てている場合でもなかったのだ。今にも崩れ落ちそうな木造アパートの2階、軋む廊下の突き当り、陽の入らない6畳1間で差し向う元天才詩人。

物静かな佇まいだが眼光だけは異様に鋭い。

私が渡した名刺をじっと見たまま既に5分以上が経過していた。

「佐々実(ささ・みのり)さん、あなたはお幾つですか?」

唐突に声を掛けられ、それが私の名前だったものだから、「へっ」と変な声が出てしまった。

「あっ、はい、29歳です」

最初の一言が歳の話かよ、と心の中では悪態を付きながら、私は出来る限りの笑顔でそう答えた。

「あなたは詩を書きますか?」

言い間違えたのかと思った。

「詩を読みますか?」では無いだろうかと。

私が答えに窮していると、寺岡はゆっくりと煙草に火を点けて静かに煙を吐いた。

長年の蓄積だろうか、天井は黒く煤汚れていた。

磨りガラスが嵌められた木の窓枠が、ガタガタと風で音を立てる。

「それで今日はどんなご用件で?」

寺岡がちらと私を見て言った。

「はい、今日は先生に原稿のご依頼に伺いました。弊社の文芸誌の来月号で現代詩の特集を企画しておりまして、是非先生の作品を目玉として掲載したい思っております」

寺岡は目を閉じて首を上下に揺らしていた。

私の言葉を一つ一つ吟味している様に映った。

「今日は冷えますね。この部屋ではあなたも寒いでしょう。近くに旨い珈琲を飲ませる店があります。一緒に出ませんか?」

そう言うと寺岡はおもむろに立ち上がった。

思いの外、背が高い。

深い緑のマントを肩に羽織り、年季の入った中折れ帽を頭に乗せた。

その姿はかつての文豪の様だと思った。

「さぁ、行きましょう」

「あっ、はい」

私は慌てて荷物を持ち、軋む廊下をすたすたと進む寺岡の背中を追い掛けた。 


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もう彼此30分は歩いている。

谷中の路地の辺りは墓場だらけだった。

冷たい風が吹く度に背中が縮こまる様だ。

全然近くないじゃん、と思いながら黙って寺岡の後を付いて歩く。

寺岡は左に少し体を傾けながら、歳の割には早いペースでずんずんと歩く。

私は日頃の運動不足で既に膝が痛かった。

先週末の企画会議の時から嫌な予感はしていたのだ。

忘れられた天才詩人。和製アルチュール・ランボー奇跡の復活。

まるで心踊らないフレーズが飛び交う会議の最後に、予感的中で編集長は私を寺岡の原稿取りに任命した。

私は寺岡の事は勿論、「詩」など何も分らないに等しい人間だと言うのにだ。

うちの文芸誌はただでさえ出版不況の時代にあって、需要の少ない純文学系の原稿を中心に載せている。

今の若者は活字といえばネットのライトノベル位しか読まないだろうに。

ああ、いっそ廃刊にでもなって違う部署に移動したい、などと荒んだ心の私は何食わぬ顔でとんでも無い事を考えながら歩いていたのだった。

「さぁ、ここです。入りましょう」

そこは石壁造りのひっそりとした、古びた喫茶店だった。

入口の木製のドアには葵の花のステンドグラスがはめ込まれていた。

薄暗い店内には微かなボリュームでクラシックが流れている。

黒檀の柱を背に座った寺岡と相向かいの椅子に腰を下ろす。

