第30話

 床に散らばるのは無残に破り捨てられたスケッチ。父から最後に買ってもらったスケッチブックの表紙は真っ二つに割かれ、投げ捨てられている。描き溜めたスケッチの数々はご丁寧に一枚ずつ破かれ、踏みにじられ、ぐしゃぐしゃに丸められ、そのどれもが原型をとどめていなかった。大切な私のスケッチブックは、もうどこにもない。

 噛みしめた唇から、声にならない声が漏れる。

「何で……何で、私が何したって言うんだよ」

 しんどい。苦しい、腹が立つ。何より哀しい。

 絵を汚されることだけは耐えられなかった。心が負の方向へと急激に引っ張られる。あの、辛くて思い出したくもない高校時代に一瞬で引き戻される。あの頃の自分に戻ってしまうみたいで怖い。一瞬だって、戻りたくないのに。

 泣きたくないのに鼻がツンとして、涙で視界が歪み始める。目の前にある引き裂かれたスケッチブックに恐る恐る手を伸ばして、縋るように抱きしめた。

 宝物だったのに。この中に描いたすべて、私の宝物だった。

 殴られるより、絵を汚されることのほうが比べようも無いくらい辛い。

 許せない。殺したいくらい憎らしい。どうしてこんな目に遭うのだろう。

「私が悪いのかな」

 もう全部自分のせいにして、終わりにしたい。消えてしまいたい。短絡的にそう思ってしまう一方で、心の奥底でもう一人の私がいやだと叫んでいる。あの頃になんかもう戻りたくない。苦しい、助けて。そう叫んでいる。

 不意に視線を窓に向けた。

 ああ、あの時も。この窓から飛び降りようとしたあの時もこんなふうに胸が苦しかった。

 あの雨の日、私を助けてくれた音楽はもう響かない。

 もう一度あの音色が聞けたら、私はまた頑張れるのに。

「やっぱり、あの時……」

 死んでいればよかったのかな。

 声に出して言ったら何かが途切れて、壊れてしまいそうだった。私は徐に窓を開けて、下を覗く。もし、あの日ここから飛び降りていたらどうなっていただろう。死んでいたのだろうか。あの日きちんと死ねていたら、今の苦しみはなかった。これからも、あの女は私を害し続けると言う。この恐怖は、苦しみは、いつまで続くのだろう。

 いつの間にか、吸い寄せられるように身を乗り出した。高校時代の私に呼ばれているような気がした。今、ここから落ちたらどうなるだろう。落ちたっていいのかもしれない。自暴自棄になっていた。この体を支えている手から一瞬力を抜くだけで、解放される。

「もう、いやだ。逃げたい、消えてしまいたい」

 涙の混じった声で、嗚咽するように弱音を吐露した。溢れる涙を堪えた。あと一歩踏み出せば終わる、そう思った。

 その時、美しいピアノの旋律が頭上から降り注いだ。

「なんで……」

 空を見上げて、私はひゅっと息をのんだ。この旋律を私は知っている。

 死にたかった私を助けてくれた、あの美しくて、泣きたくなるくらい優しい音色。

「そうだ、今日……水曜日だ」

 はっとして、窓から降りた。床に両足が着くと、馬鹿みたいに私の足は震えていた。その間もピアノの音色は流れ続けている。

 水曜日の放課後、いつも聴いていたピアノ。これは願望が死にたがり私の耳に響かせる幻聴なのだろうか。けれど、幻聴とは思えないくらいしっかりと、この耳に音は届いている。幻聴なんかじゃ、ない。

 私はこの優しい音楽に何度救われたのだろう。

 身体は勝手に教室を飛び出していた。あの時も、今日も。私を救ってくれた美しくて、とびきり優しい音楽。一体、誰がこの優しい音色を奏でてくれているのだろう。

 転びそうになりながら、階段を駆け上がり、三階の音楽室の前で立ち止まる。荒い息で胸は忙しなく上下する。開いている扉から中を覗いた。沈みかけた色濃い夕陽は、音楽室を深紅に染めている。

 黄昏時、ピアノを響かせるその人の容貌は、夕陽の影になってはっきりとは見えない。最後の一音がそっと響いて、音楽室は静まり返る。

 演者は立ち上がると、私に気づいたように顔をこちらに向けた。風で揺れたカーテンが一瞬、眩い夕陽を遮り、やっとその人の顔を見ることができた。

 子犬みたいにふわふわの髪に白い肌、くりっとした目にすっと通った鼻筋。何より印象的なのはまっすぐな強い瞳。少年のようにあどけない顔立ちはよく知っているものだった。

「一ノ瀬くん……」

 私を救ってくれたのは、優しい音楽を奏でていたのは、一ノ瀬律だった。やはり彼だった。彼であれと、彼が良いと、そう思いながらここまで走った。

 違う、もっと前から本当は何度も思っていた。ピアノの彼があなただったらいいのに、と。それは、願いにも似た予感だった。

「どうしたの、澤村さん。何かあったの?」

 彼はびっくりしたようにこちらを見て尋ねる。

「あ……あの、えっと……」

 何から言えばいいんだろう。彼に何を伝えれば良いだろう。そんな気持ちと裏腹に言葉が勝手に口から溢れてくる。

「あのね、水曜日……」

「水曜日?」

「水曜日の放課後……ここで、ピアノを弾いていた?」

「え?あ……高校の時?うん、弾いてたよ。何で知ってるの?部活が水曜日休みで、音楽室空いてたからピアノ借りて……って、えっ、澤村さん⁉」

 一ノ瀬はぎょっとして私を見る。さっき我慢したはずの涙が止めどなく溢れて、頬を伝う。熱を帯びた涙は真下にぽろぽろと零れ落ちていく。

 私が会いたくて、堪らなかった人。

「一ノ瀬くんだったんだね……」

 熱い塊のようなものが喉につっかえてうまく息ができない。

「私、いつも救われてた……あなたの演奏に。こんなこと、急に言われても困ると思うけど、ごめんね。でも、本当に救われてたの。ずっとあなたに直接、お礼が言いたかった。だから、ありがとう」

 絞り出した声は掠れていた。瞬きする度に、大粒の涙が頬を伝い落ちる。

 きっとこの涙は、高校生の私の涙だ。あの時辛かった私が、あの時救われた私が彼に会えて今、歓喜して泣いているんだ。

「あの時、私を救ってくれてありがとう」

 涙声でそう言うと、私は泣き崩れるようにその場にへたり込んだ。困惑する一ノ瀬が駆け寄ってきて、私の涙を拭ってくれるのに、涙は次から次へと溢れて止まらなかった。

 泣きながらやっと私は自覚して、認めた。


 私は、この人が好きだ。



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