第四話 きいろいジュース


 四歳の頃、幼稚園が休みの日や帰宅後に必ず行く場所があった。それは子供の足でも家から数分で着く、私のお爺さんの家である。

 

 いつも白いシャツにネクタイ姿で過ごしていた、お爺さん。背が高くスマートな体型をして目鼻立ちがハッキリした顔立ち。

 特に日本画に描かれた龍のように伸びあがった眉毛が大好きで、タバコを好んで吸っている姿に憧れていた。


 お爺さんは、《海水浴場まで徒歩一分》が、うたい文句の大きな旅館を経営していて、家族やパートさんた達と一緒にバタバタと切り盛りしていた。

 しかし、私が旅館の隣に住むお爺さんの家に訪れると、仕事を誰かに任せて、いつも笑顔で迎えてくれたのをよく覚えている。


 「賢治、また木の下に涼みにいこか」

 

 お爺さんはそう言うと、額のシワに溜まった汗を手で拭い、少し先に見える場所を指差した。

 その先には、海からの風を防ぐ為に植えられた松の木が、未舗装の道路に寄り添うよう植えられているのが見える。

 

 「このゴザ持って、一番大きな木の下で待っちょれ。ワシは飲みもん取ってくるでな」

 

 「うん、“お気に入りの場所”だね」


 私はゴザを両手で持つと、でこぼこの道を足元に小さな砂ぼこりを巻き起こしながら、“お気に入りの場所”へ向かいだした。

 

 そこは無数の松並木の中でも、家より高く、抱きついても両手がくっ付かない大きさなので、すぐに分かる場所。

 

 松の下に自分の背丈より大きなゴザを広げ上に乗り、靴を脱いで裏返すと、いつから入ってたのかと思う程、沢山の砂利がパラパラと落ちていく。

 ついでに靴下も脱ぎ捨て、松の根っこで膨らんだ部分を枕にして、仰向けに寝転んで足の裏の砂を払った。


 「よし、これでバッチリ!」と座ってみると、今度はお尻に何か違和感を感じるので、サッとゴザをめくって見たが何も無い。

 不思議だなぁと思いつつ、もしかしたらとポケットの中をゴソゴソ探ると、入れっぱなしになっていたアメ玉が一つ出てきた。

 暑さで溶けただけで、まだ食べれるだろうと判断して、ベタベタにくっ付いた袋を破り口に放りこむ。

 

 この場所は本当にお気に入りだった。

海から吹く風は木々の間を流れ、心地よいリズムで身体に触れるので、ついつい大きな声が出てしまう。

 

 「涼しいぃー!」

 

 お日様に照らされ光るのは、水面だけではなく、見上げた松葉の枝の重なった隙間が、ピカピカ光るのが好きだった。

 目の前にキラキラと光る海を見つめ、アメ玉が口の中で溶けて無くなるまでに、お爺さんが来るといいなと思っていると、サワサワと太ももに何かが触れる感触が起きた。

 ガバッと起き上がり、半ズボンから出ている白い太ももに黒いゴマ粒が見える。

 いや……、動いている。

 

 「アリさんだ!」

 

 立ち上がって、さっと手で振り払いのける。周りをよく見ると葉っぱをつたいゴザの上に乗ったアリ達は、お菓子の食べかすの方に向かって並んで歩いている。

 

 「ここはだめ、入ってこないで! ふぅー、ふぅー!」

 

 私は急いで四つん這いになると頬を大きく膨らませ、アリをゴザの外に吹き飛ばし始めていく。

 一匹。また一匹と、無我夢中になり息を吹き続けている最中の事だった。

 後ろから、お爺さんが頬に瓶をくっつけてきたので、反射的に大きな声をあげる。

 

 「うわぁ──!」

 

 「ホッホッホッ! 冷え冷えのオレンジジュース持ってきたぞ」

 

 「もぉー! つめたぃー!」

 

 イタズラをされ頬を膨らませ怒る私に、皺くちゃな顔で笑いながら、透明な瓶を差し出すお爺さんの手には、黄色い水が揺れている。

 待ち望んでいた瓶を見たとたん、気持ちのスイッチが切り替わって今度は違う声をあげた。

 

 「やったー! きいろいジュース!」


 早速、両手で瓶を受け取ると既に瓶の蓋が外れていて、ごくっ、ごくっ! と一気に飲みこむ。半分以上が、すぐに無くなるのを見ながら、お爺さんは私の目の前に、自分の瓶を揺らしながら話をし始めた。