何気ない路地の目立たない店だったが、内装はどれも高級感があって落ち着いた雰囲気だった。

「珈琲で良いですか?」

寺岡が私に聞いた。

「あっ、はい、お願いします」

やっと座れて生き返る心地だった。

暫くして注文を取りにきた老人を、私は昔のお札の肖像で見た様な顔だなぁと思った。

伝説の天才詩人を前にして、私も随分呑気なものだった。

その時の私は、例え目の前の寺岡が執筆を断ったとしても、大した影響は無いだろうと高を括っていた。

編集長はあんな調子で案外仕事に対して緩い所がある。

以前も私が作家を口説けずに社に戻った事があったが、何にも拘らない様な顔で「じゃあ、別の作家でいこう」と軽い感じで受け流していた。

その時にはまだ、私にとって寺岡泡人の存在はその程度の感覚でしかなかったのだ。「実さんはなぜ編集者になったのですか?」

寺岡は当たり前の様に私を下の名前で呼んだ。

この時私は初めて寺岡の顔を正面から仔細に眺めた。

年齢は50歳を超えていると聞いている。

しかし皺一つない肌艶といい、黒々とした毛量豊かな頭髪といい、涼し気な目元といい、まるで美少年の様だと思った。

それはある種の詐欺の様な、30歳目前の私には腹立たしささえ感じられる程であった。

「あ、えーと、父が地方新聞の記者だったのですが、その影響で本が好きになったんです。だから本を作る仕事に就きたいと考える様になって・・・それで今の会社に」私は急に面接が始まってしまった様な気分でしどろもどろになってしまった。

どうも寺岡の佇まいには人の背筋を伸ばさせる様な所がある。

ぶっきら棒で直球型の編集長とはまた違った意味で緊張を強いられるタイプだと思った。

「そうですか。私の父は町医者でした。一人っ子の私に後を継がせたかったと思うのですが、何の因果か詩なぞに目覚めてしまいこの有様です。人生とは分らないものですね」

そう言って微笑んだ寺岡の目には、どこか寂しそうな陰りがあった。

テーブルに静かに置かれた珈琲カップに角砂糖を1つ落とし、スプーンをゆっくり2度回す。

そのさり気無い仕草には、この男の長い年月の習慣が溶け込んでいる様に感じられた。

「実さん、あなたの一番好きな本は何ですか?」

またも面接の様な質問だ。

これまでの経験で知った、執筆依頼時での作家の胸の内の見分け方。

自分の事を話さずに、質問攻めしてくる作家は執筆に前向きでは無い。

でもこう言った時に無理やり話の矛先を急旋回する事もまた、得策では無い。

「マーク・トウェインのハックルベリー・フィンの冒険です。小さい頃から何度も読んでいます」

私は実家の父の書斎の本棚に、几帳面に並べられていた岩波文庫を思い浮かべていた。

4年前にすい臓がんで亡くなった父の蔵書は、今も変わらずあの部屋にあるのだろうか。

松本の実家にも暫く帰っていない。

私も一人っ子だったが、父は私の上京にも何一つ嫌な顔をしなかったなぁと、私はまた寺岡を前に臆面も無く1人で物思いに耽ってしまっていた。

「この珈琲、美味しいですね」

更にマイペースな事を言ってから、ちょっと気を抜き過ぎたと私は思った。

「ここの珈琲は奥の部屋で自家焙煎しているんです。マスターの目利きで選んだ良い豆だけを丁寧に焼いて、一杯一杯ハンドドリップしてくれてるのです。さっきの岩倉具視みたいな怖い顔のおじいさんがマスターです」

