恋駆ける

#zen

第1話 バイトでホイホイ



 とうとうと流れる浅瀬に、木の上でさざめき合う小鳥たち。


 暖かい日差しに包まれた長閑のどかな山の風景。


 そんな山中の一角に私は立っていた。


 小学校低学年くらいの姿をした私の向かいには、同じ年くらいの男の子がいて、おでこをこつんとぶつけ合う。


 そして交わされる約束はよくあるおまじない。 

 

 ――指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った。


 目鼻立ちのハッキリとした男の子は、そう言って私の小指を結んだ。


 綺麗な男の子はさらに告げる。


 ――忘れないでね、アキ。俺はもう、アキのものだから。


 ゆっくりと重ねられた唇に、目を丸くする私。


 それはまるでおとぎ話のような。

 

 けど、目を覚ました時には、全てを忘れていた。






 ***






「もう春かぁ……一年があっという間に終わっちゃった」


 夢の中よりもずっと手足の長い私は、ベッドの上で大きく伸びをする。


 枕元の目覚まし時計を見ると、時刻は朝の八時ちょうど。


 一日の始まりは、いつも決まって遅刻ギリギリだった。


 私は佐渡さわたりアキ、十六才。この春から高校二年生になる、ごく普通の女子高生である。


 十年前の夏に両親を失って、大変なこともあったけど――優しいお兄ちゃんズがいるので、けっこう幸せだった。


 それに私には、とある趣味があって――。




「アキ、お前の好きなSJが朝の情報番組に出てるぞ」

「え、ほんと!?」


 SJとは、アイドルグループのサイレントジョーカーのことで、私が追いかけているグループだった。


 ちなみに私の推しは泰弦たいげんくんと言って、顔面世界一と言われるちょっと天然系の男の子である。


「はぁ……今日も泰弦たいげんくんはカッコよくて可愛いなぁ……スタッフとして働く世界線ってどこにあるんだろう」


 私がリビングに入るなり呟くと、五つ年上のみなみお兄ちゃんがシャツの襟元を整えながら小さく笑った。


「また泰弦たいげんくんか。アキは本当に好きだな」


 アイドルに負けないくらい顔が良い南お兄ちゃんのこんな姿を見たら、きっと会社の人たちは鼻血吹いて倒れると思うんだよね。


 けど、さすがに耐性のある妹としては、お兄ちゃんの悩殺ショットを平然とスルーして、食卓に座った。


 すると、エプロンをつけたままテーブルにやってきたたもるお兄ちゃんが向かいに座った。


「そりゃ、お兄ちゃん二人がこんなにイケメンだったら、好みのハードルも上がるものだろ」

「お兄ちゃん……そういうこと言わなければ、本当にイケメンなのに」


 私が白い目で六つ年上のたもるお兄ちゃんを見ていると、スーツを綺麗に着こなした南お兄ちゃんが再び口を開く。


「謙遜なんてする意味がわからん……じゃあな、俺は先に仕事行ってくる」

「行ってらっしゃい!」

「アキも早く行かないと遅刻するぞ」

「ちょっと待って、この番組、録画してから」


 私が慌ててリモコンを操作していると、賜お兄ちゃんがやれやれとため息を吐く。


「お兄ちゃんが録画してやるから、行ってこいよ」

「ダメ。賜お兄ちゃん、すぐ間違えるでしょ。この間だって、音楽番組と間違えて動物番組とってたし」

「お前、その動物番組をちゃっかり最後まで見てただろ」

「それは……せっかく録ったなら、見るしかないじゃん」

「それより時間は、大丈夫なのか?」

「もう、お兄ちゃんが余計なこと言うから、遅くなったし」

「はいはい、早く行ってくれ」

「行ってきまーす!」






 ***






「おはよう、とおるくん」


 私の住むマンションからほど近い繁華街を抜けると、大きな並木道で制服ブレザーを着たメガネの男の子が手を上げる。


「お、おはよう……アキさん」


 この子は小金川泰こがねがわ とおるくんと言って、仲の良いクラスメイトなんだけど、綺麗な顔なのにいつも太いメガネをしていて真面目くんという感じだった。


「もう一年も一緒にいるのに、なんでアキさんなの? アキでいいよ」

「で、ででも、僕なんかが呼び捨てにしていいのかな……」

「いいに決まってるよ! とおるくん、泰弦たいげんくんにちょっと似てるのに、中身は全然違うよね」

「ま、またSJ? そんなに僕、似てるかな?」

「うん、顔がちょっと似てるよ。でも、喋ると全然違うけど」

「アキさんはまだ泰弦くんが好きなの?」

「うん! 私の最推しは永遠だから」

「そ、そうなんだ」

「あ、ヤバい! 遅刻するよ!」

「待ってよ、アキさん」 

「いそげいそげ!」

 

