第37話 禁忌⑥

 美雨は、穂香と樹の忠告に緊張しながらも陽翔の部屋の前で声を掛けた。一応、幼馴染みなのだからきちんと話して、彼にも理解して貰いたい。


「陽翔くん。私、美雨だよ。今大丈夫そう?」

「ああ。なに、お前……こっちに帰ってきたわけ」


 そう言いながら、陽翔は障子を開ける。煙草臭い香りがして、美雨は幼馴染みを見上げた。半笑いの顔は、喜んでいる時の照れ隠しの表情で、昔から変わらない。

 以前ならそんな表情にもドキドキしていたはずなのに、なんだか今は居心地が悪い。

 美雨はきちんと話そうと思っていたのに、いざ本人を前にすると、恐怖で早く悪樓のもとに帰りたくなる。


「う、うん。お話ししたいことがあって」

「ふーん。入れよ」

「お邪魔します。あれ……陽翔くん、荷物どうしたの?」


 陽翔の部屋は、庭に面していてそこそこ広い場所を用意されているようだった。

 庭の奥は、防風林になっていて、おそらくこの方角だと浜辺のほうに繋がっているのだろう。

 部屋の中を覗くと、衣服を入れているような古い大きな旅行カバンが見えた。と言っても、衣服は全てこの屋敷のもので、事故にあってから身につけていた私物以外は、全て海に落としてきたはずだ。

 陽翔は、この屋敷から離れて、別の場所で暮らすのだろうか。


「美雨、昨日は悪かったな。本当にお前のことが心配だったんだよ。これでも俺は、小さい頃からいつもお前のことを、気に掛けているんだぞ」

「…………は、陽翔くん、あの」

「このまま一生、家族や友達に会えなかったら嫌だろ? 他の奴らは、全然俺の話を聞かないんだ。美雨、あいつらはほっといて俺と逃げよう。この島から出よう。俺さ、お前が好きなんだ」


 この島に来る前にその言葉を聞けたら、喜んだかもしれない。

 人気者で、機転が利き、自分を引っ張ってくれる幼馴染みを、美雨も頼もしく思えただろう。

 陽翔は昔から頭が良く、自分の意志を貫き通す時は、あれこれと他人が納得できそうな理由を言う。それは、良いように作用することもあれば、彼の狡さに繋がることもあった。つまり陽翔は、もっともらしい『嘘』をつくのだ。

 昔から両親に陽翔が気に入られていたのは、その要領の良さが関係している。子供の頃の美雨は王子様みたいな幼馴染みと、結婚できたら良い、そう純粋に考えていた。


(でも、陽翔くんは、ずっと私のことなんて相手にしてなかったよ)


 陽翔に両肩を掴まれた美雨は、目を逸らした。いつもならここで、彼の言葉に賛同していたところだが、もう違う。


「陽翔くん、ごめんなさい。私、ここに残る。悪樓さんと結婚するの。家族に二度と会えないのは寂しいけど、もう私は大人だから、自分の人生を歩みたい。穂香ちゃんたちもここに残ってくれるみたいだし……陽翔くんは……っ!」


 陽翔の指が食い込んで、美雨は痛みに顔を歪ませた。彼の表情は今まで見たことがないくらい怒りに満ちている。そしてなにか本能的な欲望を感じて怖くなった。

 

「お前、俺のことが好きだよな? 俺が穂香ちゃんに気があると知って、ショック受けてたろ」

「い、痛いっ……や、やめて!」

「分かってるんだって。俺も早く気付けば良かったよな。俺が美雨を、女として見てやってなかったのが不満だったんだよな?」


 陽翔に肩を掴まれ、壁に押し付けられると、着物の裾をたくし上げ乱暴に太ももに触れられる。汗ばんた陽翔の手を感じると、美雨は恐怖で頭が真白になった。

 美雨は、現実に引き戻され、悲鳴を上げた。


「いや! 私……陽翔くんなんか大嫌い! もう私に指図しないで、私に近寄らないで!」

「おい、美雨! 待てよ!」


 美雨は嫌悪感と恐怖で、陽翔を力一杯押し退けると、よろけた隙を見て縁側から庭に飛び出し、草履も履かずに走った。

 海に逃げたい。本能的に悪樓を求めるように走った。

 けれど、慣れない着物で上手く走れるわけもなく、草履も履かずに地面を歩いたせいで、石や小枝を踏んだ、鋭い痛みが走る。陽翔は落ち着いた様子で靴を履き、森の中で美雨を追い掛けた。

 陸上部だった陽翔が、美雨に追い付くのは容易だ。


「なぁ、逃げるなって、美雨。優しくするからさ」

「い、いや! 来ないで」


 小さな枝を踏み、息を乱しながら美雨は後に迫るニヤニヤと笑う陽翔を振り向く。幼い頃の陽翔とは違う、化け物のような存在に恐怖を感じた。すぐに息が切れて足が絡まると心の中で美雨は、悪樓の名を呼んだ。


(怖い、怖いっ……悪樓さん助けて!)


 小さな防風林を抜けて、砂浜に出るとさらに足を取られる。息を切らしながら陽翔が美雨の髪を掴もうとした瞬間に、彼女の体はぐらりと揺れ、誰かに引き寄せられた。

 大きな胸板に、優しい慣れた腕。

 上品な香りは、顔を見なくとも自分を助けた相手が、誰だか分かった。美雨は最愛の人と会えた安堵感で、我慢していた涙がポロポロと溢れ、悪樓に縋り付くと、声を押し殺すようにして泣いた。


「美雨」

「悪樓さ……ひっく……ふぇ」


 美雨の白い足袋に血が滲んでいた。じっとそれを見ていた悪樓は、泣いて怯える彼女を優しく包み込み、ゆっくりと視線を上げる。海から暗雲が立ち込め、海原は嵐がきたように大きく揺れていた。

 悪樓の目は銀色に輝き、雷と共にゆらゆらと龍のたてがみのように銀髪が靡く。


「み、美雨が誘ったんだって。そいつは俺のことがずっと好きだったからさ。やりたがってた」

「愚か者が」


 低い地鳴りのような悪樓の声に、陽翔は思わず、後退する。ふと、背後に人の気配を感じて振り向くと、老若男女問わず島民たちが木刀や、鍬や鎌を持って怒りに満ちた顔で陽翔を睨みつけていた。


「な、なんなんだよお前ら! 俺はあいつの本当の姿を見たんだ。化け物だったぞ!」


 その中には、穂香たちも混じっていて、村人たちと同じく、陽翔を侮蔑するように見ている。陽翔はゴクリと息を呑むとダラダラと額に汗を浮かべた。


「陽翔くん。なんてことをしたの」

「島の禁忌を破りおったな。見てはならぬ、触れてはならぬ。あれほど言うておったのに恩を仇で返しよって!」


 美雨は島民たちの異様な雰囲気に身を固くしたが、悪樓は彼女を軽々と抱き上げた。そして、陽翔と村人たちにゆっくりと背を向ける。

 多分これから、美雨が想像できないような恐ろしいことが起こる。


「あ、悪樓さん……陽翔くんは」

「穢れは見ずとも良い。聞かずとも良い。後は彼らに任せて屋敷に帰ろう。本当に遅くなってすまぬ。私の愛する人よ、怪我の手当をしなければ」


 美雨は目を閉じ、耳を塞いだ。

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