そう言って寺岡は静かに笑った。

ああそうだ、あの昔のお札のオールバックの強面は岩倉具視だったなぁと思い出した。

この人はとても丁寧な話し方をする。

やっぱり詩人だからなのかな、と私は思った。

それからも寺岡は仕事の話をせずに、私の生まれた町の事や、好きな食べ物、好きな映画の事なんかを聞いてきた。

私はそれに答えている内に、ここへ何しに来たんだっけと目的を見失いそうになっている自分に気が付いた。

流石にこれでは拙いと思い、タイミングを計って単刀直入に切り出す事にした。

「あの、先生。それで今回の原稿の件ですが。新作の詩の方、前向きにご検討頂けないでしょうか?」

「それは出来ません。申し訳ありません」

寺岡は真っ直ぐ私の目を見て、間髪入れずに言い切った。

「えっ?」

余りの事に私は言葉を失う。

「私は30年も前に詩作から離れました。私の詩は既に終わっています」

私には最初から、為す術も無く、取り付く島も無かったようだ。           


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「馬鹿かお前!何年編集やってんだよ!」

予想外な事に会社に戻って編集長に報告すると、久方振りのカミナリを食らってしまった。

あれ、いつもの緩さは何処へ?と私は唾を飲み込む。

「今回の原稿は特別なんだよ!死ぬ気で取って来いって言っただろ!」

編集長の怒りは収まらない。

その日は気分が塞ぎ込んだまま、深夜残業に突入となった。

こんな時に限って電話が引っ切り無しに掛かってきて、どうでもいい様な雑務が増える。

当然イライラが募り、喫煙所に足を運ぶ回数も増えてしまった。

ああ、1日2箱のヘビースモーカーじゃあ婚期を逃したお局街道まっしぐらじゃん。私は遠く西新宿の夜景が見える窓に顔を近付ける。

おお、髪もボサボサ。

大袈裟に溜息を付いていたら、喫煙所に編集長が入ってきた。

「おお、佐々、まだやってんのか?」

あんたの無茶振りでこうなってんだよ、とは流石に言えない。

「あ、お疲れ様です」

私はすかさずスマホを取り出してラインのチェック、をする振りをする。

編集長の眼鏡のフレーム曲がったままだ、と思った。

先週末の企画会議の後、決起集会と称した編集長の53回目の誕生日会が開かれた。散々酔っ払った挙句に、帰りのタクシーに乗り込もうとした編集長は、足を引っ掛けて道路に派手に転んでしまった。

その時掛けていた眼鏡が吹っ飛んで、フレームが曲がってしまったのだ。

編集長って寺岡さんと同じ位の歳なんだなぁ、と横目で腰のストレッチをしている編集長を見て思う。

そういえば、お父さんもそんなもんだ、生きてれば。

私の父は22歳で父親になった。

地方新聞社の若手記者と、地方劇団の新人女優との大恋愛の末のデキ婚だったそうだ。

一人娘の私はあらん限り甘やかされ、躊躇無く軟弱な人間に仕上がった。

煙を吐き出すと、それはつい溜息の様なロングブレスになってしまった。

ちらと喫煙所の壁掛け時計を見ると、今日が終わろうとしている。

「おい佐々、この後ちょっと付き合え」

腰の辺りを支点に、上半身をグイングインと回転させながら編集長が言った。

「へっ?」

私はまた変な声を出してしまう。

「緊急会議だ、来月号の」

そう言い残すと、編集長はさっさと喫煙所を後にしてしまった。 


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3杯目の水割りのグラスを空にした頃、私は疲れとストレスでいつもよりやや酔っ払っている自分に気が付いた。

編集長のキープボトルも尽きかけている。

カウンター席の上でクルクルとミラーボールが回っていた。

それが隣に座っている編集長の眼鏡に反射して眩しい。

「それで、寺岡さんどうだった、元気そうだったか?」

鼻から勢いよく煙を吐きながら、編集長が言った。

「ええ、お元気そうでした。谷中の喫茶店にご一緒して、色んな話をして楽しそうにされていたんですが、その・・執筆に関しては、きっぱりと断られてしまって・・」私は編集長の怒りの残存度を計りながら、精一杯の誠意を演出しながら答えた。

「そうか、やっぱ駄目か、そうか・・」

編集長は怒りよりも悲しみの方にシフトしている様子と見えた。

「編集長は寺岡さんと面識があるんですか?」

私がそう言うと、編集長は何やら思案顔で遠くを見詰める様な目をした。

2人の前に、新しい水割りのグラスが静かに置かれる。

「俺がまだ新卒の新人だった頃、当時の編集長と一緒に担当したのが寺岡さんだったんだ。まだ右も左も分からない様なペーペーの俺と、東大仏文科の3回生だった無名の詩人。ほぼ毎日、本郷の学生寮に転がり込んで朝まで酒飲みながら詩集の編纂でな。互いに若かったし、よくやり合ったよ」

