3つの嘘で返り咲く
梁名 鏡
1. 幕開けのトリガー
『初めまして。私はリビウス・ウィン・ラナンキュラス、あなたの婚約者です。よろしくね』
『何度言えば分かるのです!パルドサム家の令嬢ならば、伯爵家に泥を塗らぬよう常に完璧な淑女でなければならないのですよ。』
『お前のような愚図にはもったいない褒美でしょうが』
『我慢も限界だ。…アイリス・パルドサム。貴殿との婚約を、この場で破棄とする。』
『何を言うかっ!お前はもう伯爵家の人間ではない。』
・・・スッー
目覚めたばかりの爽やかな瞳で窓の外を見つめる。その紫色と同じ名を持つ彼女は、ヴァイオレットという。
昇り始めた太陽の明かりが時計塔の屋根を照らしている。
「……今日という日に見るなんて、なんて良い夢かしら」
彼女以外の者には、現実だったその悪夢を決して‘良い夢’と言うことはできないだろう。しかし彼女は清々しく笑っている。
バサッ
ヴァイオレットはベットから降りて身支度を始めた。ウェーブがかかったプラチナブロンドを優しく梳いて、質素で上品なドレスを身に纏い、お店を開いている下の階へ降りていく。
カランカラン
開店の表札を出した後は、お客が来るまで店の片隅で新聞を片手に紅茶を飲む。毎朝のルーティンだ。しかし彼女の表情はいつもの穏やかさとは何か違っている。
本屋,時計屋,パン屋が民家と入り組んでいるこの通りに、慌てた足音が聞こえる。呼吸を乱してスカートを翻すその少女は、夕日に反射したショウウィンドウの前で足を止めた。止めたというよりは、何か不思議な感覚に止められた。いつもは気にもとめていなかったそのガラス窓に、彼女はすい寄せられた。
「‘ビタークレス’…?」
看板には艶のある黒でそう書かれている。
大きなガラス窓から中をのぞくと花や装飾品、骨董品や異国の衣服、綺麗な女の絵画といった不思議なもので溢れている。
彼女は気がついたら扉を開けていた。
カランカラン…
「わぁ……」
店内は一層不思議な雰囲気で満ちている。彼女は商品の一つ一つに見とれて奥へと進んでいくと、女を見つけた。彼女はアンティークな椅子に腰かけ新聞を読んでいる。小さなテーブルからは紅茶の良い香りが漂ってくる。そして彼女の優雅な所作がこの店の店主が誰なのかを物語っていた。
「あら。お客さんかしら?」
ミステリアスな紫色の瞳をゆっくりと彼女に向けてヴァイオレットは言った。彼女は一瞬、その夜空のような深い色に吸い込まれそうだった。
「あっはい、いえ…素敵なお店だなぁと思ってつい入っちゃったんですけど…」
「それなら、お客さんね」
ヴァイオレットは柔らかな声でそう言った。
「気に入ったものはあったかしら?」
「いえ…特には…あっでも、ここにあるものは全部ステキだと思いますよ…!この剣とかあの青いマントとか!」
彼女の答えを聞いたヴァイオレットは一瞬何かを考えた。そして不敵に笑って言った。
「…ふふっ。やっぱりあなたは、私のお客さんみたいね?」
「え…?でも、私は何も買えないので…」
「まあまあ、とりあえず、ここへ座ってくださいな」
対にある椅子を指して言った。彼女は言われるままそこに座ると、目の前に紅茶が出された。彼女はその香りに懐かしさを覚えた。
「お口に合うと良いのだけど」
彼女はなんとなく声を出さずに頷いて、鮮やかに自分の姿を映すカモミールティーを一口だけ味わった。
「まだ自己紹介はしていなかったわね。私の名前はヴァイオレット・ビタークレス。見てわかる通りこのお店の店主よ。でもね、お客さんによっては相談にのったりもするの」
「相談…ですか?」
「ええ。あなたがここへ来た理由、それは何かを買うためじゃなくて、あなたが抱える特別な悩み事を解決するためかも知らないと、私は思うの。もし良ければ聞かせてもらえるかしら?相談くらいで代金を迫ったりしないから」
ヴァイオレットは冗談まじりにそう言った。
「あえっと…じゃあ、こんなこと言ってもしょうがないと思うんですけど…実は会いたい人がいて」
「あら、恋のお悩み?」
ヴァイオレットが興味ありげに聞いてきたので、彼女は少し恥ずかしくなって答えた。
「いっいえ!そうじゃないんですけど、その…ある騎士様を探してほしいんです」
「騎士?」
「えっと私、向こうの大通りで花屋をしてるんですけど、1週間くらい前に貴族っぽい女の人と一緒にいらっしゃった騎士様が『この花の名はなんだ?』と質問されたから、『それはポピーですね!いろんな色がありますけど、この赤い花が一番好き人気なんですよ!』ってお答えしたんです」
デイジーは絵に描いたように表情をコロコロ変えて話す。ヴァイオレットは思わず緩んだ口元をティーカップで隠した。