 私が泰くんを置いていく勢いで走り始めると。


 その時、ふいに涼やかな鈴の音が聞こえた。


 と同時に、どこからともなく綺麗な低い声が聞こえてきて……。



 ――――見つけた。



 一瞬、その声に気を取られて空を見た私は、何かにつま先を引っ掛けてつんのめってしまう。


「あ、ヤバい、転ぶ――」


 顔面からゴツゴツした地面にダイブしそうになったその時。


「危ない!」


 誰かの体にぶつかって、私はなんとか負傷を免れたのだった。


「大丈夫?」


 私が誰かの胸板にぶつけた鼻を押さえていると、ぶつかった相手の男の人が心配そうに覗き込んでくる。


 その顔があまりに綺麗で、思わず見惚れてしまうけど――。


 遅刻ギリギリという現実を思い出して、私は慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございます」

「走る時は気をつけた方がいいよ」

「は、はい」


 青いコートのイケメンが去るのを見送っていると、後ろからとおるくんもやってくる。


「アキさん、大丈夫?」

「うん……今の人、すごくカッコよくなかった?」

「アキさんは泰弦たいげんくん命じゃなかったの?」

「もちろんだよ! 私は一般的な話をしてるの」

「ふうん……そっか」

「ヤバいよ! 本当に遅刻する!」






 ***






「……なんとか間に合って良かった」


 掲示板で新しいクラスを確認して、やってきた教室には、仲の良い友達もいて――私を見るなり、手を上げた。


「おはよう、アキ」

「おはよう、由宇ゆう


 私の友達、井崎由宇いざき ゆうは涼しげな笑みを浮かべて、肩までの髪をさらりと払った。


 そういう仕草がまた、様になるんだよね。


 私が教科書を机に放り込む中、同じアイドルオタクの由宇は、私の前の机に座って話し始めた。


「朝の番組にSJが出てたらしいね。SNSで話題のリップのCMも放映されたとか」

「見たよ、もちろん」

「だから遅かったんだ」

「全部は見てないよ!」

「でも見たんでしょ?」

「……ちょっとだけ」

「それより、今年は部活どうする?」

「私は帰宅部を貫くよ。推し活しないといけないし」

「私もそうなるね。とおるくんはどうするの?」


 由宇が話を振ると、静かに佇んでいた泰くんが驚いた顔をする。


「え? 僕? ……ぼ、僕はバイトがあるから……」

「泰くんはよく働くよね。いつも気になってたけど、どこでバイトしてるの?」


 私が訊ねると、泰くんはしどろもどろ答える。


「そ、それは……お、お菓子工場……だよ」

「そっか。じゃあ、見に行くことできないね」

「アキさんは、ぼ、僕が働いてるところ、見たいの?」

「うん、見たい。泰くんが働いてるとこ、想像つかないし」


 何気なくそう言うと、泰くんはほんの少し頬を赤く染めた。


 泰くんは緊張したりビックリするとすぐ顔が赤くなるんだよね。


 微笑ましい気持ちで泰くんを見る私だけど、由宇は口を尖らせる。


「バイトもいいけどさ、たまにはみんなで遊びに行こうよ」

「そうだよね。三人でどこかにどこかに行きたいね」

「ぼ、僕もいいの? 男だけど」

「いいに決まってるよ。友達でしょ?」


 友達……と口の中で繰り返し呟く泰くんを見て、由宇は意味深に笑う。


「友達ねぇ……たまには泰くんとアキで遊びに行ったら?」

「なんで私と泰くんなの? 三人で遊びに行こうよ」

「アキは泰くんと二人で遊ぶのはイヤなの?」

「イヤじゃないけど、どうせなら、推しについて語りたいじゃん?」

「そっか。確かに泰くんとだと、語れないこともあるよね」

「でしょ?」


 私が当然とばかり言うと、泰くんが珍しく前に出る。


「ぼ、僕だって! SJのことはよく知ってるよ」


 断言する泰くんだけど。


 きっと口だけなんだろうな……なんて思っていたら、由宇が意地悪な顔で訊ねた。


「そう。じゃあ、泰弦たいげんくんの誕生日は?」

「十二月二十日」

「飼ってる犬の名前は?」

「ヨウタ」

「泰くん、なんで知ってるの?」


 目を瞬かせる由宇に、私も驚いた顔をしていると――泰くんはいつものように縮こまりながら答えた。


