夜空よりも暗い場所

遠野柳太郎

夜空よりも暗い場所

 真っ白な壁に覆われたバスケットコートほどの部屋に、ごうごうと空気清浄機が回る音が響いていた。研究所の喫煙室は二十四時間空いていて、うわの空の白衣を着た人々が、ベンチにだらしなく腰かけ、煙を燻らせている。根岸もその一人だった。

 研究室を出てからどのくらいの時間が経っているのか。座り心地のよいソファのせいにして、すぐ隣に置かれた観葉植物の葉をいじりながら、自分でも何を考えているのか判らなくなっている。

「根岸さん、休憩ですか?」

 そこへ長身の、やはり白衣を着た青年が声を掛けてきた。根岸は煙草を口から離すのも億劫そうにしながら言った。

「このままだと勤務時間が全部休憩になりそうだ」

「煮詰まってますねえ」

 隣に腰かけ、「滝井」という名札を下げた青年は笑った。

 根岸と滝井の勤める研究所は「象牙の塔」と呼ばれている。大昔から比喩として存在していた塔を、世界中が資金を出し合って、実現させたのがこの場所だった。元々は皮肉として考えられていた「象牙の塔」だが、俗世を気にすることなく学問に没頭できる環境こそ、科学者たちが心から欲する場であり、その力を存分に発揮できるようになるのだとようやく治世者達が気づいたのだ。建物は九十九階建てで、どれだけ煙に燻ぶられても黄ばない最新鋭の壁に囲まれた喫煙室は三〇階に位置する。

「そっちはどうだ」

「煮詰まってますねえ」

 先程と同じ言葉を口にした滝井は、嘆息した。

「まったく、十一次元っていうのはいくらでも仮説が立てられるくせに、どこにも見つけられませんね。もしかして僕は、神様を探しているのかもしれません」

「相変わらず古臭い概念が好きだな。研究費を取り上げられるぞ」

「だから内緒にしておいてください」

 滝井がポケットに小さなロザリオを入れて持ち歩いているのを、根岸は知っていた。けれど周囲には言いふらさなかった。そういう態度を気に入ったのか、滝井は顔を合わせると友人のように話しかけてくる。

「根岸さんの研究、大分進んだってこの前言ってたじゃないですか。暗闇をエネルギーに変換するって話」

「どうにもなあ。暗闇を食べてエネルギーを出す細菌は生まれてくれたんだが」

「ああ、クロロフィルの亜種を含む細菌でしたっけ」

 光合成ならぬ闇合成を行う細菌の開発は、ある地点で足踏みをしていた。

「数が、増えないんだ」

 根岸は吸い終わった煙草を揉み消し、二本目に火を点けた。滝井もへえ、と興味深げに相槌を打って、ずっと手に持ったままだった煙草をようやく吸い始める。

「変換されるエネルギー量も極めて少ない。おそらく、餌が足りていない」

「細菌が繁殖するための暗闇が足りないと?」

 ああ、と眉間に皺を寄せて根岸は頷く。

「なら、外にその細菌を持ちだしてみるのはいかがでしょう」

 ぽつりと滝井が言う。

「研究所にある暗室は、完全な暗闇を再現できるはずです。細菌がさらなる暗闇を求めているのなら、接している暗闇の面積が問題なのか、室内の暗闇では満足できないような、暗闇の性質とでも言うべき何かが足りていないんじゃありませんか?」

 頭の中の論点が急に整頓され、ほう、と根岸は頷いた。それを実証する手立てについて、考えを巡らせている内に煙草をもみ消した滝井が、提案があるのですが、と話し始めた。


 その晩、根岸と滝井は「象牙の塔」の屋上に立っていた。根岸の手には厳重に梱包されたシャーレがあった。九十九階の屋上、即ち百階と呼んでもいい場所に二人はいる。屋上には強風を緩和させる特殊な防風装置が取り付けられている事もあり、穏やかな夜空が頭上に広がっていた。