「それで、そのあとは何も言わずに帰られたんですけど…」
「今のところは何ともないわね」
「いやいや!ここからが大変なんです!その翌日!店じまいの準備をしていた時にさっきの騎士様が仲間を引き連れてきたんです…」
その夜、デイジーは店前の植木鉢を台車に並べていた。
『君』
いきなり現れた大柄な男たちの影に驚いて、デイジーは飛び退いた。
『あっはい!すいません今日はもう——』
『この店を閉めてもらう』
『え…?あの、ですから今日はもう——』
『そうではない。店を畳めと言っているんだ』
銀髪の騎士は印の入った書類を手渡した。
『え…っと、それはどういう…?』
デイジーが閉店命令の文字に戸惑っている間に、銀髪の騎士が指示を出した。
『探せ』
『はっ!』
部下たちが続々と店の中に押し入った。
バタバタバタガタガタ——
『あちょっと!…あの!』
デイジーが慌てて止めに入るも騎士たちは聞く耳を持たず、箱に詰めた花を次々と持ち出して行った。
「精一杯声をかけたんですけど全然聞いてくれないし…どうしたらいいのか分からなくなっちゃって、お店にあったものみんな持っていかれちゃって、そしたら最後に『次は店主と話をつける』とかわけ分かんないこと言われちゃうし…」
デイジーはガックリ肩を落としている。
「あらあら、ひどいわね…」
「はい…だから今働き先を探しているところで…」
「それで『何も買えない』って言っていたのね?でも、だったらその騎士に会ってどうするつもりなの?今の感じだと、あなたの話を聞いてくれそうにないけど…」
「あっそれは多分大丈夫です、お花をあげようと思ってて」
「花?」
「えっと、さっきの質問をされる前に聞かれたんです『アイリスの花はないのか?』って。でもそのお花が‘ヘリオトロ’から渡ってくるのが3日後だったから、『ない』って答えたんです。そしたら少し残念そうに『そうか』とだけ言われたんですけど…だから、よく分からないけどお花のことで騎士様を怒らせてしまったのなら、そのアイリスの花を渡せばどうにかならないかなーって…すごく欲しかったみたいだし」
「アイリスね…」
ヴァイオレットは小さく呟き、何か考えていた。
「あっそういえば、その話の時一緒にいたお嬢様がすごく嫌な顔をされてたんでした。やっぱりやめた方がいいかな…」
「…そうね、私もそう思うわ。さすがにお花じゃ解決できるとは思えないもの」
「やっぱり…でも、それじゃ私どうしたら…!」
デイジーの胸にまた不安が押し寄せて来た。そんな彼女とは裏腹に、
「ふふっ、そんな顔しないで?」
ヴァイオレットは涙が溢れそうなデイジーの顔を覗き込んで、笑顔でそう言った。
「でも——」
「大丈夫。私が解決してみせるわ。あなたには八方塞がりなこの状況でも私には突破する術を持っているからね」
「でも…私さっきも言いましたけど報酬にできるものなんて持ってないですから…」
「報酬…ね。私も初めに言ったのだけど、相談事にお金は取らないってね。だから、」
彼女は握りしめていたデイジーの手にそっと温かい手を重ねた。
「私に任せて」
ヴァイオレットの濃い紫色の瞳には不安は一切浮かんでいなかった。そして自信に満ちた笑顔でデイジーを真っすぐに見つめていた。それが分かった途端になぜだかデイジーの中の不安は消えていった。デイジーにはヴァイオレットの金色の髪が初めて見た時よりも輝いているように見えた。
「本当に良いんですか?」
「ええ、もちろん」
「…じゃあ、お願いします!」
彼女にすべてを預けられて、デイジーは少しだけ肩の荷が下りたような気がした。結局そのあとも三時間デイジーはお店に滞在したが、彼女にはその時間が妙に居心地が良かった。あんなに揺らいでいたデイジーの心もすっかり落ち着き、ヴァイオレットを信じる自信さえ湧いていた。
カランカラン—
「さてと、」
すっかり日が落ちて人の声もしなくなった頃、ヴァイオレットは店を閉めて、二階の自室に戻る。軽い足音が床に響いた。
「夕方には閉めるつもりだったのに…」
ヴァイオレットは鉢植えが一つあるだけの小さなベランダに干していたタオルを取り込み、夜空の空気を目一杯吸って深呼吸をした。空には青みを帯びたどこまでも深い紫が輝いていた。ヴァイオレットは笑みを浮かべて、落ち着いた張りのある声で言った。
「やっと歯車が回り始めた…さぁ反撃開始と、いきましょうか?」
その瞳は星々をしっかりと捉え、決意と自信を隠し切れずにいた。
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