梛木大夢について
昔から自分の名前が好きではなかった。ひろむ。大夢。大きい夢。
自分の名前をかくとき、名前を呼ばれるとき、自分の矮小さを目の当たりにしているみたいで。
一生のうちで一番かくし、耳にするだろう。この生まれながらにして背負った十字架とは死ぬまで付き合うことになる。
小さいころは特になんとも思っていなかった。認識としてはヒロムだったから。特に意味のない文字の羅列。ただの自分の生物としての名称。
だけど、大きい夢なんて、小学校低学年で習うような漢字だ。まだ小さいながらも、その意味は理解できた。
一番最初に将来の夢は? と聞かれたときなんと答えただろう。いや、答えなかったのかもしれない。少なからず誰にだって、幼いころは夢なんて大それたものはなくとも憧れがあったのではないだろうか?
古い記憶にあるのは、親戚の人たちが集まった時。正月とか、冠婚葬祭とか、お盆とか、時期は覚えていないけど。その時に感じたモノだけははっきり覚えている。
お酒を飲んでいい気分になっているおじさんに、軽い気持ちで聞かれた質問だったと思う。ヒロムの将来の夢はなんだ? と。
答えられずまごまごしている自分を見かねた母親が、お父さんのようなお医者さんになるのが夢なのよね? と仮面でも張り付けたような笑顔で答えていた。
そうか名前の通り大きな夢だな、頑張れよとかそんなことを言われたと思う。その場でこの話題は終わった。
自分の名前に不快感を覚えた最初の出来事。
それ以降は将来の夢を聞かれれば医者と答えておけば楽だった。小さいころまでは。
「ヒロム、未だに九九を覚えてないのはあなただけって連絡きてたわ。恥ずかしいから、早く覚えちゃって。継夢はもうとっくに覚えてるわよ」
なんてことを言われることは日常茶飯事で、それくらいまったく勉強ができなかった。
なにかといえば双子の弟の継夢と比較されて、弟だけ褒められて。私は塾はおろか、通信教育さえ習わせてもらえなかったというのに。かといって勉強を教えてもらえるわけでもなく。
「お前ってほんとバカだよな。九九もわかんねーのかよ」
弟は私と違って、小学校から受験して私立の学校に通っている。当然、私より頭がいい。そんな弟は母親とともに私を見下していた。
「私は……ツグと違ってバカだからね」
このころから、なにかといえば笑うようになった。だけどそれは弟は気に入らないようで。
「……ツグって呼ぶなよな」
双子って物語の中だと仲が良かったり、お互いを助け合ったりしてるもんだと思ってたけど、どうやらそれに当てはまらないようで。私と同じ顔をしているのに、ただ性別が違うだけなのになんでなんだろうって。
でもそんなのが当たり前だったし、家族に不和が生じないように私はひっそりと生きていこうと思っていた。だけどそんな私にも転機が訪れた。
その日はクラスの皆がグラウンドやら体育館に遊びに行ってる間、九九を覚えるために一人教室で残っていた。私に唯一与えられた勉強道具は教科書とノートのみ。穴が開くほど凝視していたその時。
「なにしてるの?」
後ろから誰かに話しかけられた。私は驚きよりも早く覚えなきゃ、と藁にもすがる思いでその声の主に聞くことにした。前日に母親から早いとこ覚えてしまいなさいと言われていたから。
「これ、わからなくて……」
「どれ?」
その声の主は幼稚園の時に少しだけ話したことある女の子だった。後の友人である嵐山誉――ほまちゃんだ。
友人は私のことを覚えているかわからなかったが、私はほっとした記憶がある。
九九のところを指さすと不思議そうな顔をしていた。
「九九、わからないの?」
「……うん」
友人はちらと提示版のほうを見た。提示版には九九の達成度評価の紙が貼られていて、私だけ終わっていなかった。
「九九は計算するより、リズムで覚えたほうが早いよ。明日あたしも暗記するのに使ったCD貸してあげる!」
「……いいの?」
「もちろん! あたしはもう覚えたから大丈夫だよ」
「ありがとう」
先生に頼んでも教えてくれるどころか、家に連絡がいってしまった。今まで頼れる人がいなかったが、初めて手を差し伸べてくれる人が現れた。
私は友人に貸してもらったCDで無事九九のテストには合格することができた。友人も自分のことのように喜んでくれて。感謝してもしきれない。
その後も勉強のことを世話してくれたのは親でも先生でもない、友人だった。友人が教えてくれる勉強はなんだか初めて世界が広がったような気がして。みんなが勉強を嫌だといってる中、私は友人とともに楽しんでやっていった。
だけどそんな変化を喜んでくれる人は友人だけだった。
「まだそんな問題やってるんだな。俺なんて――」
「……ほら、継夢も勉強しなさい」
母親と弟は私が勉強してるのがどうやら面白くないみたいで。時折茶々をいれてきたが、気にせず勉強を続けた。
中学に入ってからしばらくたって、学年テストが行われ上位の成績を収めることができたのだ。一番はもちろん友人。
私が勉学で成果を挙げたのが余程気に入らないらしい。小学校の時は誰でも取れる、と言われ認められることは決してなかったが、中学は結果がモロに出る。結果はもってこいと言われていたので、素直に持っていったら目を見開いてその紙をみていた。
「そのまま続けなさい」
それだけ言い残して、母親は弟の部屋へいった。怒声が聞こえる。どうやら最近弟の成績が芳しくないようだ。
そんな調子で、中学校生活を送っていた。いつ爆弾が爆発するかわからないような環境で、私の味覚はなくなっていった。この頃には将来の夢が医者だといっても笑われなくなったのが皮肉だ。
息をするのも必死な日々が続いて、ついに運命を分ける日がくる。そう、高校の判定が出る日。私は今の高校の特進科と弟が進学するはずだった私立の学科も受けさせられた。両方ともA判定だった。だが弟はエスカレーター式なのにも関わらず、進学が危うい状況にまでなっていたらしい。
結論から言えば、弟は都心のほうの高校に行くことになった。父が都心のほうで医者をしているので、きっと三人で暮らすことになるのだろう。私は当然そんなことはまったく知らされてなかったので、一人こちらの高校に通うために元々住んでいた家に一人暮らしをすることになった。
「勉強は続けてなさい。成績とテストの結果は送って。成績がもし下がったらこっちのほうにきてもらうから」
母親の決定には逆らえない。私は一人残され、勉強を余技なくされた。自由にできていたはずの勉強が、母親のこの言葉のせいで支配下におかれたみたいでとても息苦しく感じてきている。
成績が上位にいる限りは一人平穏に暮らせる……?
一応勉強に集中できるように家事代行サービスを頼んでくれるそうだ。家を汚くされても困るから、というのが本音だろうけど。
世界を広げてくれたはずの勉強は、壁があって。それ以上広がることもなくて、結局私は壁にかいてある絵を世界だと信じていただけなんだ。
だったらもうその幻想を自分の夢だと思い込んで、勉強するしかないじゃないか。
「……お前って本当バカだよな」
弟が最後に言い残していった言葉だ。その通りだと思う。
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