太陽の国
風船葛
第1話
朝が来て、私は部屋のカーテンを開ける。空は雲一つない快晴だった。
「はあ」
もう癖になっている溜息をひとつ。どうやら少しだけ寝坊したようで、いつも起きる時間を十分ほど過ぎていた。いつの間に目覚ましのアラームを止めたのか覚えていない。
「ちょっと、起きてる?」
階下から母親の声がする。
「起きてるよ」
下まで聞こえるように叫び返して、ようやく私はベッドから出た。また長い一日が始まる。
特に急ぐこともなく朝の準備を終え、いつものように家を出た。煌々と蛍光灯のともる電車に乗って、ぎりぎり座れない程度の車内を移動し、人のいないドアに寄りかかってイヤホンをはめる。わざと小さめの音量で音楽を流して、耳の中で周囲の雑音と混ぜながら考え事をする。ここまで全てが私の日課だ。
窓から見える海は穏やかで、この時間でも既にシートを広げている家族連れが見えた。今日も浜辺は賑わうだろう。とはいえ人出が多いほど海に入ろうとする悪ガキが増えるから、警備員にとっては嬉しくもないことだろうが。子供と呼ばれる宇宙人は、海に入るのが違法だという意味を理解できないらしい。
「海まだ?」
「もうちょっとね」
近くで親子が楽しそうに会話している。まさしく浜に遊びに行くのだろう。観賞用の海を眺めながら砂の城を作って、お弁当を食べて、貝でも拾って帰るのだ。
電車が減速しはじめ、駅名のアナウンスが流れる。ここで私は降りなければならない。
ぷしゅぅ。
情けない音を立ててドアが開き、ぱらぱらと人が降りて行った。
「発車します」
アナウンスに少し遅れてドアが閉まる。そうして電車は走り出し、私はまだ車内にいた。さっきまでと全く同じ姿勢で、同じようにドアにもたれて。
「降りなかったんだ」
それが自分に向けられた声だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。視線だけ上げた向かい側で、同じ制服の少年がこっちを見ている。第二ボタンまで開けたシャツ、両耳につけた青いピアス、赤っぽい茶髪。同じクラスの不良くんだ。
「あんたもね」
私はそっけなく言い返す。
「まあ、俺は常習犯だからさ。真面目ちゃんが講習サボったって、後々面倒じゃねえの」
「ほっとけ」
軽く笑いながら言ってみたら、一拍間が空いてから彼も笑ってくれた。
「今日は別人格でも宿ってんのか」
「さあね」
こういう言葉遣い、一度してみたかったのだ。
彼と普通に喋っていることに、少しだけ不思議な感じがした。同じクラスになって数か月、実を言えば席も隣のヤツ。でも頻繁に学校をサボっているから、私の右隣はなかなかに風通しが良い。そんな些細な快適さに慣れてしまったせいだろうか。彼が出席していると、妙な圧迫感が気になるのは内緒の話だ。
がたんがたん。がたんごとん。
ガラスの向こう側には、いつもと変わらない真っ黒な海と真っ黒な空。砂浜に立った巨大な蛍光灯が、これでもかと眩しい光を放っている。
海を見つめたまま、ぼそりと言った。
「今日は行く気がしなかった。それだけ」
普通に学校へ行っていたら、今日も私の右側は広くて快適だっただろう。そしてこれからは、左側も同じように。
向かいの彼はいつの間にか本を開いていて、目を落としたまま返事をしなかった。聞いていたのかも分からない。
「馬鹿らしい。何もかも、馬鹿らしい」
それだけ言って私もまた黙った。
がたんがたん。たん、たん。
二人の間の沈黙を、電車のゆれる音がうめてゆく。
しばらく経ってから声が聞こえた。
「馬鹿らしくないことだって、きっとある」
視線を向けた先に彼の姿はなかった。今聞こえたのは空耳だろうか。それとも、彼が降りる直前に言ったのだろうか。
車内には私一人だけになっていた。一つ前に止まった駅の近くには家族連れで人気の浜がある。そこで皆降りたのだろう。
ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ……
ポケットの中で携帯が鳴っている。今時珍しい二つ折りのフォルムは、クラスで天然記念物扱いされているシロモノだ。
音が止まるまで待って開くと、電話の着信が一件。さっきは学校からだったが、今度は親からのようだ。
