裏返し

@MituruArima_

第1話

学生時代は四年間、婦人服販売店で「売り子」のアルバイトをしていた。売り子は殆どが正社員で、年齢は私と同じくらいか少し上の人が多かった。男性社員は店長とバイヤーなど数人で、あとはほぼ全員女性だった。

女性同士の世界ならではの、上下関係や嫌がらせなどもここで初めて経験した。鈍感な私にはたいして辛い経験もなかったように記憶しているが、苦手な人はいた。

所謂「女番長」的存在のHさんだった。


Hさんは身長が百七十二センチという大柄な人だった。その上に九センチヒールのパンプスをいつも軽やかに履きこなしていたから、私はいつも見上げるようにしていた。細身で首が長く色白で顔が小さい。ワンレングスの髪をかき上げる仕草はモデルのよう。ちょっと見、山口小夜子さんのような綺麗な人だった。

機嫌のいい時には私は頭を荒っぽくガシガシなでられ、こんな風に聞かれることもあった。

「在間、お前身長何センチ?」

首をすくめながら恐る恐る

「百五十二センチです…」

と答えると、

「はっ!ちっさ!」

と鼻で笑われたものだった。


どんくさいことをしようものなら、

「在間!なんやってんの!ボケ!」

と容赦なく叱責が飛んでくる。店長以外は相手が誰でも常に呼び捨てである。お客様の前であろうが関係なく、その声は大きい。目が細く吊り上がっているから、こちらに顔を向けただけで睨まれているような気がして、悪いことをしていなくてもそばにいる時は常にドキドキしていた。


休憩時間にはいつもロッカー室で、美味しそうに一人プカプカと細い煙草をふかしていた。煙草はHさんのしなやかな小指と薬指の間に器用に挟まれて、時折リズミカルに上下していた。

大勢が使う着替えの為の狭いスペースも、我が物顔で床に直座りして占領している。そこを通過しないと自分のロッカーに到達できないから、無造作に床に投げ出された細長い脚を

「失礼します」

といっておっかなびっくり跨ぎながら自分のロッカーに向かう。そんな時Hさんはわざと脚を動かして、私を引っかけそうにすることもあった。

こっちは踏んだらまた「在間!テメエ!」と怒られるから、必死で避ける。まるでバンブーダンスのようになる。Hさんは慌てる私を見て喜んでいるようだった。


ある時、バイトを終えて着替えのためにロッカー室に行くと、運悪くHさんが休憩中だった。私はまたバンブーダンスされないよう、急いで自分のロッカーに到達して、

「お疲れ様です。お先です」

と言うと一目散に着替えを始めた。ちょっとでも早くHさんのそばを離れたい、そんな気持ちだった。

「在間」

Hさんが突然私に話しかけてきた。でも私の方は見ていない。顔は正面を向いたまま、煙草をくゆらせている。

「はい」

私は緊張しきって返事した。するとHさんはそのままの体勢を崩さず、

「私、怖い?」

と聞いた。

いつものからかうような調子ではなく、静かな声色だった。どう返事しようか。私は答えに詰まった。さっきまでの急いた気分が吹っ飛んでしまった。怖がり過ぎたかも知れない。悪いことをしたような気がした。

そんな私に気付く風もなく、Hさんは続けた。

「大学って、楽しい?」

「え?」

「私、ド田舎の高校卒業してすぐ就職でこっち来たからさ。大学行く子なんて周りにあんまりいなかったんだよ。ここのバイト、お前もやけどみんな大学生やん?楽しそうやな、と思ってさ」

バイト同士は仲が良く、一緒に食事に行ったりすることもあった。美大生や音大生もいて、授業や彼氏の話などして休憩時間にロッカー室で盛り上がることもしばしばだった。

Hさんが山陰地方の出身であることは噂で聞いていた。そうか、そんな風に見られてたんだ。気付かなかった。

「いろいろありますよ。楽しいだけじゃありません」

望んで入った大学ではなかったが、それなりに楽しい大学生活を送っていた。でも今それを正直にHさんに言うのはなんとなく憚られた。それで、そんな答えになった。

Hさんはちらっと私を見て、

「ふーん。お前もいろいろ大変なんやな」

と言った後ニヤッと笑って、

「お前さ、ブラジャー裏返し」

と下着姿の私を指さして煙草をぎゅっともみ消すと、

「お疲れっ」

と言って長い脚をしまって立ち上がり、店に戻っていった。


私のブラはその時本当に裏返しになっていた。恥ずかしいったらなかった。朝慌てていたから気付かなかったようだ。

誰も居なくなったロッカー室で、Hさんとのさっきの会話を反芻しながら私はゆっくりとブラを着けなおした。


夫が風呂上りに、よくパンツを裏返しに穿いてすました顔をしているので、

「ちょっと、裏返しやで」

と笑いながら指摘するのであるが、こんな時Hさんとのやり取りを思い出すことがある。

Hさんは田舎に帰って、地元で結婚されたと聞いている。きっとブライダルモデルのような花嫁さんだったろう。ちょっと見たかった。

怖かったのに、なぜか忘れられない人である。

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