夜の魔法使いと女剣士〜二人が最強のバディになるまでの冒険譚
一夏茜
第一章
第1話 不思議な出会い
深夜。闇が支配する路地をエリス・ローレンスは息を切らしながら走っていた。静まり返った街を松明の火が照らし、男たちの怒号が響く。靡く外套のフードの下に揺れる黒髪は傷み、黄金の瞳は逃げ場を求める必死の動物のような目だ。安物らしい旅装に身を包み、刀を腰に刺していた。意志の強そうな顔を歪めてひた走っていたエリスは、道の先に
「なんであいつが、」
エリスはもう泣きたかった。ここはエレクティオン王国の西の端にある辺境の街。とても騎士団団長がいるような場所じゃない。
何年も騎士団に追われ、逃げながらも女用心棒として裏の世界を生き抜いてきたエリスは、もう並大抵の相手には負けない強さを持っていた。危ない橋を渡ったことは何度もあったし、己を追ってくる騎士団など何人も殺した。
そんなエリスが初めてルークと刀を交えた瞬間、『勝てない』と思ったのだ。獲物を見据える冷たい冴え冴えとした眼光に背筋が震え、その時初めてエリスは死の気配を感じた。無理だ、勝てるビジョンが欠片も思い浮かばない。変な話だがこの瞬間にエリスは相手と自分の格の違いを思い知った。本能から負けを察したエリスはなりふり構わず尻尾を丸めて逃げた。
死にたくなかった。
そうだ、プライドなど、何の役にも立たない。泥水を啜るように生きてきたエリスは誰よりもそれを身にしみて理解していたはずだ。何よりもまず生き残らなくては。
その時、走っていたエリスは目を見開き、額に汗を滲ませる。胸を痛みが走ったのだ。心臓を締め付けるその痛みはエリスを嘲笑うかのように、段々と強くなる。エリスは苦しそうに顔を歪めて胸元を握りしめ、歯を食いしばりながら呻いた。
「ッこんな時に……!!」
大量の汗を流しながら膝をつく。激しく濁った咳をしながら地面にうずくまったエリスの顔は苦痛に濡れている。しかしこうしている間はない。顔を上げたエリスは路地の壁に這い寄るように近づくと、寄りかかりながら進む。口元を拭った手には血がついていた。
「クソックソッ……こんなところで捕まりたくない……! まだこの世界を何も知らないのに!!」
だが追っ手がすぐ側まで迫ってきている。そしておそらくすでにこの路地は包囲されているのだろう。ルークがあの場所に待ち構えていて、エリスの姿を目に入れてもすぐには後を追おうとしなかったのが証拠だ。こうなったら騎士団たちは焦る必要はない、何せ獲物は網の中にすでにかかっているのだから。あとは包囲網を少しずつ狭めていけばいい。今のエリスに逃げ場はない、おまけに体力も限界だ。
エリスの口から乾いた笑いが漏れる。奴らの目的から殺されることはないだろうが……命乞いの練習でも始めた方がいいかもしれない、そう思った時のことだ。その扉が見えたのは。
路地の隅。その美しい扉は、まるで最初からそこにあったかのように路地にひっそりと存在していた。目が覚めるような青い扉。黄金色に輝く真鍮のドアノブとドアノッカー。気品と優雅さを兼ね揃えたその扉は薄汚れた路地には不釣り合いだった。
一瞬今の状況を忘れて呆然と眺めていたエリスだったが、背後の男たちの怒号と喧騒を聞いてハッとした。今のエリスに逃げ場はなく、袋小路。どうせ逃げ続けてもいずれ捕まるだけ。こうなりゃやけだ。エリスは手を伸ばしてその艶々と光るドアノブを引っ掴んだ。
扉に鍵はかかってなくドアノブを捻ればすんなり開いた。扉を開いた瞬間、エリスの目に飛び込んできたのは摩訶不思議な部屋だ。天井が星空のようにチカチカと光が瞬く。目を見開いてその部屋の中を見回し驚いていたエリスは、自分を追っていた足音が扉のすぐ向こうからしたのを聞いて身をこわばらせた。エリスは扉の前で刀に手をかけ、いつでも飛び掛かれるようにじっと息を殺す。しかし、騎士団たちはこの扉に気づかなかったのか、その気配は通り過ぎていく。大きく息をついたエリスは改めて部屋の中をぐるりと見回した。そこは見たことのないもので溢れている。
美しい黄金細工の天球儀に、透き通った水晶のような惑星の模型、大振りの深い青の宝石が嵌め込まれた王冠。指輪。水晶の髑髏。星空を模したアンティーク時計。幻想的な青のステンドグラスから柔らかい光が降り注ぐ。びっしりと置かれた本棚には分厚い本が並び、隣の棚には不思議な植物が詰められた瓶が並んでいる。見上げれば紺青の天井いっぱいに黄金色の星図や星々が浮かび、星や月を模った飾りがキラキラと輝いた。暖炉の炎が時折ひら、ひらと燃え上がって辺りをぼんやりと照らしている。
「おい、お前」
突然の言葉にエリスは肩を跳ねさせ、刀を構える。声がしたのは暖炉のそばの長椅子からだ。先ほどは気づかなかったがこちらに背を向けて足を組んで座る男が一人。
「勝手に俺の部屋に侵入した挙句、今度は何するつもりだ? 早くその物騒なものをしまえ」
エリスはハッと息を呑む。ゆっくりと立ち上がってこちらを一瞥した男は背が高く、彫刻のように整った顔をしていた。白いけぶるようなまつ毛の間から滲む深い青は不機嫌そうに細められている。輝く美貌。金をかけられていると一目で分かる宝石がいくつも耳元で光り輝き、白髪のウェーブがかった長い髪がステンドグラスから降り注ぐ光を受けて何重にもきらきらと美しく煌めく。まさに頭の芯が焼かれるような美しさだ。だというのになぜかエリスは彼を一目見た瞬間、恐ろしいと思ってしまった。アーモンド型の目の中でタンザナイトのように怪しく光る青い瞳がエリスをまっすぐ射抜く。