フレームの曲がった眼鏡のレンズをおしぼりで拭きながら、編集長がポツリポツリと語る。

「そうだったんですか・・えっ・・じゃあ、編集長が30年前の伝説の詩集を担当されたんですか?」

私は信じられない思いだった。

我が弱小出版社がベストセラーを刊行していたとは。

「担当はその当時の編集長だった人だ。常盤さんっていってな。まぁ、俺は死ぬ程しごかれたけど、すげぇ人だったよ、あの人は」

常盤巌(ときわ・いわお)、私でも名前位は聞いたことがある。

我が社の伝説の編集者だ。

これで伝説と伝説が繋がった。

「ほれ、これ貸してやる。涎垂らすなよ」

編集長がそう言って、あずき色の革表紙の見るからに古そうな本を手渡してきた。

箔押しで金色に鈍く光るタイトルは「窓のない夜」、その下に著者名「寺岡泡人」とあった。

手に持つと、不思議とその重さや厚さがしっくりと馴染む様な本だった。

「絶版だからな。神保町じゃあ5万はするからな」

こうやって念を押す所が潔く無い。

「でも編集長、何で今回寺岡さんの詩を載せようと思ったんですか?30年以上新作を発表されていない方なのに・・・」

どうせなら行く前にその話聞かせてくれよと思いながら、私は聞いた。

「ああ、実はな、1か月前に会ったんだ、寺岡さんに。30年振りだったよ。俺はな。そう、常盤さんの入院している病院で、バッタリ偶然」

編集長は新しい煙草に火を点けた。

その横顔は少し疲れている様に見えた。           


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タクシーで東中野の自宅へ帰り、シャワーを浴びてから直ぐにベットに潜り込んだが、中々寝付けなかった。

ラインを確認すると松本の母親から7件も未読のメッセージが溜まっていた。

正月にも帰省しない30歳手前の一人娘に、見合いか何かのお馴染みの話題である事は見なくても分る。

私は妙に頭が冴えてしまっていて、眠るのを諦めて冷蔵庫から缶ビールを取り出す。大学生の頃から愛用しているどてらを羽織ってベランダに出た。

冷たい空気で更に目が覚めた。

ここからも遠くに西新宿の夜景が見える。

うん、新宿は眠らない街だな、と独り言ちた。

後3時間もすれば始発が走り出す頃だ。

煙草に火を点け、ベランダの手摺りに背中を預けてゆっくりと煙を吐く。

風に流される白い煙の向こうに電気を消した薄暗い室内が見えた。

ダイニングテーブルの上に置かれたあずき色の革表紙。

30年以上前に当時の詩壇を揺るがせた伝説の詩集。

寺岡さんは何で詩を書くのを止めたんだろう。

あの6畳1間の狭いアパートに、1人っきりで暮らすその理由には、容易に踏み込む事の許されない何かがある様な気がした。

4杯目の水割りでダウンする前に、ミラーボールの光を眼鏡のレンズに反射させながら、最後に言っていた編集長の言葉を思い出す。

「あの人が詩を書けなくなったのは、俺の所為でもあるんだ」

私はこのまま、諦めてはいけない様な気持ちになっていた。


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コンクリート剥き出しの壁に、強烈なフラッシュライトが明滅する。