 「賢治、よく見てみぃ。この色は黄色じゃなくてオレンジ色やろ。だからオレンジジュースや」

 

 「えー、きいろいのになぁー、きいろいジュース!」


 「ホッホッホッ! そうかそうか、賢治には、そう見えるんやな。まあ、そんなことどうでもええわな」


 黄色の水なのにオレンジ色だと言われムキになる僕だったが、お爺さんがニコッとするのでつられて笑う。

 

 「で、何をしとったんじゃ?」


 「アリさんをね、ふぅー! って吹き飛ばしてたんだ。お菓子を取ろうとしてたのかな?」


 お爺さんは、にっこり笑いながら言った。

 

 「アリも自分の仕事をしとるだけじゃて」


 「アリさんの仕事ってなに?」


 お爺さんは座り込み、ゴザの上で涼みながら教えてくれる。


 「アリ達は協力して食べ物を集めて巣に持ち帰る。それが彼らの大切な仕事じゃよ」


 「そっか、アリさん働いてたのか」


 「ああ、小さな存在でも一生懸命に仕事をするのが大事なんじゃからな」


 お爺さんに、その言葉をかけられたアリ達がなんか羨ましく思えて「僕もお手伝いしてるよ!」と伝えると「ホッホッホッ。賢治も頑張り屋さんやな」と褒められて、とても嬉しかった。


 「賢治が、アリじゃったら先頭に立って、みんなを引き連れとるかも知れんのう」


 「うん、僕が先頭に立って皆んなにお菓子の場所を教えるよ」


 「そうかそうか。大変やろうけど、そうなって欲しいのう」

 

 他愛もない会話が続く。暖かい光に包まれながら、ほんの小さな冒険を繰り返す毎日。

 お爺さんの側で過ごす時間は、いつも新たな気づきと温かさに満ちている。

 風に吹かれ、まだ若い緑色の松葉も小さく揺れているのを見て、この風も松葉を揺らすために働いているとその頃は、そう思い込んでいた。


 そういえば、お爺さんが持ってきてくれるジュースは、きいろいジュースだけではなく、ガラス玉が入っているラムネを持ってくる日もあった。

 

 美味しさは、きいろいジュースが一番だけどラムネの瓶に入った透き通ったガラス玉を取り出してくれて、絵本の中に出てくる宝石を手に入れた様で、ワクワク感が止まらない。

 

 ガラス玉越しに覗き見る空や海、松の木やお爺さんを眺めると形が歪んだりするのが面白くて、ずっと眺めている姿を見たお爺さんは、そんなに好きならと松の根で盛り上がった下を掘ると、ガラス玉を宝物の様に土を被せていった。


 「ここに埋めときゃー、いつでも取れる。ガラスは腐らんから大丈夫やろ」


 「ガラスって腐らないの?」


 「あぁ、そうや。ガラスやプラスチックは腐らへんから形が変わらん。私等より長く生きるわい」


 「他にも変わらない物ってあるの」


 「そうやなぁ、またこの根っこの下にでも隠しておいたらぁな。ん? 賢治、もう飲んだんか。赤い冷蔵庫に置いてるから、欲しかったら何本でも飲んだらええ」


 お爺さんは、ジュースをあっという間に飲み終える僕に毎回言ってくれる。

 でも調子にのって一度飲み過ぎたため、お昼ご飯が食べれずお母さんに叱られたので、それからは一日、一本だけと我慢するようにしていた。


 「何本でも飲んでもええ」って言われたことが不思議だったから、お母さんに質問した事がある。

 

 「お爺さんのは横の旅館には何でいつもジュースが何十本もあるの? ジュースが大好きだから?」

 

 「フフフ! お爺さんは、家の向かいにある旅館の仕事をしていているの知ってるわね。旅行にきた時は皆んないつもより贅沢したくなるの。だからお酒が飲めない人や子ども達の為、お食事の時に飲んでもらえるように沢山置いてあるのよ」

 

 「へー、じゃあ僕が子どもだから何本も置いてくれてるのか」

 

 「そんなわけないでしょ。お爺さんが何を言ったか知らないけど節度を守ってもらってね。そして必ずありがとうと感謝の言葉をいうのよ」

 

 「うん、わかった!」


 実際その時は、分かっていなかっただろうと思う。

分かっていたのは、お爺さんはカッコよく、とても優しくて怒らないので、私が最も大好きな人だったことだけだった。

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