うつろ

荒木紺

第1章 天使降臨

 一章

 

 思ってもみない展開の中にいる。しかし、それに慌てることも、助けを求めることもしなかった。

 ほとんど見なくなった、いや、見る夢すらなくなってしまった眠りから目を覚ますと、見慣れた部屋の中にいたからだ。

 仙崎宗(センザキシュウ)は、ベッドから起き上がると、寝相のせいで、取れかけていたヘアピンを半ば手癖のように前髪をかきあげとめる。

 起きた時間が何時なのかさえ、窓には、日を遮る生地の厚いカーテンが閉められており判断できない。これをあえてしているのは言うまでもないだろう。

なので、仙崎の主観で朝なのだ。今起きたのだから当然、それにこの体たらくなのだから彼に時刻は関係ないことも含めてそうなのだ。

 部屋には、この男の年齢を示すものは見られず、机にノートパソコンが置かれているくらいだ。彼は、スリープ状態だったのを起動させる。そこには、書きかけの文章が、一日のほとんどをこれで過ごしていた。

 なぜこの文章を書いているのか、本人も説明つかず、昨日書いた部分を読んで満足し、一昨日書いた文章を八割ほど消した。内容は彼の人生に関するものだったが、どうしても脚色が入ってしまい、伝記になってしまうのを恐れこうして添削する必要があった。

 朝食をとるために部屋から出ることも、ペタつく髪を洗うために浴室に向かうこともなく、まず起きてすることがそれなのだ。

 彼の余裕は、彼の才覚を示すものでも、裕福さを示すものではない。すでに希望の持てない人間となり、この先のことに関して、考えているところであったが彼の性格ゆえか、こうした、悠々自適ともとられかねない生活を続けていた。

 別に孤独感はなかった。

 何か病気なのかと言われれば、身体的問題は何もなかった。そして、精神的なものと言われるのは、つらいだろうからそれを診断することもない以上、自覚はない。

もっと口にしやすい問題は、食事の回数が減り、体についた筋肉が彼の動きを妨げるけだるさを発揮することが増えたことくらいだ。

 ふと仙崎は覚醒しつつある目に風を感じる。わずかだが、この部屋に風が吹き込んでいるようなのだ。窓など前述のとおり開けることもなく、クモの巣が張るような埃のたまり方をしている有様だ。しかし、これを寝起きの錯覚で感じた爽快感とするには、夢を見ないのと同様思い当たる節がない。

 なので、窓が開いているという、まだましなあり得る事実を受け入れなければいけないらしい。ここまで、足音も呼吸音、衣擦れの音すら一つも立てていない。

 彼が一般人というカテゴリーから外れた存在であることくらいは言ってもいいだろう。

 恐る恐る、慎重に、すぐ後ろに避けられるように風元に向かう。

 ガスの元栓を占めるなんかより慎重に、爆発物処理をする身構えと同様すぐに後ろに下がれるように、足は常に前後に開き体勢を崩さないまま近づく。

 ──窓は確かに十センチほど、開いていた。

 こんな無駄な労力と、恐怖させられた鬱憤を晴らすように勢いよく閉めようとするが、それ以上の力で抵抗された──ばかりか、窓は、はじかれるように一気に開かれる。

「うをぁぁっ⁉」

 それは、衝撃への驚きの声ではなく、窓枠に、白い手がかけられているのが目に入る。

 しばらく腰を抜かしたまま、仙崎は茫然と開かれた窓を見つめていた。久しぶりの外の空気なんてことも忘れるほどだった。

「……何してるの?」

 ──女の声?