小気味良いカメラのシャッター音の合間に、「そぉ~!そぉ~!」という大きな声が響き渡っていた。

大きな白い幕の前で、水着の女性が様々なポーズを取っている。

「はい、一旦休憩入りまーす!」

黒いパーカーを来た若い男がバスローブを女性に手渡しながら大声で言った。

私は部屋の隅で椅子に腰掛け、来月号に載せる中堅小説家の短篇のゲラを読んでいた。

「おう、佐々、久し振り」

声を掛けられ顔を上げると、目の前にカメラマンの長田慎(おさだ・まこと)が立っていた。

「お久し振りです、長田さん。すいません、突然お邪魔して」

私は急いで立ち上がって深々とお辞儀をした。

「おお、大丈夫だよ。これからちょっと休憩だから、上で一服しようぜ」

長田はそう言って足早に歩いて行った。

私も慌てて後を追う。

スタジオの屋上は一面に芝生が植えられ、開放的な雰囲気だった。

その日はさほど気温も低く無く、日差しがあって気持ち良かった。

「おう、それで、寺岡泡人と平尾の話だっけ?」

私は予め長田にメールで話の趣旨を伝えていた。

我らが編集長、平尾学(ひらお・まなぶ)とカメラマンの長田慎は大学時代からの付き合いで、更に我が弱小出版社の同期。

今や生え抜きのベテラン社員はこの2人位しか残っていなかった。

そして更に更に、今朝あずき色の革表紙を恐る恐るめくった所、最初に目に飛び込んできた表紙ウラの寺岡泡人の30年前の著者近影。

その撮影者がこの長田慎だったのだ。

「はい、うちの来月号の目玉記事で寺岡泡人の30年振りの新作を企画しているんです・・・が、断られまして、それで編集長にちょっと気になる事を言われたものですから、その、長田さんだったら当時の事、何かご存知無いかなと思いまして、それで、はい」

長田とは私が入社したての頃、写真誌配属の時に散々しごかれた上下関係の為、どうも対面すると未だにビビッてしまう。

「まあな、随分昔の事だけど、覚えているよ。つーか、忘れたくても忘れらんねぇなぁ」

長田は煙草に火を点けて、芝生に腰を下ろした。

私も横にちょこんと座る。

「寺岡さんにはもう会ったのか?」

「ええ、昨日アパートに伺いまして、とても穏やかな方でした。色々お話させていただいたんですが、最後に原稿の話をしたら、私の詩は既に終わっていますと断られてしまったんです」

何だか、子分が親分に泣きついているみたいでカッコ悪いなぁと思いながら、私は長田に話していた。

それに昨日から父親の様な年齢の相手とばかり喋ってるなぁとも思った。

「そうか、平尾からは何か聞いてねーの?」

親分が横目で私を見た。

「えーと、昨日の仕事終わりに緊急会議に連れ出されまして、編集長、4杯目の水割りでダウンする直前に、寺岡さんが詩を書けなくなったのは俺の所為だみたいな事をボソッと」

私の告げ口が続く。

長田は遠い目で眼下に広がる新宿御苑を眺めていた。

「そうか。まぁ、あいつがそう思う気持ちも分るんだけどな」

親分には珍しく口が重い様子だった。

大人の事情に口を挟むな的なお叱りを受けてしまうのかと少し緊張する。

「佐々、お前、常盤さんって知ってるか?」

長田が白い顎鬚を撫でながら言った。

「ええ、名前だけは。寺岡さんの詩集の担当をされたと聞きました」

「そうそう、常盤さんが全体を仕切ってて、平尾が寺岡さんと一緒に詩の選定とか、順番とか、レイアウトとかやってたんだよな。あの詩集、窓のない夜ってやつの」「はい、昨日編集長からお借りしました。まだ中身は読んでいないのですが」

私は鞄の中の本の重みを思い出した。

そしてそういえば寺岡さんのアパートの部屋には、詩集どころか本の一冊も無かったな、と思い返していた。

「平尾が新人だった頃、ずっと常盤さんのアシスタントみたいにくっ付いてたんだよ。まあ一人前に育ててもらった恩人、師匠ってとこだな。そんで常盤さんが雑誌の投稿から見出したのが、当時まだ大学生だった寺岡泡人なんだ。俺は詩とかよく分んないけどさ、やっぱ本人に会うとさ、違うんだな。何かオーラっていうか、その、ただの大学生じゃなかったんだよ、当時も」

私は昨日の喫茶店で、相向かいに座った時の寺岡泡人を思い返していた。

細身の体躯と、涼し気な眼差し。

でもどこか常人成らざる雰囲気があった様に思う。

「それで、常盤さんが色々と駆け回って詩集の出版まで漕ぎ着けてさ、常盤さんってのは、厳しい人だったけど本当に世話焼きでさ。人情家って言うか、昔気質なんだよな。そんで、よく寺岡さんとか、平尾とか俺をさぁ、家に集めて飯食わせてくれたり、一緒に朝まで酒飲んだりっていう感じで。随分世話になったんだ」

長田は私に語りながら、どこか独り言の様に、あるいは自分に言い聞かせているかのように言葉を紡いでいた。

私はそれを聞きながら、同じ時代の空気を吸っているかの様に感じられるのを不思議に思っていた。

私の知らない世界。

でも今に繋がっている世界。

「それで常盤さんにはな、一人娘がいたんだ。咲(さき)さんっていってあの頃、多分22とか3とかだったと思う。まぁ、えらい美人でな。気立ても良くて頭も良い人だったんだ。もうあの鬼編集長、常盤巌の娘とは思えない位に優しい人だった」

長田の言葉尻が全て過去形な事が私は気になった。

話向きに何か不穏な空気が混じる。

「皆、若かったしな、怖い物なんて無い様な気でいたんだ。平尾も、寺岡さんも、極々自然に咲さんに惹かれていったんだ。それはもう傍から見ててもあからさまなもんでな、でも、咲さんの心は常に寺岡さんの方に向いていた。それも最初から明かだったんだけどな」

長田にいつもの快活な語り口は無かった。

若かりし頃の、懐かしい思い出話といった様なセンチメンタリズムも入り込む隙が無さそうだった。

「俺はあくまでも傍で見ていただけの脇役だからな。何があったかとか、本当の所はどうだったのかとかは分らない。ただ暫くして、平尾が咲さんと婚約したって聞いたんだ。俺も少し驚いたんだけど、常盤さんは本当に平尾を目に掛けてたからな。それが寺岡さんのあの詩集が発表された頃だったんだ。それで大きな賞を貰って、うちの会社も重版だ何だで忙しくなって・・・・だけどそんな矢先に咲さんが事故に遭って亡くなったんだ。それでお前も知っての通り、寺岡さんは詩を書く事を止め、平尾は今の今まで独身を通している。何かが決定的に変わっちまったんだ、あの時に」

そこまで話終えた時、屋上に出る扉の所に黒いパーカーの若い男が現れた。

長田は煙草をスタンド灰皿に押し付けて、ゆっくりと息を吐いた。

「佐々、これはもう30年以上も昔の話だ。そんで常盤さんも今、身体壊して入院してるし、多分平尾はこのタイミングで自分のやり残した仕事をやろうと考えたんじゃねぇのかなって、俺は思うよ。誰よりも寺岡さんの事を評価してたのもあいつだと思うからな」

長田はそう言い残すと、肩を窄めながら小走りで屋上から消えて行った。

その場に残された私は茫然としてしまった。

余りにも話が込み入っていて、整理が付かず、そして何故自分がこの物語に巻き込まれてしまったのだろうかと、ただその事を受け止め切れずに中々体を動かせないでいたのだった。           


