第42話 離したくない、離れたくない

5月15日。

この日が忍の現派遣先の最終出勤日となった。

15日が締め日のため、育休で休んでいた人が16日からの復帰なので、その前日で契約終了となった。


いよいよか…


いつもより早く出勤して、自分の使っていたデスクなどを掃除する。


去年の夏、どんな職場かドキドキしながらやってきた。

最初に出会った松木さんがとても優しくていい人で、初日から安心したのをおぼえてる。

他の人たちもみんな明るくて派遣の私にも分け隔てなく親切で、いきなり歓迎会でハメをはずして飲みすぎた私を笑ってネタにしながら、仲間に加えてくれた。

イベント会社ってことでみんなでバーベキューしたり、アスレチックに行ったり、仕事外でも楽しかった。

定食屋さんのクーポンもらう度に、松木さんお昼連れていってくれたな…


やばい


楽しい思い出が多すぎて、


涙出てくる。


だめだめ


湿っぽい空気にはしたくない。


最後は笑って、立つ鳥跡を濁さず。


「よしっ」


トイレの鏡で、笑顔の練習。


松木さんが、笑顔がいいねってほめてくれたから


こんなかわいくない私でも、


笑顔に自信がもてるようになりました。



「おはようございますっ」

「おはよう、忍ちゃん」

いつものように松木が早くに出社してきた。

「今日は随分早いね」

「はいっ、今日が最終出勤日なので、気合入れてきましたっ。引き継ぎの準備もありますから」

「今夜、送別会盛大にしようね。忍ちゃん、よく働いてくれたからとても助かったよ。いい人に来てもらえてよかった」

「その言葉、派遣やってる身としては最高の賛辞です。ありがとうございます」


来てもらってよかった

助けてもらった


自分の力が役立ったと感謝される

これほどうれしいことはない


お昼前、長期休養していた経理スタッフが手みやげと産まれた赤ちゃんを連れてあいさつに来た。

スヤスヤ眠る小さなベビーに、皆メロメロ。

代わる代わるながめて子守りしてもらっている間に、業務の引き継ぎができた。

「仕事わかりやすくまとめておいてくださり、ありがとうございます。みんなから竹内さんのお話聞いてたんですが、本当に優秀な方なんですね」

社員の経理の子は、復帰後は時短勤務しながら家庭と仕事を両立させるらしい。


いいな

すべてを持ってる感じで


忍より年下の若いその子は、長い黒髪で色白、とてもきれい。

結婚も子供も仕事も美貌にも恵まれ…


神様

どうして世の中には

こんなにすべてを持っている人がいるんですか


それに引き換え私は…


あ、ダメです忍さん!

ダークサイドシノブになっては!

一見幸せそうな人も、誰しも何かしら悩みや不安はあるものですよ。

もしかしたら何不自由なく幸せそうなこの社員さんも、

嫁姑問題とか、子供の夜泣きがひどくて寝不足とか

あるかもあるかもですからっ。


はっ


嫉妬というネガティブな感情で闇落ちしそうになるなるところを、赤ちゃんの笑い声が救ってくれた。


純粋無垢な、屈託ない笑顔。


いいな…

みんな産まれた時は一緒。

何も考えず、寝て泣いてミルク飲んで…

ただそれだけなのに、周りの人を幸せにする存在。

それが成長していく中で、

弱肉強食の自然界の掟にのまれ

弱い者は強い者に支配されてしまう…


あっ、またメンタルが暗闇へ

今日の忍さんはナイーブです!!


そう、胸がザワザワしてる。

笑おう、笑顔でさよならしようと思うほど、

心の中にいろんな気持ちが渦を巻く。



定時の午後6時。

無事最後の仕事を終え、私物を片付ける。


ふぅ


深呼吸して、席を立つ。



ありがとうございました



心の中でこの職場に感謝を述べる。



ずっといたかったな



そんな気持ちとは裏腹に、無情にも旅立たなくてはならない。

来月からまた、新しい職場での勤務が始まるのだ。


「さぁみんな!今夜はパァーっとやるわよ!」

副社長の鶴のひと声で、残業無しで近所の居酒屋に流れこむ。

「さぁさぁ飲め飲め!」

「忍ちゃん飲み過ぎんなよっ」

「あぁっ、歓迎会の時の失態をほじくり返さないでくださいよ〜」

どっと笑いが起こる。

「いいじゃん飲み過ぎても、また松木君が送ってくれるでしょう〜?」

「もちろん、車なんで。方向も同じですし」


ドキッ


「大丈夫です!今日は電車で帰れますからっ」

強がりを言いながらも、本音ではもっと話したい。

もっと一緒にいたい。


2時間の飲み放題コースで飲酒組ができあがり、きりよく送別会はお開きになった。

「忍ちゃん!職場は変わっても仲間だから!また集まろう!」

「ありがとうございます!ぜひまた会いましょう!」

手を降って見送ると、必然的に残されたのは帰る方向が唯一同じ松木と忍になった。

「最期の最後まで騒がしい人たちだね」

「ほんとに、でも楽しいです」

屈託なく笑う忍に、松木は声をかけた。

「家まで送るよ」

いつもと変わらないやさしい笑顔。

「えっ、でも…」

「ついでだから」

ここで無理に断るほうが失礼な気がした。

それに、まだ離れがたかった。

「それじゃ、お言葉にあまえて…」


ブルルルル…

エンジンがかかり後部座席に乗ろうとすると、

「荷物置いてるから助手席でもいいかな」


えっ


近いっ


心臓の鼓動爆上がりだが、言われるままに座った。



どうしよう…

好きな人の車の助手席に座るって

夢のよう…


何を話せばよいかわからなくて

ただずっと

運転する松木さんの横顔をみていた。


対向車の明かりで浮かぶ

白くてきれいな肌

ギリシャ彫刻みたいなきれいな顔


まっすぐ前をみる瞳は穏やかで

やさしくて

でも時々どこかさみしそうで


離したくない

離れたくない


このまま日本の端までいってしまいたい


そんなことをずっと

考えていた。




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