 遅れること数秒、目の前の人間が、命の危険にさらされていることに気づく。

 慌てて、窓外を見ると、少女が腕の力一つで、つかまっていた。

「あ。もう限界」

「おいおいおいおいッ!」

 少女の軽い一言に、先ほどとは、また別の種類の恐怖を感じ慌てて少女の腕をつかむ。すると、本当に限界ギリギリだったのか、仙崎がつかんだ瞬間、一気に女の体重が腕に加わる。

「って、おいっ! なに力抜いてんだッ!」

「はぁー、さっさとしてくれないかしら。さっきから、この服、肌に張り付いてきて気持ち悪いの」

 少女は自分が置かれた状況が理解できていないのか、そんな呑気ことを言い出す始末で、仙崎も力を入れている興奮のせいでうまく頭も回らなくなっていた。なんとか、壁に体をあて、支えている状態だったのだが、そろそろ限界を迎えようとしていた。

 なんとか少女の腕を引っ張り上げ窓枠に腕を掛けさせると、腰をつかみそのまま倒れこむように部屋に引きずり込む。

「はぁ、はぁ。しんどっ」

 これくらいの動作ですぐに息が上がってしまう、いつからこんな情けない姿になったのだろうか。いや、今はそんなことより目の前の不審者だ。

 不審者──訂正しよう、可憐な少女。

目の前になんとも堂々とした姿で仁王立ちする少女。

そのせいで、咄嗟に通報するなんて考えは起こらなかった。それにいざとなれば、力で簡単に取り押さえることが出来ると楽観していた。短絡的とも、また見た目がこれでなければとっとと追い出していただろうから、非難されるべき事柄ではあるのだろう。

 白いワンピースに、ブロンドの長い髪が特徴的の彼女は、一見すると、西洋人形にも思えなくもない。それほどまでに整った顔をし、同時にその無機質さが、不気味に感じる。

 彼女の気味の悪さがどうも顔からの特徴だけではないように思え、それを探るように観察していると、

「どうして? そんなにわたしを見ているの?」

 全くこちらに視線を向けていなかったはずの彼女がそう指摘してきたので、仙崎は慌ててしまった。

「あ、えっと、その……ん? いやっ! ここ俺の部屋なんだった。お前こそ、何が目的なんだ。強盗……だとしたら、無防備すぎか。家出少女? それとも、あれか、パパ活女子の押し売りか? 最近の女の子は、えげつない誘い方してくるのなあ!」

 深夜&異性のダブルコンボでおかしくなったテンションのまま、まくしたてた。少し過剰な反応であったのは勘弁してほしい。なにせ、数か月ぶりのまともな会話だったのだ。

「びーびー、うっさいわね。それより。これ、なんとかしてくれないかしら」

 少女は来ているワンピースをパタパタと仰いで見せた。

「……?」

「べたついて気持ち悪いのよ」

「……はあ。それは、風呂を使わせてくれって言ってるのか?」

 仙崎は内心喜んでいた。どうにか一人になって、この状況について冷静になる必要があると思っていたからだ。少女を、浴室に連れて行くと自分はさっさと自室に引き返し、このどうしようもない悪夢について、なぞ解きをすることにした。

 さて。まず本当に夢である可能性──そんな非現実的なことは、はなから考えない。彼女が、本当に家出少女の類なのだとしたら、警察に届ける必要があるのだろう。

「めんどくさいなぁ……」

 夏の生ぬるい風が窓から侵入し部屋を循環する。そのせいか、仙崎は自分の部屋が汚染されてしまったかのような気持ちになっていた。

 しばらくの間、そんなことを考えながら、机に置かれたノートパソコンの電源を切り、床に転がっていた缶を端に寄せ、部屋の整理を始めた。そして、ある程度スペースができると、そこに寝そべった。