「それは……アキさんが推してるから」


 その言葉を聞いて、私は胸が熱くなる。


 泰くんって、仲間思いの良い子なんだよね。


 私が感動する中、由宇はそんな私を見てため息を吐いた。


「まあ、とにかくバイトの休みがわかったら教えてよ。たまには遠くに行こう」

「わ、わかった」






 ***






「一人で帰るのつまんないな」


 授業という授業もなかったので、まだ早い時間に帰宅する私。


 登校する時はたいてい泰くんと一緒だけど、泰くんはほとんど毎日バイトを入れてるから、一緒に帰ることが少ないんだよね。


 同じ方向の友達もいないし、なんだか寂しいな……なんて思いながら歩く私だったけど。


 学校から少し離れた歩道橋を歩いていたら、ふいに綺麗な男の人が寄ってくる。


「あの、きみ」

「はい?」


 突然声をかけられて身構える私に、男の人はチラシを見せながら話しかけてきた。


「今バイトの募集をしているんだけど」

「え? バイト?」


 ……こんなところでスカウトなんて……あやしいバイトじゃ……?


 どこかで見たことのある顔だと思いながらも、私が警戒していると、青いコートの男の人は甘いマスクでふわりと笑った。


「ね、どうかな?」

「申し訳ないですが、バイトなら間に合ってます」

「残念だな……掃除をするだけで時給一万円なのに」

「掃除で一万円?」

「そうだよ」

「もしかして、トイレ掃除専門とか?」

「違うよ。民家の和室だよ」

「それは……」

 

 本当なのかな? にしても怪しいし……って、この人!


「あなた、今朝ぶつかった人……?」

「よく覚えているね」

「だって、ものすごくカッコイイから」

「嬉しいな。アキは俺のことをカッコいいと思うんだ?」

「ちょっと、なんで私の名前知ってるんですか?」

「だってほら、生徒手帳落としてたよ」

「え! ちょっと! それを早く言ってくださいよ!」


 男の人が差し出した生徒手帳を見て、私は慌ててそれをひったくる。


 いつの間に落としたのだろう。


 もしかして、朝ぶつかった時?


「アキは忙しい子だね」

「それで……そのバイト、具体的にはどんなバイトなんですか?」


 胡散臭いと思いながらも、私は少しだけ話を聞いてみることにした。


「だから、普通に民家の和室を掃除してくれたら、一万円支払うよ」

「……体験とかありますか?」

「一日だけ試してみる?」

「……はい」

「じゃあ、早速これから行こう! アキ」

「え! ちょっと!」






 ***





 バイト勧誘の男の人に連れてこられた場所は、古びた日本家屋だった。


 ……勢いで来ちゃったけど……本当に大丈夫かな?


 私にはハードルの高い、広いお屋敷だったけど、男の人は私の手を引いて屋敷の奥へと進んでいった。


 そして入った部屋は――。

 

「何この部屋」

「わかる?」

「すごく気味が悪いんですけど」


 和室の一室に入った私だけど、その部屋はどこか澱んだ空気をしていて、タバコみたいな嫌な匂いがこびりついていた。


「じゃ、さっそく掃除をお願いしようか」

「え!? この部屋を!?」

「一万円」

「やります。掃除って何をすればいいんですか?」

「祈って」

「祈る!?」

「そう、祈るんだ」

「……はあ」


 胡散臭さマックスだったけど、もしかしたら事故物件とかそういうものなのかもしれない――と思って、私は指示された通りに手を合わせた。


 すると――。


「何これ? 部屋が明るくなった……?」


 まだ窓すら開けていないのに、なぜか部屋の中がピカピカになって。


 澱んだ空気が、まるで朝の森林のように澄み切った空気に変わった。


 そんな異様な変化を見て驚いていると――男の人は感極まったように私に近づいてくる。


「やっぱり、君だったんだ」

「え?」

「会いたかった」

「!?」


 唐突の口付け。


 その日私は、知らない人にホイホイついていったことを後悔した。



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