第35話 禁忌④

 美雨が描きあげた絵を、悪樓は指でなぞりながらそれを大事にしまう。美雨に飾っても良いかと尋ねると、それならきちんと色を塗って、綺麗に描いたものを、と断られた。

 朝方の慌てて恥ずかしがる美雨の顔を思い浮かべると、悪樓の冷たい心に、温かな灯火が宿ったような柔らかな気持ちになる。彼女との日常はその幸せの連続だ。


「華姫の生まれ変わりは、どの人間も大事に思うが、美雨は特別愛い……。どの瞬間も記憶に刻みつけておきたくなる。鬼灯の実が好きならばもう少し植えようか。できるだけこの屋敷は、嫁御寮が好きな花を植えて、ゆるりと過ごしやすいようにしたいものだ」


 悪樓は独り言を言うと、庭に出て花菖蒲ハナショウブや、青色の朝顔に水をやる。美雨が好きな花を植えてやり、彼女の好きなように過ごせるようにしてやりたい。

 ここは、悪樓と美雨が住まう大事な憩いの場所だ。

 ふと、足音を感じて振り向くと、そこには妙子が困惑した様子でこちらを伺っていた。


「悪樓様」

「妙子、どうしたのだ。なにか問題でも? 玄関先が騒がしいようだが……私に客人か?」

「はい。八重お婆ちゃんが応対しているのですが、美雨様のご友人の方が来られていて。ぜひ、悪樓様にお会いしたいと……」

「そうか。わざわざこの私に会いに来るのだから、何か折り入って『願い』でもあるのだろう」


 悪樓の涼しい声音に、妙子は深々と頭を下げる。そして、お客様をお屋敷にお招きしますか、と問う。悪樓は庭から部屋に上がり、頭を横に振って妙子に告げた。


「ここは私と嫁御寮の聖域。出入りできる者はお前たち巫女の一族か、美雨が招いた客人だけよ。私が会ってやろう」


 ふと、一瞬皮肉めいた微笑みを浮かべると悪樓は屋敷の廊下を通って、玄関まで向かう。

 そこには、八重が困った様子で美雨の友人である由依と話していた。村人たちに用意して貰った和服ではなく、漂着時に着ていた洋服で悪樓を見ると、目を輝かせた。

 悪樓が時おり村民たちの様子を伺うことはあっても、よほどのことがない限り島民たちが、悪樓の屋敷に向かうことはない。

 なにか困ったことがあれば、神社に参拝すれば良いし、小嶌神楽のような特別な行事の日には、神楽殿に悪樓が姿を現してくれる。人々は皆、彼に手を合わせて願いを聞いて貰うのだから。


「――――あんたはもう、真秀場の村に馴染んでおるんだから、無闇にこの屋敷に近付いてはならん。なにか用があるなら、儂が聞いておくよ」

「もういいってば、悪樓さん出てきてくれたし。八重さん、ありがとうね」


 八重は、悪樓の姿を見ると申し訳なさそうに頭を下げた。悪樓は、八重に下がるように言うと由依を見る。


「あまり年寄りの手を煩わせるな。八重の寿命は残り少ない。お前は美雨の友人の……由依だったな。私に話があるなら、外で聞こう」

「不思議なことを言うんですね、悪樓さんって。寿命が見えるのかな? それじゃあ、外でお話聞いて貰っても、良いですか」


 悪樓は無表情のまま答えた。由依はそれにまったく動じない。つれない異性を見ると逆に燃え上がってしまう性質だ。

 ほとんど村人の前でも表情を崩すことのない悪樓だったが、海底のように冷たい雰囲気や、どこか月を連想させるような、神秘的な美しさも由依にとって興味深く、出逢ったことのないタイプの男だった。

 こんな田舎の島で網元をやるより、都会に出てモデルでもした方がいいだろう。

 恋人が居てお金持ち、そして顔もいい、まさに悪樓は理想の相手だ。

 島の中で一番高い場所にある屋敷の外まで歩くと、くるりと後ろを振り返り、悪樓を見上げる。由依は自分を、どんなふうに見せれば男が揺らぐかを良く知っている。


「悪樓さん、私……この島の人たちとあんまり馴染めなくて悩んでるんです。仲良くなれるコツを教えて欲しいなって。網元の悪樓さんに聞くのが一番でしょ?」

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