「はあ。今日は疲れた」

そういっていると、部屋に誰かが入ってくる音がした。

 気配の小ささから、先ほどの少女だろう。

 起き上がり、視線を向けると、

「お、おいっ……」

 そこに続く言葉は出なかった。仙崎は、入ってきた人物を見つめ固まっていた。

 視線は彼女の眼だけを見ていた。無理やりにでも眼を合わせていないと、ほかのところをじっくり見てしまいそうになる。

 月明りという、心もとない光のせいで、はっきりと見えないのも、余計目移りさせてしまう要因になっていた。

 心臓が、急激な血圧の上昇に耐えられなかったのかキリキリと痛み出す。

 そのまま長い間見つめ合った後やっとのことで、彼女の体を見ない──床に目を向けるという回避方法を捻りだし、会話のテーブルに着くことが出来る。

 それでは、裸の少女を前に、第一声をどうしようか。

「えっと、未成年ですッ‼」

 一世一代の叫びだったが少女は、わずかに首を傾けると、

「…………寒い」とぽしょり呟いただけだった。

「あ、ああ……うん。えっと俺のであれば服貸すけど……」

 仕切り直して尋ねる。裸の少女を前にして服貸すかを訊くあたり、なんて悠長なのだろう。自分でもおかしいことだと思うが、俺は来客とは思っていなく、彼女は自分の家に押し入ってきた変人なのだ。

 その変人は今、呼吸音すら聞こえる静寂の中でじっと身動き一つしていない。

 しばらく、返事を待つ意味で彼女の呼吸音に耳を澄ましていたが、さすがに裸の少女を前に気まずくなった。仙崎は適当にかけられていたパーカーを取ると、少女を視界に入れないように近づく。

そして渡そうと手を伸ばそうとした瞬間。足裏に冷たいものが触れるのを感じる。

「?…………水、か?」

 そこで気づく。なんと少女の髪から水滴が滴っていたのだ。風呂に入った後だからとかというレベルではない。雨に濡れて帰ってきたかのような状態だったのだ。

「風呂入ってきただけだよな? なんで、そんなにびしょびしょなんだよ……。

うちの風呂があまりに特殊で、適当に触っていたら、水びしょになって、タオルの場所も分からないから仕方なく戻ってきた。それとも、あれか。お前は、どこかの国の王女で、一人で入ったことないとかか?

とにかく、その無防備な格好は、俺の方が罪悪感を抱くからやめてくれ」

 少女が何も言わないので、結果ただ一人探偵のような真似をする羽目になった。

「分からなかったもの」

「は?」

 少女は事もなげに言ってのける。

 仙崎は、再び頭を悩ませる。今なお、床に滴り続ける水もだが少女が一向に服を受け取ってくれないこともだ。

「分からないの」少女は繰り返す。

「だから、なにがだよ!」

「あれの使い方」

先のは冗談で言ったつもりだった。

「そ、それは、王女様ってところがそうなのか。それとも、一人で入ったことないって意味なのか?」

「はぁー、めんどくさいわね」

 少女は、くびれたた腰に手を置くと大きくため息をつく。──ごめんなさい、ちょっとだけ体を見てました。

「さっさと、してくれないかしら?」

「あ、あぁ」

 仙崎は、何が何やらだったが、さっさとこの現状から解放されたい一心で少女と共に、浴室に向かう。少女はその間も、一向に服を着てくれなかった。まあ、お嬢様ともなれば、汚い服が肌に触れるのも嫌なのかもしれない。


 浴室につくと、シャワーをいつもより少しぬるいくらいに調整し、少女に渡すと逃げるように出ていく。

 部屋までの道には、彼女の水滴による痕跡が残っていたので、それを消す必要があった。

 作業が終わると、仙崎は少し迷い、浴室の扉の外で待つことにした。今更だが、家に少女を連れ込んでいるという事実が怖くなってきたのだ。もし、今誰かが押しかけてきたら、警察に行くのは、彼女ではなく、自分になるだろう。誤魔化すことなどできるはずはないが、せめて弁解はさせてほしい。