 二人が考えたのは「暗闇を食べる細菌を、夜の大気に触れさせた時にどうなるか」という実験だった。

 闇合成をする細菌がいるシャーレを一メートル四方の箱の中へ入れる。夜の暗闇で満たした箱を閉じ、遠隔操作で箱の中に残されたシャーレの蓋を開ける。これにより研究室の暗室とは異なる暗闇を細菌は摂取する。その経過反応を観察すれば、研究の完成も近付くだろう、というのが根岸が滝井の話を参考にしてまとめた実験計画だった。

 実験用に用意した箱は外気遮断機能と最高ランクの耐衝撃性を兼ね備えた代物で、万が一の事態にも備えはできている。

「何だか、ワクワクしますね」

「他人の実験でそんなに喜ぶのはお前くらいじゃないか?」

 軽口を叩きながら、根岸はふと、なぜ滝井がこれほど自分の研究に携わろうとしているのか不思議に思った。

 普段ならば自らの研究について根岸が誰かに相談することはなかった。研究というものはいつでも秘密裏に行い、必ずそれを完成させた第一の人間とならなくてはいけない。そうでなければ結果を残す人間にはなれないからだ。周囲は商売敵であり、情報戦は熾烈を極める。

 しかしその一方で、研究者は自分の領域から外れた分野について、ほとんど知識を持たない。だからこそ、まったく分野の異なる研究者である滝井にだけ、根岸は研究の内容を愚痴混じりに話したのだ。研究者は己の領域外の話に興味を持たないというのに、滝井は熱心に根岸の話に耳を傾け、助言を与えてくれた。

 彼と出会ったのはいつだったか。確か、煙草を切らして舌打ちしていたところに、滝井が良ければ一本、と差し出してきたのが始まりだった。何階から来たんですか、と滝井が尋ね、根岸は二十九階、と答えた。ああ、暗闇エネルギーの、と滝井は合点がいったようだった。

 ――なぜ、滝井は即答できたのだ?

 その疑問に行き着き、根岸は滝井の方を見た。九十九階建ての「象牙の塔」は各階ごとに研究分野が異なる。その複雑な研究テーマを全て覚えている人間がどれだけいるというのか。滝井はいつものように穏やかに微笑んでいた。彼がまるで根岸の助手であるかのように手元のリモコンを操作しようとしていた。

「やめろ!」

 動物的な直感が根岸を動かし、滝井の手からリモコンをもぎ取ろうとする。だが、スイッチは澱みなく押された。

 その瞬間、最新技術によって安全性が確約されていたはずの箱が紙風船のように破裂した。箱が内容物の急激な体積変化に耐えられなかったのだろう。根岸は咄嗟に腕で顔や首を覆った。腕に鋭い痛みが走る。箱だった金属の破片が突き刺さっている。何が起きたのか。根岸は呻き声を漏らす。夜の暗闇を摂取した細菌が、根岸の想定以上にその数を増やしたのだ。窮屈な箱から解き放たれ、暗闇を食らう細菌が「象牙の塔」の上空に散布されていく。

 穏やかな夜に、夜よりも暗い色をした黒点が現れ始めた。ガサガサと何かの音がしている。桑の葉を蚕が食べているような音だった。黒点はさらに膨張した。星の光すら飲み込む、大きな穴が空に生まれていく。夜が蝕まれていくのを根岸は呆然と見上げるしかなかった。

「一体、何が……」

「あの細菌は、暗闇ではなく、光のない空間を食らって大きくなるんでしょうね」

 夜空と言う膨大な餌を得て、細菌たちは空間を齧り取っていった。食われた空間が消失したことによって生じた穴。

 滝井曰く。全ての次元は隣り合わせにありながら、その存在を視認することは決してできなかった。少なくとも人間が、異次元の世界を感知することは不可能だと思われていた。

 だが、隣の世界と隔たっている「壁」を壊してしまえば、滝井の研究対象である違う次元への糸口が出現してもおかしくはない。

「お前は、最初からこうなることを知ってたのか?」

「いいえ。全ては仮定にすぎません。現に、ほら」

 滝井は黒点の中心を指差した。

「あんな大いなる存在が僕らの世界の外側にいるなんて、どんな計算式で導き出せるんですか?」

 彼の指先は震えていた。ポケットの中のロザリオに縋ろうとしているのに、身体が動かないようだった。月よりも遥かに大きな目玉が、黒点の中心から根岸と滝井をじっと覗き込んでいた。


〈了〉

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