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この日も雑務は山積みだった。

原稿のチェック、校正、ゲラのチェック。

宣伝部との打合せや資料集めに、スケジュールの見直し。

今日も深夜残業決定だ、と溜息を吐く。

流石に徹夜明けで意識が朦朧としてきていたので、仮眠室の鍵を持ってデスクを後にした。

1時間位横になってから一気に片付けるか、とその前に一服付く為に喫煙所に行くと、編集長が1人でいるのが見えた。

「お疲れ様です」

私が入っていくと、編集長はちらっと視線を投げてきて、また直ぐに目を逸らした。「おう、お疲れ。昨日は悪かったな、遅くまで」

おっと、編集長が私に対して何にしても謝るとは。

これはもしかしたらお初なのでは、と私は思った。

「編集長、昨日はご馳走様でした。あれから大丈夫でしたか?ちゃんと帰れました?」

私は曲がったままの眼鏡のフレーム越しに、編集長の顔色を伺いながら言った。

「余裕だよ。まだじじいじゃねぇからな。お前こそ、何だ、今日も残業か?」

編集長が私の手に握られた仮眠室の鍵を見て言った。

「ええ、まぁ、色々仕事が溜まってしまいまして」

私は煙草に火を点けながら、スマホを鞄から取り出す。

「おい、佐々、あの寺岡さんの詩だけどなぁ。無理そうなら代案考えとけな。〆もあるしな」

そう言って出て行ってしまいそうになった編集長に、私は慌てて声を掛けた。

「あ、あの、もう少し、もう少し粘ろうかと思ってます。私もこのタイミングで何か自分の殻を破りたい、って言うか何て言うか・・・・・・兎に角、その・・」

上手く言葉に出来ずに歯痒い。

「お前、何言ってんだ?大丈夫か?」

編集長はいつもと変わらない様子だった。

少なくとも表面上は。

「兎に角、死ぬ気で取ってきます」

私は自分でも何を言ってるんだろうと思った。           


          8           


        窓のない夜   


  透明な、夜の輪郭にそっと息を吹きかける


   月がやおら立ち上がり手を伸ばす   


  私の心臓を喰らおうと   


  ぎりぎりと、汚い音で喉を鳴らす   


  彼等は互いに見た夢の話をするから   


  窓のない夜は満たされる   


  ここへは戻らないと彼等は言うから   


  窓のない夜がまたやってくる  


表題の詩は、短いながらも妙に尾を引く響きを感じさせた。

私は詩の事など何も分らない様な駄目編集者だったが、それでもここにある言葉が人の気を惹く物である事位は分る。

繊細で、鋭い言葉使いだと思った。

読み進めていく内に、詩人の中に何とも形容し難い様な虚無の存在を感じた。

谷中の路地を歩く寺岡の背中を思い出した。

私はこの詩人を知る為に、もう少し遠回りをしてみようと思っていた。

千駄木の駅前の花屋でオレンジ色のガーベラが入った束を買ってタクシーに乗った。地下鉄の中でも、タクシーの車内でも、私はずっとあずき色の革表紙を捲っていた。止めどなく流れ込んでくる言葉の濁流に、必死に足を踏ん張っていないと、どこかに飛ばされてしまいそうだと思った。

あの穏やかな寺岡の中に、こんなにも激しく暴力的とも言える言葉が宿っているなんて。

私は詩の力を多分、生まれて初めて肌身に感じていた。

編集部の古株の社員に昨日教えてもらっていた、某医大付属病院の常盤巌の病室からは、根津神社の緑が眼下によく見渡せた。

ベットに半身を起こした常盤は、私が渡した名刺をじっと見詰めている。

「あんた、平尾の所にいるのか。今は中々、厳しいだろ。純文は」

常盤は痩せ細った身体からは想像もつかない程の強い声で話す。

私はそれだけで気圧されそうだった。

曲者編集長の師匠である所の、元鬼編集長。

文芸部5年目の私にとって、ラスボスとの対峙はまだ時期尚早だ。

「はい、時勢は厳しいですが、編集者には良い作品を世に出す責任と特権があると思っています」

これじゃ、まるで上官の観閲を受ける新兵だ。

真冬なのに頬が火照る。

「若いのにしっかりしてるな。感心、感心。それでその将来有望な編集者が俺に何の用だい?ここへわざわざ来るって事は、平尾には聞けない話なんだろ?」

常盤は掛けていた眼鏡を脇に置き、私の目をじっと見上げた。

うん、足が竦む様な眼光だ、と私は更にビビる。

「はい、実はわたくし、あの、来月号の特集記事で寺岡泡人さんの詩を担当する事になりまして、それで寺岡さんにもお会いしたのですが・・・わたくしの力不足で執筆をお断りされてしまいまして・・・・それで、その平尾編集長と寺岡さんとの間の・・・30年前の話を聞きまして・・・・それで・・・」

私は常盤巌を前にして、そういえば何を聞きに来たんだっけと自分でも分からなくなってしまった。

目の前の老人は30年前に最愛の一人娘を亡くしてしまった張本人だ。

それなのに私はその事を今更聞こうとしている?