 数分後、背中に扉が当たる感触が伝わる。仙崎は慌てて立ち上がると、扉が出て来る肌色の影が一瞬視界に映る。

「ば、ばかっ!」

 慌てて閉めるが、そんな行動とは反して脳内は勝手に一瞬の映像を復元しようとフル回転する。それに彼女も彼女で、何を考えているのか、閉められた扉に抗おうとしてくる。

「そ、そこにタオルあるから、自分で拭いてくれ、……ください。頼んます……」

 それで何とか少女も抵抗をやめてくれ、中からごそごそと物音がし始める。

 仙崎は一息つき、自分の声の大きさに気づく。──最悪だ。

 何度も深呼吸をし、これ以上驚かないと心に誓う。

「できたわ」

 少女の声が聞こえる。

「服はどうするんだ?」

 仙崎は一応、先ほど渡しそびれたパーカーを片手に持っていた。少女の反応が返ってこないので、付け加えて言う。

「さっき渡したパーカーを着るか、自分の服を着るか、すきな方を選んでくれ」

「……そう。だったら、それ貸して」

 仙崎は扉をこぶし一つ分だけ開くと、パーカーを投げ入れる。

 衣擦れ音を聞き、少女が着替えたのを確認すると、扉にかけていた力を外す。

「どう?」

「服を着ている」

「それだけ?」

 出てきた少女の、殆ど乾いていない髪も、パーカーをかぶっているだけの格好も仙崎はどうでもよくなっていた。何の感情も湧かないと言えばうそになるが、暗闇に混ざればどうせ見えなくなる、それ以上に精神的疲労が勝っていた。

 部屋に戻ると少女はベッドに腰かけ、仙崎は地べたに正座で座る。

 それは違和感ではなかった。ここが自分の部屋で、少女が未だ不審者であることに変わりがないので、家主らしく悠然としていればいいがこうも簡単に場所を譲るのは、この部屋での生活に慣れてしまい、地べただろうが、ベッドの上でジャンプしようが、椅子の上で回ろうが、机で寝そべろうが、どこにいても人間としての価値を貶めるものではなくなっていたからだ。

 そして、家出少女(仮)も明日出て行ってもらうことが確定しているので、どこにいても価値は同じ。

 仙崎は何度か唾を飲み込みセリフを何度も頭の中で唱えると、切り出す。

「あのさ、明日には、出て行ってくれるんだよね」

「……」

 光源は雲に隠れてしまったのか、この部屋を灯すものは何もなくなっていた。完全な暗闇に紛れてしまった少女を、気配や表情などで理解することは出来ない。そのかわり、嫌みも皮肉も駆け引きもない、この場では言葉が真の意味を持つようになっていた。

 仙崎は、腹に力を込めて、

「何歳? どこから来たんだ?」

 そんな迷子の子に、訊くようなことを言ってみたが、完全な壁となり答えは返ってこなかった。仙崎もさらに問い詰めるような、強い言葉を発せないでいた。それは、自分の声以外の音がなく、自分の声がどこまでも届いてしまいそうな感覚に怯えていたからだ。

 彼自身、自分の年齢について意識する機会が少なく、一般的に言われるものとはかけ離れていたが、見ず知らずの少女に幻想を抱き、こうも手はずを整えているが、外面的には、出て行かそうとしている。それを疑問にも思わない。

 それは、思春期、中二病と言われるような時期。回りくどくなったが、彼は書類では、高校二年生に割り当てられ、いまだ一度も登校していない。

 彼が彼女を受け入れるのも、長い閉塞の時間に形成された思想を思えば、何ら不思議ではなくなるだろう。彼からしたら、むしろこのような少女の姿を魅力的にとらえていた。警察に突き出すなどせず、このまましばらく住まわせる可能性すらある。

 暗闇の中で仙崎はその外面とも付け焼刃の警戒心もどこかに忘れ去り、己の身の程を彼女に語り始めていた。

 はじめは、色あせた日々の中でホームシックのような弱さを見せていたが、それはあくまで枕で、彼の語った本音は、時には希望となり日が変われば絶望にも変わるメビウスの輪のような思想。何度も空白をはさみながら、それでも何とか言葉にして吐き出した。

 二時間ほど話し続けた。数か月の時は、人との距離感を忘れさせってしまったようで、一方的なものになってしまった。

 ふと気づくと、少女もベッドから起き上がり、座っているらしかった。どうしてわかったか。彼女が足をベッドから下ろしプラプラとさせ、仙崎の腕にリズムよく当てていた。

「わたし天使なの」少女は一言、それだけ呟いた。

自分が言えたことではないが、こいつは、酷い。重症だ。救えない、自ら天使を自称するなんて。

「何か宗教の信者か?」

 ここ数年で、街にはウイルスのように広まっていたことは知っていた。

「違うわ」

「なら薬か。だったらこれ以上はなしだ。明日、警察に突き出す」

「疲れた。もう、寝る」

 彼女はそれだけ言い放つと、本当にベッドに倒れる音が聞こえる。──ふて寝。何とも少女らしい行動だ。まあ、いい。どうせ明日になればいなくなる。

 仙崎は徹夜をする羽目になった。最大限の警戒で。彼女が突如暴れだし、それを排除するところまで想定して。そして、それはよく慣れた行動で、たやすいものだった。

 

