第32話 禁忌①

 美雨が目を覚ますと、悪樓が自分の隣で横になったまま静かな寝息を立てていた。長い睫毛が呼吸をするたびに動き、綺麗な髪がサラリと畳に流れた。神様でも眠りにつくのか、と思うと美雨は不思議な気持ちになる。

 穏やかな寝顔は人と変わらず、じっと眺めていても飽きない。


(悪樓さん、綺麗だな。悪樓さんの髪、本当は夢の中で出てきたみたいに銀色なんだよね。早く見たいな)


 髪が朝日に照らされて、キラキラと光っている。美雨は彼の寝顔にすっかり魅入ってしまっていたが、眠っている彼を起こさないようにして、布団をめくる。アンティークな書斎机の引き出しを開けると、画用紙と鉛筆を手に取った。


(悪樓さんを、描きたい)


 真秀場村に来てから、美雨はまだ一度も絵を描いていなかったけれど、彼を眺めていると唐突とうとつに、何気ない仕草や悪樓の佇まいを、絵に描きとめておきたい衝動に駆られた。


(きっと、萩原薫が自分の小説に悪樓さんを出したのは、思い出を残したかったんだ。どうして彼だけ、男性に転生したのかな)


 悪樓の絵を描きながら、美雨は萩原薫のことを考えた。あの小説のあとがきまで、まだ読んでいない。けれど、今なら彼の気持ちが、よく分かる気がする。


(もしかして同性なら、親友として、できるだけ長く彼のそばにいてあげられると思ったのかも)


 大方のデッサンが終わり、髪の色を真剣に塗っていると、ふと視線を感じて美雨は顔を上げた。悪樓が、薄っすらと目を開けて自分を、優しいまなざしで見ていた。

 とたんに恥ずかしくなった美雨は、赤面して画用紙を膝の上に置く。


「おはよう。美雨、絵を描いていたのか?」 

「は、はい。おはようございます、悪樓さん」

「庭に咲いた花でも描いていたのか? 嫁御寮、私に貴女の絵を見せてくれまいか」


 そう言うと、ゆっくりと悪樓が体を起こして美雨の顔を覗きこむ。彼が眠っているのをいいことに、勝手に絵のモデルにしてしまった。

 悪樓の寝顔を描いていたことを恥ずかしく思って、美雨はうつむく。悪樓は決して無理強いをするようなことはない。

 美雨は、気恥ずかしさで彼に見せることを迷っていたが、勇気を出してそっと彼に画用紙を渡した。悪樓は美雨の絵を見て少し、驚いた様子でいたが嬉しそうに柔らかく微笑む。


「あ、あの。まだ描き上げてないし、私自身がいろいろと練習途中なので、上手くないかも……です」

「美雨、上手に描けている。貴女の絵は私の特徴をとらえているし、とても綺麗だよ」


 そう言うと、悪樓は美雨の髪を指で梳き、額に口付けた。自分の絵を褒められた美雨は、心の中に温かく、淡い炎が宿ったような気がしてとても嬉しくなった。

 大好きな人に肯定されると、こんなにも幸せな気持ちになるのかと、美雨はぼんやりと夢見心地になった。


「ありがとうございます、悪樓さん。また悪樓さんの絵を、描いてもいいですか?」

「もちろんだ。貴女の好きなものを描くといい。私も美雨の描いた絵を、宝物にしても良いだろうか。もちろん、これから描く絵も全て……私たちの思い出にしたい」

「はい」


 抱き寄せられると、美雨は幸せでどうにかなりそうになってしまった。悪樓は思いやりがあり、彼女が大事にしてくれているものも、同じように大事に扱ってくれる。

 美雨は生まれてからこれまで、こんなふうに幸せに包まれ、一日一日を大切にして生きようと、思ったことはない。


「美雨、明日は私たちの婚姻の儀がある。今日のうちに、友人たちと話しておくといい。私の正体のことは、皆には言わずに。いずれ彼らも村の掟や、私のことを自然と受け入れるだろうから」

「はい。あの……結婚の儀は夢で見たように、夜の海へ向かうのですか? 姿を見られたらだめだから、友だちを呼んだりはできないんですよね」

「嗚呼。満月の夜に村長が祭主となって嫁御寮の貴女を連れてくる。私の本当の姿は貴女以外は、見てはならぬ掟になっているからな。美雨が望むなら、後日貴女の親しい友人達を集めて『祝言』のまねごとをしよう」


 悪樓の口から『祝言』という言葉を聞くと美雨は、ようやく結ばれるのだという喜びで、心の中が震えるような感覚がした。

 まるでそれは、前世から積み重ねられた魂の喜びのように感じる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る