《そのうち帰ります》
事故だ事件だと騒がれると困るので、それだけメールで送った。送信完了のメッセージが出るのを待って、私は携帯を折った。真っ二つに。
がたんがたん。がたんごとん。
別にいい。メモリーは別媒体で保存してあるから、大事な情報は残っている。
「はあ」
本日何度目かのため息。でも嫌なため息ではない。何だか解放された気がして、ほっとしたのだ。
「終点、終点。ご利用のお客様には、お忘れ物のございませんよう―――」
ぷしゅう。
最後にまた気の抜ける音を残して、電車は去って行った。
結局終点まで来てしまった。私にとっては初めて降りる駅で、無人駅ではないのに人の気配がしない。とりあえず改札を出ると、目の前には小さな浜辺があった。立っている蛍光灯はもう錆びついていても、傾くことなくしっかりと砂浜を照らしている。
学校用の革靴のまま砂の上を歩く私は、やがて人影に気づいて声をかけた。
「こんにちは」
「どうも、お嬢さん」
老人が絵を描いていた。砂浜にイーゼルを立て、小さな折り畳み椅子に座っている。私が声をかけたとき、老人は絵具で色を付けている最中だった。
「きれい」
思わず声が出た。そのくらい、老人の絵は美しく思えた。青く澄んだ海は遠くまで続き、その果ての水平線から光が差し込んでいる。砂浜には蛍光灯などないのに、砂粒が光に輝いていた。つまり、この絵は自然の色を全く無視して着色されているのだ。
「太陽の国、ですね」
老人は顔をあげた。
「太陽の国の話を知っているかい?」
「ええ、もちろん。誰でも絵本で読んだことがあるでしょう」
「そうかい。どんな話だったか、聞かせてくれるかな」
突然そんなことを言われて少し戸惑いながらも、私は童話を思い出しつつ話し始めた。
「昔々、世界のどこかの王国に、太陽と月という二人の王子がいました。太陽はとても明るく活発な兄で、月はおとなしい弟でしたが、二人はとても仲よく暮らしていました。太陽は生まれつき不思議な力を持っていて、彼の力で、王国はいつも明るい光にあふれていました。太陽の光の中では、海も空も青く澄んで見えたといいます。
ところがある日、王様と喧嘩した太陽は王国を出て行ってしまいました。月は悲しみのあまり部屋に引きこもって、誰も姿をみかけなくなりました。さて、太陽がいなくなった王国は真っ暗闇です。光を作り出すことができたのは太陽だけでしたから。
王様は国中の発明家にお触れを出し、明るく照らせる光の代わりとなるものの発明をさせました。そうしてあちこちに灯台が作られ、街中は再び明るくなってゆきました。
それでも月は姿をみせませんでした。月は太陽がいないと、元気を取り戻すことができないのです。そこで王様の命令により、王国の勇敢な若者たちが太陽を探しに行くことになりました。きっと長い旅になるでしょう。それでも王国は、灯台をあちこちに光らせて、太陽の戻りを待っているのです」
老人は手を止めて、じっと私の声を聞いていた。
「こんな感じだったでしょうか」
私はテストの結果でも聞くように言った。
「よく覚えているね」
「ええ、まあ」
少しの沈黙。波の音が静かに流れる。
「青い海と空、本当にあったらいいのに」
「そうかい」
私たちの周りには、やはり真っ暗な空と真っ暗な海。それから数える程度のわずかな星と、錆びついた蛍光灯。
とても、とても静かな時間だった。
やがて老人はゆっくりと語りだす。
「太陽の国は、本当にあったんだよ」
どう反応していいのかわからなかった。驚くべきだろうか、冗談だと流すべきだろうか。
そんな私を見て、老人は優しく笑う。
「それでいい」
またしても私は困ってしまう。太陽なんて存在しないことは、誰にとっても知識以前の常識のはずだ。老人が本気で言っているとすると、妄想にでもとりつかれているとしか考えられない。
それでも。
「聞かせてください。本当の太陽の国の話」
老人は軽く笑った。
「ここが太陽の国だよ。私もお嬢さんも生きているこの国が」
「どういう意味でしょうか」
「あの童話は、本当の意味を隠して作ってあるんだよ。王子として出てくる二人は太陽と月という星のことだ。昔、太陽というとても明るい恒星があって、地球を照らしていた。月は夜になると太陽の光を反射して光って見えた。ところがあるとき太陽が消えてしまい、その光で輝いていた月も光らなくなってしまった。地球は真っ暗になり、大分数が減った人類は蛍光灯の光に頼って暮らしている」
