朝陽の中で微笑んで

朝陽の中で微笑んで

　 山間（やまあい）にある小さな診療所。一人の男が長い入院生活をしていた。

　村上正弥（むらかみまさや）の入院している病室の窓からは、冬枯れの白樺の木が見えた。

　季節は真冬の十二月。白樺の木は、枝先をまるで死人の手のように、こっちに向かって伸ばしていた。その枝先には、風に揺れた一枚の木の葉が着いていた。

「あの木の葉が風に吹き飛ばされたら、俺も死ぬんだろうな」

　正弥（まさや）が溜め息混じりに言った。

「なにバカなことを言ってるの、縁起でもない」

　薬を持って病室に入ってきた一人の看護師が、笑顔で言った。

　村上は、最近夜中によく目が覚め、眠れない日が続いていると言った。

「よく眠れるお薬を先生に言って処方してもらいましょうか？」

　看護師の西田仁美（にしだひとみ）がそう言うと、正弥はそんな必要は無いと言った。

「でも、眠れた方がいいでしょ」

　仁美の言葉に、正弥は何も答えなかった。

　仁美が、正弥の血圧を測りながら、何気なく正弥の顔を見た。

　彼は、ベッドに横たわったまま窓の外を見上げ、白樺の木に着いた一枚の葉を見上げていた。

　看護師の仁美は知っていた。村上正弥が末期の癌（がん）を患い、その命も、あとわずかだということを。そして、正弥自身も、それに気付いているのだ。

　正弥が、自分に誰か訪ねて来なかったかと、仁美に訊いた。仁美は誰も来なかったと言った。

　しかし、三日前、正弥の身元を確認するために県警の刑事が訪ねて来たのだ。その刑事の話では、十二年前にあるビルが爆破され、長い間容疑者を追っているうちに、偶然、この診療所にそれらしい人物がいることを聞きつけ、やって来たとのことだった。その刑事たちが見せた似顔絵は、まさしく村上正弥の顔だったのだ。

「ここにはそんな人はいませんよ」

　刑事は、入院している男を見せてほしいと食い下がったが、仁美は、入院しているのは、死を目前にした老人だと言い、しつこい刑事たちを引き取らせた。

　十二年前のその事件は、うっすらと仁美の記憶にも残っていた。その会社は、詐欺まがいの商法で老人たちからお金を集め、それを自分たちで全て着服（ちゃくふく）していたというひどい事件だっだ。

　その詐欺事件は世間を騒がしたが、結局、その会社は有能な弁護士を雇い、証拠不十分で不起訴になってしまった。

　しかし、一か月後、その悪徳会社は何者かにビルごと爆破され、社員八人が爆死して幕が引かれた。そういう事件だった。

　その犯人が、今、目の前に横たわり、死を目前にしている村上正弥なのだろうと仁美は思った。

「結婚してるのかい？」

　正弥は、何気なく仁美に訊いた。

「どして？」

「ただ、なんとなく訊いただけさ」

「あなたは？」

　仁美か訊いた。正弥は独身だと答え、仁美も自分もそうだと言った。

「前に一度結婚したことがあるんだ」

　正弥が昔を思い出すように言った。

「離婚したの？」

　 仁美の問いに、正弥は頷いた。

　 仁美はそれ以上訊かなかった。男と女には様々な事情があるものだ。

　それからは穏やかな日々が続いていた。正弥の様態は、決して快方には向かわなかったが、顔色は良く、日々の食欲もある程度戻ったようだった。

　仁美は、できるだけ正弥の病室のベッドサイドで食事をとるようにした。食事をとりながら正弥と交わす他愛（たわい）のない日常会話が、仁美には心地よく、女心を癒される気持ちになった。正弥も、仁美と話している時間が、一番心が落ち着く時だった。

「僕ばかりに付き添っていて、他の患者はほっといていいのかい？」

「いいのよ。この診療所にいる患者はあなた一人なんだから」

　仁美は、作ってきたサンドイッチを食べながら言った。「あなたが元気になって退院したら、私は看護師を辞めるつもりなの」

　正弥が、なぜ？　と訊いた。

「人の死を見るのは、もうウンザリなの、ただそれだけのこと」

　仁美がポツリと言った。

「それじゃ僕は、君が看取る『最後の患者』というわけだね」

　冗談交じりの正弥の言葉に、仁美は急に腹を立て、病室を勢いよく出て行った。そして診療所の廊下を歩きながら、仁美の頬（ほほ）を涙が走った。

　ある朝、仮眠室でウトウトしていた仁美の耳に、ナースコールのブザーが聞こえた。仁美は慌てて正弥の病室へと走った。

　ベッドに横たわる正弥は、虚ろな目で仁美を見ると、手を握ってほしいと弱弱しい声で言った。仁美は正弥の冷たくなりつつある手を、しっかりと握った。

　正弥は、朝陽が見たいと言った。

　仁美は、サッとカーテンを開き、病室に朝の陽射しを入れた。午前六時半、斜めに差し込む太陽の眩しいほどの陽射しが、正弥の顔を照らしていた。

　正弥が消え入りそうな声で言った。

「ありがとう」

　仁美は、正弥の唇に、自分の口をゆっくりとつけた。そして温もりを無くしつつある正弥の唇から離れると、仁美は静かに言った。

「これで私とあなたは夫婦だわ」

　正弥は、ゆっくりと目を閉じ、微笑みながら息を引き取っていった。

　　THE END