そうして男はエリスをジロジロ上から下まで眺めた。口角を上げて面白そうに呟く。
「フーンなるほどな。お前追われてるのか」
「あんたには関係ないだろ」
エリスは刀を納めながらそっけなく言った。巻き込むつもりもなかったし、油断もまだできない。こいつがエリスを騎士団に売らないとも限らないのだ。しかし彼が言うことも一理あるとも思ったからエリスはひとまず刀を納めた。勝手に入ってきて刀を抜いている礼儀知らずはこっちなのだ。家主の言うことは聞いとくべきだろう。……それに、今追い出されしまっては困るのが本音だった。しばらくの間ここにいさせてもらうため、できるだけ逆らわないでいよう。
「いーや、関係あるね。お前が逃げ込んできたこの部屋は俺の隠れ家だ。何にお前が追われてるのか知らんが、せっかく隠れてるってのに騎士団に見つかったらいい迷惑なんだよ」
なんの反論もできなくてエリスは黙り込んだ。しかし、騎士団が立ち去るまでここに置いてもらわねば、捕まってしまう。
「あんたも騎士団に追われているのか」
「お前は頭に綿でも詰まっているのか。見れば分かるだろう。魔法使いなんだよ」
「魔法使い!? 本当か!?」
「俺の言葉に嘘はない。全く、この俺を疑うなんて何様だ?」
目を見開くエリスの瞳には驚愕と歓喜の色が浮かんでいた。エリスが切羽詰まったように口を開いたその時、胸に鋭い痛みが走った。汗を浮かべながら顔を顰めて耐えるエリスに、男はふむ、と考え込むように指を顎に当てる。
「お前……呪われているな」
「分かるのか」
「ああ、それも随分古い魔法だ。魔法使いなら誰でも解けるような簡単なものじゃない。相当の腕がないと解けないぞ」
「それって……」
そこで男は興味を失ったように視線を逸らすと指輪のはまった指を振った。細やかな彫刻の施された棚の扉が開き、ティーポットとティーカップが二つ、フヨフヨ浮かびながら出てきた。缶の蓋がひとりで開くと茶葉がふた匙ティーポットに入り、湯気のたつお湯が注がれる。
「魔法を見るのは初めてか」
思わず口を開けてその光景をただ見ていたエリスに、カップにミルクを注ぎながら男が尋ねる。ティースプーンでかき混ぜるとさっきまで透き通っていた紅茶が優しい飴色になった。
「うん」
気づけばエリスは痛みを忘れて素直に答えていた。魔法。エリスの知らない世界だ。エリスの心の中で好奇心という名の風船がぐんぐん膨らむ。エリスという少女は本来こういうタチだった。知りたいことがたくさんある。自分が知らないこの不思議な世界の、隅々まで知りたい。エリスは熱病に犯されたようにそう強く思うのだ。分かりやすいほどに好奇心に満面を輝かせたその表情を見て、男は目をそらした。
「ミルクティーだ」
エリスは渡された高そうなカップをそっと握る。毒味をするようにもったいつけて先に口をつけた男を確認してから、恐る恐る口をつけた。ミルクをたっぷり注いだ紅茶のまろやかな味が口の中に広がる。エリスは体をこわばらせていた緊張感がほぐれていくのを感じた。ホッとする甘さがじんわりと心を温める。
「美味いだろ。幸せの味だ」
男は頬杖をついて自慢げに微笑んで言った。彼が微笑むとその美しい美貌が際立つ。エリスはそれを口を開けて見ていた。
「痛みはどうだ」
「あっ痛くない!」
「簡単なまじないみたいなものだ。気休めにしかならない。ま、俺にできるのはここまでだ」
ふうっと息を吐いた男は椅子に足を組んで座る。しかしここで引き下がれるわけがない。エリスは男を見つめながら期待を滲ませ言葉を紡いだ。
「魔法使いなら呪いを解くことができるかもしれないって聞いたんだ」
男はエリスの言葉を聞きながら興味なさげに髪の毛を弄っている。毛先の傷みをチェックしながら、男は口を開いた。
「ったく、魔法って言葉を聞けばなんでもできると思うな。呪いを解くなんて誰にでもできる仕事じゃない」
「じゃあ……」
エリスはこの呪いを解ける者を何年も必死に探してきた。そして、ようやく魔法使いを見つけたと思ったのに。もはやエリスに残された時間は残りわずか。エリスは絶望感で目の前が真っ暗になる感覚がした。
「ま、俺にかかれば余裕だがな」
まさにその一声はエリスにとって一筋の光。エリスはパッと顔を上げると、前のめりになって言葉を放った。
「ほ、本当か!! 私、頼みたいことが────」
「あー……おっと、そろそろ時間のようだ」
男は壁に置かれたアンティーク時計を見てめんどくさそうに言い放つと、追い払うように腕を払った。
エリスが入ってきたあの扉がバタンと音を立てて開く。エリスの体が勝手に浮き上がり、滑るように扉の外へ放り出された。いきなり浮力から解放されたエリスは地面にきつく尻を打って涙目になる。背後でバタンと扉の閉じる音がし、後ろを振り返ると扉はもうどこにもなかった。
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