それは余りにデリカシーに欠ける行為では無いかと、この期に及んで漸く気が付いたのだった。

本当にどうかしている。

私は為す術なく言葉を逸してしまった。

常盤はその様子を黙って眺め、静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

病室は静まり返り、外の通りを走る車の音や、街路樹を揺らす風の音まで聞こえてくる。

「あんたはあいつらの物語に巻き込まれちまったんだな」

常盤の声に先程迄の力強さは無く、どこか寂しげな、それでいて優しい響きが感じられた。

「平尾は咲の死に立ち向かおうと足掻いた。寺岡はそこからどこまでも逃げた。それはどちらにとっても、必死な生き方だったんだ。人生ってのは時に信じられない位に残酷な事をする。俺もこんな様になって、もう少しあいつらにやってやれた事があったんじゃねぇかってな。考えたりすんだ」

あずき色の革表紙の中に、閉じ込められた30年前の匂いを嗅いだ気がした。

私はそこで何が起こったのかを知りたいんじゃない。

そこにいた人達の事が知りたいんだ。

空っぽの頭で私が何とか導き出した答えは、〆切りに間に合うだろうか。

考えている場合じゃない。私がするべき事が、きっと何かある様な気がした。

私はあらん限りの力で、拳を握り締めていた。           


          9 


どこをどう歩いてきたのかもよく覚えていない。

膝はますます痛みを増していた。

私は常盤の病室を後にして、そのまま自宅に直帰した。

電気も点けず、カーテンも引かず、気が付いたら窓の外は真っ暗になっていた。

遠くの西新宿のビルの屋上で、点滅する赤い灯火を暫く眺めていた。

30年前、私が生まれた頃の話。

まだ詩や小説が若者達の思想の源流となっていた頃の話。

私には想像すら出来ない様だ。

父が死んだ時、一度出版社を辞めて松本に帰ろうかと考えた。

自分には必死になってやり遂げたいと思える様な事は、何も見つからない様な気がしていた。

それでも何とか踏み止まって、あと少しだけ、もうちょっとだけと続けて来られたのは、あの曲者編集長に少しでも認められたいという捻くれたプライドの所為だったのかも知れない。

私はダイニングテーブルの上のあずき色の革表紙を見た。

たった一冊の詩集にも、沢山の人達の人生が刻まれているのだと知った。

私は窓のない暗い夜に、30年の時を超えて私の部屋まで届いた、悲しくて美しい詩を、声に出して読み始めた。            


          10          


       3億年後のあなた   


  空気の乾いた朝に 


  死後の世界の匂いがした 


  わたしは宇宙船の小さな窓から  


  3億年後のあなたをみている  


  ふたりを分かつ隔たりは   


  弦楽四重奏のいななきだ   


  空腹が忘れさせるのは   


  あの日のあなたの手のあたたかさ  


明くる日の朝、日曜日の比較的空いている地下鉄を乗り継いで、私は谷中に向かった。

木造2階建てのアパートに、柔らかい陽が差していた。

2階の突き当りの寺岡の部屋の窓は、反対側だからきっと光は届いてないだろう。

私はじっとその建物を眺めていた。

窓のない夜と、空気の乾いた朝を繰り返し、寺岡は何を思いここで生きてきたのだろう。

たった1人で小さな窓から、何を見て過ごしてきたのだろう。

私はただ巻き込まれただけの、途中乗車の乗客だ。

ただ流されるままにここへやってきた。

頼りない筏で、ミシシッピー川を下るハックルベリー・フィンを想った。

その後に実り多き人生をと願い、私に実という名前を付けてくれた父の事を想った。

私はいつも空腹だ。

でもあの手の温かさは忘れていない。

そう寺岡に言おうと思った。


          完

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窓のない夜 ころっぷ @korrop

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