咎の行方
春分秋分
1
男は
「ここら辺はやけに生命力に満ちているな。近くに龍脈でもあるのか? それにしてもなんて暑さだ、こりゃきつい」
髪色はいたって普通の黒色だが、灰色の目をした外国人風の男は一人呟いた。
重たいリュックサックを担ぎ直し、垂れる汗をタオルで拭いながら一人山道を進む。
彼がこんな目に遭っているのは、ある噂を耳にしたからだ。中国地方の山中に、鬼が今も隠れ棲んでいるという話を、旅先で聞いてしまった。聞いてしまえば、調べるしかない。彼はそんな性分なのだ。それに他に行く場所もなかった。
「そろそろ小さな集落があるはずなんだがな……」
男が地図から顔を上げると、
何人かの住民が農作業で外に出ているのを確認すると、早速聞き込みを開始する。
「すいません。少々お時間よろしいですか?」
「あんた、見ない顔だね。それにその眼、外国人かい? こんなえらい田舎まではるばる何の用だい?」
白髪の老人が話を聞いてくれた。この暑さのせいか、額いっぱいに玉のような汗を浮かべている。年齢は70代ほどだろうか。
「ええ、まあ。留学生です。大学のゼミでここら辺の神話や伝説を調べてるんです。噂によると鬼が今も棲んでいるとか。何かご存じないですか?」
「ああ、そりゃ鬼隠れの里のことかい? ここいらでは昔から有名な話だよ。
「それなりには。京都の大江山が舞台の鬼伝説にはいくつかありますが、一番有名なのだと
「おお、詳しいな。その酒呑童子の一派は、大江山を根城にしていたが、時々都に降りてきては何人か人を攫っていったそうだ。実はその一派の鬼の中に、大江山から攫った人間を引き連れて逃げ出したものがいたらしい。そいつは朝廷の追手から逃れ、ここ中国地方の山地に流れ着いたという。その子孫がまだ隠れながら暮らしている、というのが鬼隠れの里の伝説だ」
「なるほど。詳しくお話を聞かせていただき助かります。その里の、具体的な場所とかは……?」
「そんなもん分からんよ。分らんから伝説なんだ。儂も長いこと生きているが、鬼なんぞ見たことはないし、見たことがあるという話も聞いたことはない」
既に知っていた情報しか聞き出せなかった男は、少し落胆した表情で続けて問いかける。
「ですよね……。ちなみに、この集落の先には何があるんですか?」
「何って、山しかねえさ。この先の山々は人の手が入ってねえんだ。昔から山奥に入っていっては迷子になるやつが多すぎる。ここ数十年は誰も入ろうとしねえよ。標高は高くないんだがね、どうも感覚が狂わされるようで困る」
男はなぜか納得した様子で頷いた。
「それはとても興味深いお話、いや、恐ろしいお話で」
「悪いことは言わん、入るのはやめておけよ。特に素人には無理だ。山をなめるなよ」
老人は真剣な眼差しで男を見つめる。彼は本気で心配しているらしい。男が外国人であることも彼の心配を大きくする要因の一つなのだろう。
「忠告感謝します。ですが心配には及びません。このまま引き返して宿に戻りますよ」
男は老人を安心させるために、思ってもいないことを笑顔で口にする。
「そいつは良かった。それじゃ儂はたばこにするかな、あんたはどうする?」
どうやら作業を中断して休憩に入るらしい。この暑さだ、ずっと働き続けていてはたまらない。
「お気遣い感謝しますが、もう帰ります。宿から徒歩で来たもので、そろそろ戻らないと日が暮れてしまう」
「そうか、気をつけてな」
「はい、ありがとうございました。それでは」
別れ際に笑顔で手を振ってくれる老人に対し、男は手を振り返す。いったん山道に戻りながら、この後のことを考える。
「やはりこの先か。あれを使うか……」
先ほどの山道まで引き返した男は一人呟きながら、リュックから黒い布を取り出す。
とある魔術師から渡されたものだ。それは何よりも黒く、まるで月明かりさえ届かない夜の闇そのものを内包しているように見える。本来天敵から身を隠すためのものであるが、他にも使いようはある。
山奥に入るのを村人に見られるわけにはいかない。もし警察でも呼ばれたら騒ぎになる、それは避けたい。既に答えは出ている。しかし褒められない使い方に対して申し訳なさを感じるからだろうか、儀式のように何往復も考えをめぐらす。
意を決し男は布を頭から被る。すると彼の身体はまるで陰に呑まれたかのように、その場から完全に消えてしまった。誰の目からも彼の姿形は見えない。否、姿形だけではない、匂い、音、気配、彼を彼と認識するための全てが消失したのだ。人も、動物も、草木までもそこにいるはずのものを知ることはできない。
「よし、行くか!」
農作業にいそしむ住民達を横目に集落の中を進む。
これは男にとって決して無謀な強行軍ではなかった。彼にはおよそ人には見ることのできないものが見える。この先の山々が発するただならぬ気配、各所を流れる命の源。そして現代の日本では見ることのない旧生物の姿。彼の眼には最初から見えていた。
これは確かな予感だった。求めるものはこの先にある。
彼は一人深呼吸をし、命みなぎる緑の中へと足を踏み出した。
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