第29話

 ***


 週が明けて、いよいよ教育実習も大詰め。最終週に入った。

 先週から止まっていたはずの佐々木の嫌がらせは、また復活していた。おそらく、金曜日のことでまた怒りに火をつけたらしい。月曜の朝、ロッカーを開けると、生ごみが入れられていた。それを皮切りに地味な嫌がらせが続いた。

 けれど、今週は木曜日に研究授業があるので、私は嫌がらせどころではなく、気が気ではなかった。美術はもちろん他教科の授業見学に、自分の授業など、とにかくやることが多すぎて、月曜、火曜と信じられないくらい早く時間が過ぎていく。嫌がらせに構っている暇はなかった。

 念のため、一ノ瀬の助言に従って、嫌がらせの記録だけは残していたけれど、もはや軽度の嫌がらせに心を痛める暇すらなかった。

 そして水曜日。

 翌日の研究授業に向けて私はプリントの準備や、授業で使うスライドの微調整などになどに追われていた。研究授業の後に待つ、あの恐ろしい検討会。そこで突かれる部分をできるだけ減らしたくて必死だった。

 それに、私にとって研究授業はおそらく人生で最後の授業になる。生徒たちに少しでも多く絵を描くことの楽しさを伝えたい。そのために出来ることはしておきたかった。

 水曜日も慌ただしく一日が過ぎて、ホームルームの後、疲れた顔で廊下を歩いていると、美術部の生徒たちに話しかけられた。

「澤村先生、今週で実習終わりでしょ?」

「そうだよ、金曜でお別れです」

「やだあ、寂しいー。先生にもっと部活で色々教えて欲しかったなあ」

「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいよ。今日は水曜だから部活はお休みだけど、明日の部活は行くからね」

「じゃあ、明日の部活でいっぱい話そうね、澤村先生!そうだ、先生のスケッチブック、また見てもいいですか?」

「うん、いいよ。美術室の棚に置いたままにしてあるから、自由に見てね。でも、すごく大切なスケッチブックだから、扱いは丁寧にお願いしますね。本当に大切なものだからね」

「はーい!」

 その生徒は手を挙げて元気に返事をする。その時、ちょうど後ろに通りかかったスーツの女性に生徒の手が当たった。

「あ、すいません!」

 反射的に私は謝った。けれど、その相手は佐々木美希だった。私はぞっとして息をのむ。

「あ、佐々木先生、ごめんなさい。手が当たっちゃった」

 生徒が頭を下げて謝ると、佐々木は可愛らしい顔でさらに可愛らしく微笑む。

「大丈夫だよー。でも、危ないから気を付けてねぇ」

 にこやかに手を振って、彼女は去った。立ち去る寸前、意味深な視線を私に向けたように見えた。彼女がいなくなって、息をするのを忘れていた私は深く息を吐いた。

 生徒たちとしばらくお喋りして、私は小会議室に戻り、研究授業の最終確認をしていた。印刷物のチェック、授業でスクリーンに映す予定の資料など、確認しても確認しても不安は拭いきれない。早く明日が終わってほしいと思うくらい、今から緊張してしまっていた。一通り準備を終えたら、美術準備室で高岡先生に最終チェックをしてもらった。

「そんなに緊張しなくても、最後の授業を楽しめばいいんですよ」

 そんな優しい言葉をかけて、高岡先生は帰っていった。今日は部活もないので、先生も早々に帰宅した。私は無人の美術室で明日の授業の練習をする。言い回しは変えた方が分かりやすいかな、この質問の時は誰を当てようか。そんなことを考えながら何度か練習をした。日が落ち始めて、そろそろ帰ろうかと美術室を片づけていると、扉をノックする音がした。

「澤村さん、今大丈夫?」

 扉を開けて飯森が顔を覗かせる。リュックを背負っていて、すでに帰り支度を済ませた様子だった。

「飯森さん、どうしたの?」

「あたし、今から帰るところなんだけど、家庭室の前で落とし物拾っちゃってさ。たぶん、生徒の自転車の鍵だと思うんだよね」

 彼女はキーホルダーのついた小さなカギを手に持っていた。

「悪いんだけれど、代わりに生徒指導室に届けてくれないかな?どうしても次のバスに乗りたいの!今日、姪っ子の幼稚園のお迎え頼まれててさ」

「ああ、全然かまわないよ。任せて」

「ありがとね、澤村さん!助かる!」

「バスに遅れたら大変だから行って、行って!じゃあね!」

 飯森はバイバイと手を振って急ぎ足で階段を降りていった。落とし主のためにも早く届けようと、私は美術室の片づけは途中にして鍵を持って生徒指導室に向かった。生徒指導室は遅刻や校則違反の時にお世話になった場所だが、忘れ物や落とし物も管理していることを実習中に初めて知った。

 生徒指導室を訪ねるとまだ、先生が一人残業していて、無事に忘れ物を受け渡すことができた。再び実技棟に戻ろうと廊下を歩いていると、実技棟からこちらにむかって歩いてくる人影があった。それが誰だか気づいて、私はすぐに廊下の端に寄って、目を伏せながら歩く速度を速めた。

 向こうから歩いてきたのは佐々木美希だった。

 佐々木は逃げようとする私の目の前にわざと立ち塞がった。

「……なに?」

 行く手を阻まれた私は、目を伏せたままそう問うしかなかった

「なーんか楽しそうだねぇ、香ちゃん」

 佐々木は感情の無い声で言う。

「なんであんたみたいなのが実習に来てるわけ?得意なお絵描きしてればいいのに。絵が上手いでーすって自慢でもしに来たの?プロの画家のくせに冷やかしで教育実習来てんじゃねえよ。どうせ、あたしみたいな教育学部の平凡な人間を馬鹿にしてんでしょ?」

「そんなこと思ってない……いきなり、何なの。意味が分からない」

「そうよだね、どうせあんたなんかにあたしの気持ちが分かるわけない」

 見間違いかもしれないけれど、佐々木はほんの一瞬、切なそうな、苦しそうな顔をした。そして、すぐにその顔は恐ろしい形相に変わり、私に顔を近づけて睨みつける。

「私はお前を許さないからな。大切なもの、全部壊してやる。無事に実習を終えられると思わないで」

 佐々木は愉快そうに顔を歪めて笑う。

「私、あんたなんか大嫌い」

 私の髪を引っ張り、彼女は耳元で囁く。そして突き飛ばすように私を押しのけて、彼女は荒れた足取りで去っていく。私はバランスを崩してその場に倒れる。身に覚えのない怒りと悪意を向けられて、恐怖しかなかった。震える足で、なんとか立ち上がるけれど、震えは一向に止まらなかった。

 どうして、あの子は私をここまで憎むのだろう。何の接点もなかった、私を。

 嫌な予感がした。私はすぐに美術室へ走った。教室の前まで来ると立ち止まって、私は乱れた息を整える。

 半開きのドア。誰かが、美術室に入ったんだ。私のいない隙に、誰かが。水曜日は、基本的に部活は休みだから、実技棟に生徒の姿はない。こんな時間に、私が少し席を外した隙に美術室に忍び込む人間なんて一人しか思いつかない。

 この予感が当たっていませんように。願いながら、震える手で美術室の扉を開けた。飛び込んできた目の前の光景に、息が出来なかった。

「そんな……」

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