「なぜ、急に太陽は消えたんでしょうか」
「それは知らないほうがいい。ここまで話したことも、見つかれば私は捕まってしまうのだからね」
沈黙。波の音。蛍光灯の光。すべてが迫ってくるような感覚。
私には分からなかった。
「なぜ捕まるのかということも、聞かない方がいいでしょうね」
「君は頭がいいね」
それからなんとなく二人で笑った。
「最後の意味はなんですか。若者が旅に出るというのは」
「ついさっき、旅に出たんじゃないのかい」
老人は携帯ラジオのスイッチを入れる。
《午前十時二十分、宇宙船打ち上げ成功――》
「惑星移住計画。開拓団のロケットが、ちょうど今日打ち上げだったね」
「それが旅、ですか」
「君たちはこれから順に、長い旅に出て行くんだろうね。どこかの太陽を探して。私はもうこの歳だから行くことはないだろうが」
地球環境に比較的近い惑星が見つかったのはもうかなり昔だが、やっと今日、試験的な移住の第一団が出発したのだった。そこには二十組ほどの家族が乗っているという。
「太陽からの光がなくなってから、人類は移住計画をかなり急いだらしいな」
「あの中に、友人が乗ってるんです」
「そうなのかい。うまくいくといいね」
「ええ」
左の席にいた彼女を想う。空になった席を想像して、惜別とは少し違った寂しさが胸を通り抜ける。
なぜ、私は向こう側ではなかったのだろう。
なぜ、私はここに居続けなければならないのだろう。
「本当は、私も」
その先は言えなかった。今まで通りに暗闇を吸って吐いて、私は重力に繋がれたまま生きて行くのだ。
「これから世界は変わる。もう少しだけ、待ってみてはどうかな」
「どういう意味ですか」
「さあね」
そろそろ失礼するよ、と老人が腰を浮かせた。絵はもう出来上がっていた。
「あの」
よいしょ、と小さな椅子を折り畳み、イーゼルとともに肩に担ぐ。
「無理に信じることはない。聞いてくれてありがとう」
最後まで謎の言葉を残して老人は去った。浜辺には私が一人残される。
「昔々、世界のどこかの王国に」
小さな呟きが消えて行く。
振り向くと、もうどこにも老人の姿はなかった。波の音が一人になった静けさを引き立てる。
私はぼうっと海をみつめた。海がこんなに暗くて寒かったら、泳ぐなんて自殺行為だ。法律で遊泳が禁止されているのも頷ける。太陽の国では、海で泳ぐなんてことも楽しみの一つだったのだろうか。それならば青い海の中の景色はどんなに美しかったことだろう。
私はしばらくそこにいた。どのくらいの時間が経ったのかはわからない。小さな浜辺にたった一人、私は砂の上で膝を抱えて、海を見つめていた。
「なにやってんの」
振り向くと、電車で会った不良くんが立っていた。
「何ってわけじゃないけど。考えてた」
「ふうん」
彼も右側に座った。何を、とは聞かれなかった。
「太陽の国って、本当にあったのかな」
私は思わず聞いていた。老人が去ってからも、そのことがどうしても頭から離れない。
しばらくして彼は言った。
「あったと思う」
隣を向くと、彼がこっちを見ていた。耳につけたピアスがきらりと光って、それはとても美しかった。太陽の国での海と空は、こんな色だったのかもしれない。
「絵描きのじいさんに聞いたんだろ」
「知り合いなんだ」
「知り合いっていうか、なんていうか」
そう言って彼は息を吐く。
「もっと知りたいか」
唐突に聞かれて、私は困った。
「太陽の国のこと、もっと知りたいか」
「あんたは知ってるの」
「知ってる。たぶん今日、じいさんが話した以上のことを」
少し経って、私は答えた。
「知りたい」
彼は軽く笑った。その笑い方がどことなくさっきの老人に似ていて、私は何だか分かった気がした。
「ついてこい」
そう言って彼は立ち上がり、私も後に続いた。
今日は不思議な一日だ。そして、面白い一日になりそうだ。
太陽の国 風船葛 @ultramarine
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