 次の日、日が出ても少女は、なかなか目を覚まさない。昨日は気が動転していたせいもあり、こうして無防備に晒された姿をまじまじと観察していた。

 ベッドに、仰向けに横たわる少女。布団もかけず、白い太もも以下足を惜しげもなく出していた。

 仙崎は少女に近づくと、自分の手を彼女の口元にもっていく。

「まるで死人だな。よくもまあ、こんなにも静かに眠れるもんだ」

 手には、わずかであるが空気が当たる。それで、なぜかほっとした気持ちになる。安心感からか目は下半身に引き寄せられる。

「いや、何考えてんだ、俺は」

「そう? わたしはべつによかったけれど」

 そういうと、少女は、「んふぁー」とあくびしながら起き上がる。

 ベッドにできたしわが、彼女を現実のものにしていた。一瞬で広がりだした妄想をしていると、視界の端で肌色が動く。

「お、おい! なに脱ぎ出してんだよ!」

「暑いからよ」

「いや、理由になってねーよ」

 しかし、すでに行動しているものに理由を訊いても無駄である。

「わ、分かった今すぐ冷房つけてやる。だから、服を着ろ。いや着てください。お願いします」

 仙崎は急いでリモコンを取ると、急速冷却のボタンを連打する。

 普段は、ほとんど使わないエアコンだが、この危機を察知してくれてか、すぐにフオォンと音を立てて、冷たい風を吐き出し始める。

「な、これで、いいだろ。だから、な。」

 安心、残念。いそいそと脱いだ服を着だす。

 とりあえずどうしようか。現実に戻ったのはいいが、残った事実は、自称天使の半裸の少女と、絶賛思春期真っただ中の不登校児が、誰もいない家でしかも同じ部屋で、二人きりなのだ。──これはさっさとすましたほうが良いな。

「あのさ。昨日も言ったけど、俺は君を住まわせる気はない。一秒でも早く出て行ってほしいとすら思っている。もし断るようなら、警察だ。道案内ぐらいはするよ」

 昨日のことで、一ミリの余地もなくなっていた。

「そう。」気圧されているような声だった。

 彼は彼女に選択肢を与えないように、さっさと準備を始める。

 今日は平日だ。警察に行くなら、私服より制服の方が何かと都合がいいだろう。すでに、桜の舞い散る季節からは、半月ほどたっているにもかかわらず、カッターシャツは型を保ち、白さは新品同様だった。それもそのはず、制服を着るのはサイズを測って以来だった。

