神保町の北倉屋
葵染 理恵
北倉屋
「ありがとうございました」
ポカポカと暖かい昼下がり。
母に頼まれて、御供えを物の塩豆大福を買って店を出たものの、あまりにも心地よい天気なので、僕は帰宅ルートを変えて散歩しながら帰る事にした。
住宅街の路地を左右に曲がりながら、木花を眺めていると、一軒の古本屋から、古紙と埃臭い香りが僕を誘ってきた。
神保町生まれの僕は、小さい頃から本が大好きで、この香りと共に育ってきたと言っても過言ではない。
(こんな所に本屋があったんだ…北倉屋…入ってみようかな)
店内はコの字型の小さな店で、床から天井まで、びっしり本が整列している。僕の好きなタイプの店だ。
一歩中に入ると、奥の番台で80歳くらいのお爺さんが新聞を読んでいた。お爺さんは眼鏡越しに僕を見るとすぐに視線を新聞に戻した。
僕は軽く会釈をしてから、日焼けして薄くなった本の背表紙を流れるように見ていった。
するとある本に興味を持った。
(美しい傷……作者は、あいぞめ?あおぞめ?なんって読むんだろう…)
僕はその本を手にとって裏表紙のあらすじを読んだ。
どこか冷めた心を持つ倉根真奈美は、友達に誘われてパパ活をしている高校生。父は倉根法律事務所を経営。母は専業主婦で、ほぼ毎日のようにホスト通い。父だけが、まともな大人だと信じていたが…ある日の夜、父の浮気現場を目撃してしまう。父に幻滅した真奈美は、家に帰らず苛立ちを押さえきれずにいると、顔の左側面がケロイドに覆われ、まるでゾンビのような顔の影山透と出会う。この出会いが真奈美の心を揺れ動かす。
(恋愛系かな?少しだけ読んでみよう)
ページを捲り読み始めると
(えっ!なにこれ、エロ…官能小説?出だしから、やってる…)
僕は本を閉じて、もう一度、背表紙を読んだ。
(あー、パパ活か…もう少しだけ読んでみるか…)
本に夢中になっていた僕は、お爺さんの咳払いで、我に返った。
気付けば、本の1/3ほど読んでいた。
お爺さんに「300円」と、言われて、僕は急いで財布を出して購入しようとしたが、大福を買った時のお釣の11円しか財布に残ってなかった。
「あの…現金のみですよね…」と、恐る恐る尋ねてみた。
「お前さん、金、持ってないんか?しゃあないな。やるよ」
「えっ?」
「わしが横におっても気づかんほど夢中になって読んでたじゃろう。そんなに気に入ったなら、ええよ。帰ってゆっくり読み」
「えっ…そんな…いいんですか?あっ、そうだ!」と、僕はお供え物の塩豆大福を1つお爺さんに渡した。
「あの良かったら、これ、どうぞ召し上がってください」
お爺さんは、塩豆大福を受け取ると、大笑いした。
「令和になって物々交換したのは初めてだ。懐かしいのう…」と、優しい笑顔をみせた。
「わしの妻は、ここの店の子でな、妻が店番をしていた時に、わしが店内で、お前さんのように夢中で本を読んいたら、妻に声をかけられて、買おうと思ったんじゃが、金が足りんくってな、すみませんと、返そうとしたら、どうぞ。とタダでくれよったんじゃよ。戦後の復興期じゃったから、物もあまりない時代にタダでもらうなんざ、申し訳なくてな、わしは走って土手に向かって綺麗な花を沢山摘んで【この花と交換してもらえんじゃろうか?】と尋ねたんよ。そしたら妻は【とても綺麗。ありがとうございます】って、たいそう喜んでなー、あの頃の妻は可愛かったんじゃよ」
「へぇー素敵な話ですね。今日は奥様はお出掛けですか?」と、訊くと、お爺さんは顔をそらして黙ってしまった。
(えっ…もしかして、もう亡くなっている!)
「あっあの、すみません。言いにくい事を訊いてしまって。もし良かったら、お線香を上げさせてもらってもいいですか?」
「ん?!どあほ!勝手に殺すな。妻なら、ぴんぴんしとるわ……今日は、わしを置いて、何とかっていう歌舞伎役者に逢いに行っとるだけじゃ」
「えーーーー誠に申し訳ありません!これ、奥様にもどうぞ!」
僕はもう1つ塩豆大福を渡して「失礼しましたーーー」と、逃げるように、出ていった。
すると店内から、楽しげな笑い声が聞こえてきたので、僕はホッとした。
神保町の北倉屋 葵染 理恵 @ALUCAD_Aozome
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます