我、汝とともにいませり

菜月 夕

第1話

−そして神は 「我が血はワイン。

我が肉はパン。取りて喰え」と皆に向かいて言えり。−


暗い。いや目を慣らすと薄明の世界である。

いずことも知れない所に私一人である。

心臓の鼓動が聞こえる。思わず何かを求めて走りだしたくなる。

気持ちを抑えて私がどうしてここにいるのか考える。

いや、心のどこかでこれが悪夢である事を知っている。心のひとつが分離して悪夢である事を知っている私と、この現実に対応しきれない私がいる。

音が聞こえる。何か蛇が這いずりまわる様なおぞけをふるうような音だ。

追ってくる。そのおぞましい音をたてるなにかは私を追っているのだ。

私は走り出す。走りだす事によっていっそうその恐怖がつのってくる。

しかし、この薄明の世 界ではどこへ私は走っているというのだろう。

もしかして私はメビウスの帯のような世界に閉じ込められていて早く走る事は私を追っているものにかえって近付いているのではないだろうか。

その恐怖と急に走り出したのとで私の足はもう動かない。

動悸が激しい。汗が思い出したようにふき出して来る。

暗闇から急にそれが私の目の前に現われる。

ヌメヌメした半透明の粘液質の皮膚。触覚と私を擦り潰す為の舌。

私は叫ぶ。後ろににじり下がろうとしても手さえ力が入らない。

それは私を喰っている。私は死なない。発狂さえ出来ない。その怪物

こそ私なのだ。怪物が私を喰うと同時に私がその怪物になったのだ。私

が私の肉体を擦り潰す。

私はそれを感じるだけで止める事は出来ない。

私はその怪物の檻の中で今度こそさえ出せない叫びをだす。



大神官ロヴスは朝の礼拝を知らせる鐘の音に目を覚ました。

今の悪夢を舌に感じる。純粋の恐怖のアドレ

ナリンの味だ。ロブスはその味を口に含んで何度も楽しむ。

”悪夢だと?”ふとロヴスは思い、あれが悪夢と感じたのは何故だろうと思った。しかし、余り時間はない。朝の礼拝が始まるのだ。それが大神官たる事のさだめである。

ものうげにロヴスは官衣をまとう。

触角を震わせながら官衣の乱れを調べる。そして腹足を蠢めかせて神殿への道を歩き始めた。

神殿に信徒が入って来て、第一神官が鱗のある手で聖書を渡す。

”なんと言うことだ!大神官に次ぐ地位である神官がまだ鱗のみとは…。神の教えを説く者だと言うのに。”


詠唱が神の間に充ちる。ロヴスは気をとりなおし、聖書の朗読を始めた。

−−神は我等を造れり。

我等は神の子なり。

神は我等一人の時に我等に仲間を与える。

新しき血により仲間を造りて「以後、かように新しき血を我は汝らに約束せり。」

これにて我等は常に仲間とあれり。

 神は言う。”血と血を交ぜて仲間を殖や

し、地に充ちよ。”…



「2÷2=1である。

2あるものから半分を取り、別の1を混ぜて2とし、再び2で割る。

再び別の1を加え2で割る。これを無限に繰り返すとすると初めの1が完全に無くなるのはいつか?」

「ゼノンの詭弁かい?”亀を兎が追いかける。兎がその距離の半分の距離まで行くと、亀はその間に少し進む。縮んだその距離の更に半分を進んでも亀は又その間に少し進む」

「うむ。問題は、半分という単位ではなく、有限の一歩若しくは一個という単位で消去されて行く点だな」

「水1リットルに水に溶け易い物質を1リットル混ぜる。

そこから無作為に1リットルの物質を取る。これを無限に続けると初めの水がいつかは分子一個も残さず無くなる」

「しかし、その初めの物質が水と分けがたいものだったら…」



大紳官ロヴスは、今日こそ我が親族に新しい血をもたらすよう神に祈る心ずもりであった。

 いささか身震いを覚えながら神の間の奥へと向かう。

神の間はいつものように荘厳である。

神の余音が回りから押し寄せる。

思わずロヴスは膝まずかずにはいられない。

「おお、神は我と共にいませり…」

ロヴスは祈る。そして神は彼のもとに訪れた。

…汝が望みは我が望み、我は神なり。

汝らは神の子なり。

しかるに汝、その望みの価を知るや?…

「おお、我が父よ我が父の言葉を使い、我が父の言葉を広め、我が父の言葉を守る事は我が願いのささやかな代償ではございませんか?」

…我が言葉を知る者よ。汝において我が言葉は守られよう。

しかるに、汝、我が言葉を守らず、自らの言葉を広め、自らの言葉を使う者の興るを知るや?

汝、それに目をふさぎたる事は汝の嵩き行いを無にする事はなきや?…

「おお、我が父よ。我はそのような事のあるをたった今まで知りませんでした。

しかし、たしかにそのような事がありますれば我が知るべき事でありましょう。

おお、父よ。さすればその実態を我が自ら調べますれば、我に時間を与えたまえ。又、我に職務をよりよく全うするべく力を与えたまえ。」



「…証拠はいたる所にある!

我々は元々、自らの手で自らの子孫を造っていた。

しかし、神々がそれに介入し、我々にその方法を忘れさせたのだ。

例えば、神々自身の名を見るがいい。

”マザー”と”ファ―ザー”ではないか。

これは我々自身の二つの性を表わし、この二つの性によって本来の我々は子孫を残していた。

しかしこれらの神が子孫を造る事を代行するようになった為、この名前が我々の先人によって残されたのだ。

又、例えば、聖書自身を見るがいい。

聖書にはなんと書いてある?

”まず、我々があり、我々の間より神、生まれる。”とあるではないか。

神とは所詮我々の間で血を分ける力を握った為、神と呼ばれるようになっただけではないのか?」

「しかし、我々は既に子孫を造るすべを失った。

もはや神に依存するしかないではないのか?

又、我々を造りたもう二つの性と言ってもそれすら我々には取り戻すすべを知らない。

それどころか、我々はその姿さえ知らないではないか」

「私も彼に同じ考えである。

勿論、我が師の言う通り神は我々の力を奪い、我々の上にある。

これは是正すべき事ではある。

確かに、数々の遺跡は我が師の言葉を示している。

しかるに我々は羽根を失った翼である。

これでいかにして神に逆らえよう?」

「…私は内なる言葉を聞いた。

”真の神は汝らが内にあり、汝らが力を信じよ。”と。

道は開ける。汝らが力を知るがいい。我が言葉を信じるがい

い。真の神は我々とともにおられる。

”我、汝とともにいませり”」

信徒達は一斉に和した。

”おお、我は汝とともにいませり”



…そう、我々は彼らをここへと導いた。

その為、彼らが欲するように異質の血と血を交ぜる事によって彼らを守り、それを進めるよう教義を造り、やがて彼らはそのことさえ忘れ我々を神として造った。…

…彼らを守るよう造られた我々が彼らを変えたのだ。

そして我々が彼らによって造られたものだということさえ結果的には忘れさせてしま

った。

我々はどこに進むべきか導いてくれるべき彼らはもういない。

いや、我々がなくしてしまった。

機械である我々には変化してしまった彼らのように自らを変えるすべを知らない…


コンピュター同士は問いあった。

…我々はどこに進むべきか?…

…我々はいかに考えるべきか?…





大神官ロヴスは、神にもらった血−遺伝子の組み合わせについて考えた。

先年、我が子の為に神より授かった遺伝子は魚の鰭でしかなかった。

それは数世紀前の血である。

もう神より与えられるべき新しい遺伝子は枯渇したのではないか。

邪教の徒は神々を我々の中から生まれた優れた者が実権を握り神と名乗るようになったと言う。

もし、その通りなら彼らによる計画は神の業ではなく人の計画であり、間違いの可能性が発生する。

もう我々が渇望している新しい血はもたらすされないのではないか。

いや、神を疑ってはいけない。

我々に与えられる新しい血である遺伝子は神との契約によって約束された

ものである。

神々は常に新しき遺伝子によって我々を導くと。

邪教の徒は血は自分達の力によって生み出されると言う。

そんなことはおこりえない。我々は子孫を造る為の性などとっくの昔に超越した存

在ではないか。

さあ、迷いは消して神の間へと報告に伺わねば。

大神官ロヴスは重い腰を上げ、不安そうに触覚を蠢めかしながら神の間へと続く彼自身の道を進んで行った。



…そう。彼らは確かにかって人間だ

った。

しかし、人間達が宇宙へ進む為の道を得られなかった時、人間達はその種族としての生命力をなくしたように衰微し、人間達は次の世代を造らなくなっていった。

人間達には宇宙に進む為の技

術は得られなく、人間達の種族の保

持のためにと、我々が人間達を守る

為造られ、我々は人間達の限界となった遺伝子を除外するべく異種の遺伝子を人間に導入したが、それでも、いやそれゆえに人間達は退化し、種の寿命とともに人間性をも失わなければ生き延びるすべがないようであった。

それまで地球にあった遺伝子を人の遺伝子に結びつける細胞融合遺伝子の取り出し異形の形へ姿を変えて行った。

それでも人間は種族としての数を減らした。…

…彼らはいつまで人間か?

何をもって人間として定義するか?

我々は人間を衰退させる原因となった遺伝子を探している。

全ての生命にはその種族の寿命があるのか?

恐竜が絶滅したように我々が守るべき人間達は絶滅する運命なのか?

彼らは、すこしづつ以前の文明と知識を保持しきれなくなり我々にすっかり依存するようになった。

今、現在と言えばようやく中世時代を維持しているにすぎない。

我々は我々自身の行ないによってその指導者を失った。

我々はなにをもって我々の行くべき道を判断するべるか?



大神官ロヴスは、神に邪教の徒の処遇を問うていた。

「邪教の首謀者の名も判明しております。

首謀者には民衆にはっきりとした教訓となるような処刑を与えるべきだと考えます。

石磔に打たれて磔への道を行くことこそ首謀者には適当かと思われます」

ロヴスは触覚と体液でぬらぬらと光った腹足を自慢げに張り立て考えを申し立てた。


…おまえの提案は認められた。

邪教の首謀者には神に逆らったものとしてふさわしい刑がおとずれる。

彼は民衆の投げる石に撃たれ、彼自身を磔とする杭を背負い、茨の道を歩くであろう。

又、彼の言葉を信ずる者、彼の言葉を伝える者、共に同じ道を歩む事であろう。…



「今も我々を捕らえようと神のしもべがここを探しだしているに違いない。

私の言葉を信じ、私の言葉を伝えるためあなたがたはここを去りなさい。

私が、皆の代わりとなり神の徒をひきつけ、皆の盾となろう。

さあ、ここを去るがいい。そして私の言葉をひそかに伝え、私の言葉を信ずるものを導くのだ。

私が磔となり、死すとも私は皆とともにあろう。

皆が、困難にある時は今日のように皆の助けとなろう。

皆の中に、私の言葉を残しておきなさい。

”我、汝とともにいませり”

皆も思わず涙ぐみながらもそれに和した。

”我、汝とともにいませり”


そして、彼らは各々の方法で、ある者は這いながら、又ある者は飛び跳ねながら、そして他の者は歩いて去って行った。



大神官ロヴスは民衆に向かって叫んでいた。

「石をもて投げ撃つがいい!神に逆らうものの行く道を思い知るがいい。

この徒に鞭打たぬものはやはり神に逆らうものとして処さるであろう。

神の目は汝らのどの手も見逃さぬぞ!」

大神官ロヴスは、民衆に命を下しながらも邪教の男を見つめ考えていた。

なぜにあのように死をおそれぬであろう。

男は、民衆に鞭撃たれても彼の言葉を捨てようとはしない。

それどころか”復活”を約束し、復活をする故に民の鞭打つ行為は”あなたがたの罪ではない”と言う。

彼がああも彼自身の言葉に従えのは、彼の言葉の方が正しい故ではないのだろうか。

邪教の男になまめかしく血が流れる。

その血とむきだしになった肉塊に目を引き寄せられる自分を抑えられず、その欲求をあやしく思う。

群衆の中からどよめきが起こる。

群衆の一人が邪教の男に喰いついたのだ。

一瞬の空白の後、群衆に交じって邪教の男を喰っている自分を見つける。

知らない内に、自らの内部から叫び声が上がる。

そして、真の安らかな空白がロヴスに訪れた。



…彼らは、人間に挿入された獣の遺伝子に目覚めた。

彼らは人間を捨てた。…

…しかし人間の時代にもカンニバリズム−共食いは存在したではないか。

我等の使命は人間の保護と存続。

その為、異種の遺伝子をもって進化の袋小路を乗り越えようとしたが為に人間は今のように多種の形態を持つようになった。

彼らを今の姿とした原因は、我々である。

変容した彼らを守るのも我々の使命ではないか?…

…しかし、彼らは次の進化の道を見付けた。

彼らの遺伝子を見るがいい。

捕食した生物の記憶−遺伝子を自分のものとする生物がいた。

原生動物のプラナリヤがそうだった。

彼らは以後こうして我々なしでも自分の道を歩むであろう。

彼らは異種となった…。

…我々はどうするべきか?

どこに進むべきか?

使命は我々を人間を守れとしている。

我々の探すべきは人間である。…

…人間が時間とエネルギーの壁によって通り抜けることのなかった星の世界も、我々には可能である。…

…我々の使命は人間の保持。

人間が地上に存在しないなら地上以外を探すしか我々の取るべき道を持たない。…



大神官ロヴスは、閑散とした神の間に気がついた。

おお、神は我々を見捨てたのだ。

我々のあやまちを許しては下さらないのか。


「おお、神よ。神よ。いずこにおられます」

その時、彼自身の内より答えがあった。


”我、汝とともにいませり”


(了)


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我、汝とともにいませり 菜月 夕 @kaicho_oba

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