 少女にも昨日着ていた白いワンピースに着替えさせる。

 これで外面だけは、準備が整った。

 玄関で、過分な深呼吸によって無理やり心を決めると外に出る。

が、外に出てすぐ後悔することになった。

 ──しまった。時間を気にする必要があった。こんな、昼真っただ中にわざわざ出かけなくてもよかった。

 しかし、一度出てしまった以上、せっかく熾した心意気がもったいない。

 少女の方を見ると、貸してやったサンダルを歩きづらそうに、地面をこすっていた。足をずりずりと引きずりながらだが、大人しくついてくる意思だけは見て取れた。

 数メートル歩いたところでポケットに入れていた携帯が震える。

 仙崎はためらいなく、それに出る。少ない登録された番号の中で、わざわざこの最悪のタイミングでかけてくるような奴は限られていた。

「よお」

「…………なんだよ」

「宗。やっと冬眠から目覚めたのか? 125日目にして初めての登校とは。……はは、ボッチ確定だぞ」

 仙崎は、周りを見渡し近くの監視カメラに手を挙げて見せる。

「黙れよ。この盗撮野郎。今すぐにでも、お前の犯罪行為を通報してやってもいいんだぞ。ちょうどよく今から警察に行くところだったからな」

「はは、それは面白い。僕が馬鹿どもに見つけられる痕跡を残すと思うか?」

 プライバシーなんてあったもんじゃない。

「それにしてもまた警察とはどういうことだい? 君は、もうあそこは、やめたんだろう?」

「ああ。俺はもう普通の生徒だよ」

「もう? もとからの間違いだろ──」

 いちいち癇に障るやつだ。

「となり見ればわかるだろ! 迷いネコを連れて行くんだよ」

「ん? 何を言ってるんだ」

「だからこの迷子少女を警察に連れて行くんだよ」

 長い間があり、

「うわぁ、君は長い引きこもりの中で、幻覚を見るようになったんだな。寄りにもよって、ロリコンとは、君はつくづく救えないやつだな。

せめて、年上の、眼鏡お姉さんであれば、僕がその症状を見てやっても良かったんだがな」

 今度は、仙崎が沈黙する番だった。

 仙崎は思わず少女に手を伸ばしていた。その存在を確かめるように頭をつかむ。

「お前は……いったい何者なんだ……」

「だから天使だって言っているじゃない」

 さっぱりとした、乾いた言葉で少女は言った。

 仙崎は再び携帯に口を当てる。

「おい、お前には俺が人に見えてるんだな」

「あ? そうだ。ちゃんと、360度見えてるからな」

 仙崎は試しに、背中の後ろで中指を立ててみると、すぐに反応が返ってくる。

「どうした宗。花の高校生活を楽しんで来いよ。あー、もしあれなら、かわいい子の写真を撮ってきてくれてもいんだぞ」

 もうそんな戯言にかまっているほど、仙崎は冷静ではなかった。もしこの少女が、ハッキングなどの類を使って言えなくしているのだとしたら──この街の監視システムから抜け出せる人物など関わるべきではない。

 それは、この街を防衛する立場を目指していたからこそ言えることだった。六万六千八百三人そのすべての顔認証が登録され、一歩でも街を歩けば、監視できる檻のような場所で。この街に、そこから抜け出せる人は出てはいけないのだ。

 ──ああ困った。目の前の少女を、突き出したら、俺は再び戻れるかもしれない。  

 その、牡丹餅が目の前に落ちてきたのだ。

「おーい。おーい」

「あーすまん。もういい切るわ」

 電話からは、何かまだ文句を言っていた気がするが無視して切る。

 あいつに見られた以上、再び家に帰るのは不審すぎる。仙崎は、その足を駅に向けた。

 不用意に少女と会話はもうできない。何しろ、会話すら聞かれている可能性がある。記録にさえ残したくない。


 駅に着く。仙崎の左手に収まる白い腕は力を籠めると簡単に折れてしまいそうだ。

 途中、少女のあまりの足の遅さと、危なっかしい足取りに、我慢できなくなり、手を掴んで来たのだ。

 頭に記憶しておいた、地図を頼りになるべく人通りの少ない道を選んできた。ルート取りは何度もやらされた。嫌な記憶を振り払うように、目にかかった汗のしみ込む髪をかき上げる。

「これからどうするの?」

 少女がやっと口を開いた。少女も、緊張した空気を察してか、あの部屋での、傲慢な態度は見られなかった。

 しかし、だからと言って仙崎はそれをここで答えるわけにはいかなかった。

 


 学校に着くと仙崎は、無人のゲートに、プラスチックでできた自分のidカードを 通す。

 少女を次に通す。仙崎が考えていた通り、少女が通ってもゲートはうんともすんとも言わなかった。

「本当……なんなんだよお前は」

 仙崎は呟いてみるが、その答えは返ってこない。だからこそ、その答えを求めて、ここに来たのだ。

 学校はちょうど、授業中のようで、窓から、数人の生徒が見えた。仙崎は、転校生ということで、まずは職員室に向かわなければならないはずだが、彼のとった行動は、まるで違った。仙崎は、むしろ誰からも見つからないように動く。授業中とはいえ、教師はうろついている。

 仙崎はそれを、かわしながら、目的の階まで行った。

「おい!」

 ここは、トイレだ。少女を連れて、男子トイレに入るなど、犯罪行為すれすれと言うか、アウトだろう。もし誰かに見つかれば。例えば、このように、目の前の締まっている個室に人がいるなどしたら。

「おい、聞こえてんだろ! 神木。ち、めんどくさいな。おい、デブ、返事しろ!」

「誰がデブだっ、引きこもりで落ちこぼれ野郎が。誰のおかげで、転入できたと思ってんだ。まったく、馬鹿を学校に入れるなんて苦労したんだからな。そのくせ、半年以上も引きこもりやがって、僕がいくつイベントをつぶしたと思うんだ。せっかく君が来るから、参加できると思っていたのに」

「あーあ。すまんかった。悪かったって」

 後半は、殆ど何を言ってるか分からなかったので、聞き流していたが、

「ほら、出て来いよ」

 そういうと、ようやく扉の鍵が開く。

「で、誰かしらこのデブは?」

 トイレから出てきたのは、神木翔(カミキショウ)。年齢不詳のデブだ。

「相変わらずかよ。ちっとはやせろよ」

「なっ。今なんて言った。人を外見でしか判断できないとは、……──⁉」

「あん? どうした?」

 神木の表情が変わるのがはっきりわかる。しかしそれを問うより先にチャイムが鳴ってしまい、廊下からは複数の足音が聞こえてくる。

「で、どうする? 個室は三つで。俺とお前と少女でトイレにいるわけだが」

「隠れろ」

 扉が開く寸前、三人で個室に入った。


「…………あつい」

「暑いな」

「ていうかなんかヌメってねぇかお前」

「うるさい。僕のことを言ってるなら、今ここで始めるぞ」

 冗談ではなく、けわしく眉をひそめるので慌てて謝る。

「わかった。分かったから、それだけは勘弁してくれ」

 状況としては、神木が便器に座りその前に、少女と仙崎が向き合って立っている。


「ふーやっと終わったか」

 数分後再びチャイムが鳴り、仙崎達は、飛び出すように個室から出る。

「それで、いったい何があったんだい? 宗。

君は、えっと、……──ここ数ヶ月部屋を出ていないだろ」

 (どうしてお前は俺の行動を知り尽くしているんだよ!)

 仙崎はそんな言葉を飲み込み、昨日のことをありのまま話した。もちろん風呂場でのことを除いて。


「なるほど。それで僕のところに来たわけか。まあその判断は正しいな」

「ああそうかい。それで、どうしてお前はあの時、こいつが見えなかったんだ?」

「それはだな」 

 神木は、少し考えるそぶりを見せる。

「君は。いや、その少女はシステム外の存在なんだ」

「あ? どういうことだ」

「この街のシステム──数万人が歩くすべてを、映像で記録し、管理し続けることは難しい。

 そこでだ、映像は君たちをとらえ続けているが、記録に残るのは、記号のみなんだ。

登録されたモノが歩いているのを僕は見ているというわけだ。

 映像記録を残せるカメラを設置するのは、お金もかかるしね」

「それで少女はシステム外の存在というわけか。……治安機関は動いてないんだよな?」

「まだその動きは見られないね。」

 神木の視線は、まっすぐこちらを見ていた。──どうするも何も、それを決めるのは少女でないといけないはずだ。

仙崎の目線は自然と少女の方に向いていた。沈黙がこの場を支配する。

「……俺は、こいつを治安機関に届けようと思う」

「それはダメだッ!」叫ぶような鋭い口調だった。

「あ。ごめん……いや、その、もう少し、……カノジョのことについて調べたいからさ……」

「そうか。なら頼むよ」

 どうにも歯切れの悪い。しかし怪しく思うも、仙崎はそれほど固まった決意でもなかったため、少しぐらいなら延ばしても、いいかと思えた。

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