昇龍星ー駆け抜けよ、テムジン
popurinn
第1話 オノン川のほとり
1162年、モンゴル高原北東部、夏を迎えたオノン川のほとりで、一人の男児が誕生した。
男児の名は、テムジン。
氏族の首長であるエスゲイを父に、その父がメルキト族から略奪し妻とした、ホエルンを母に生を受けた。
これは、テムジンが成長し、オノン川ほとりから、西へ南へと馬に乗り、おのが部族の世界を広げていく物語である。
うっ。
乳首に鋭い痛み感じ、ホエルンは声を飲み込んだ。
声は出せない。
もし、痛いなどと叫んだら、平手打ちされるか、まわりに転がる薪で、尻をぶん殴られる。
夫のエスゲイは強い力でホエルンを扱う。首筋を吸うときも、その大きな石のような硬い掌で身体をまさぐるときも、容赦ない。
それが男というものだ。
ホエルンはそう信じているし、疑問に感じた覚えもない。
だが、今夜、とりわけ、乳首が痛いのだ。先端は切れて血が出ている。傷は何ヶ所もあり、治る前から新たな傷ができる。
テムジンには、困ったものだ。
ホエルンは胸のうちで呟いた。
母の乳を吸うとき、テムジンは勢い余って、乳首に噛みつく。多く飲もうと焦ると、ますます強く噛みつく。
このところ、ホエルンは、乳の出がよくなかった。赤ん坊は、それを知っているかのように、執拗に吸い付いた。
犬や牛の中に、ときどき気性の荒いものがいる。兄弟を蹴飛ばして殺してしまったり、兄弟の分まで食べ物をたいらげてしまったり。
そういう獣は、扱いにくいが、元気に育つ。悪い虫がたくさん牧草地にはびこるときでも負けず、よく肥えて、強い体になる。
生きる力が強いのだ。
ホエルンはそう思う。
テムジンは、今、夫婦の寝処の傍らの、擦り切れたフェルトの上に眠っている。
大きな赤ん坊だった。部族に生まれた赤ん坊の中で、これほど大きな者を、ホエルンは知らない。
両手を頭の上に上げ、両足を投げ出した、堂々たる寝姿。
生まれだばかりの赤ん坊に、堂々たるも何もあるものか。
そんな声が聞こえてきそうだが、ホエルンには、自分が初めて産んだ子どもが、立派に思えてならない。
この子は、神様に選ばれている。
ホエルンは、出産のときを思い出した。
気の遠くなるような痛みと、丘の向こうの幕舎にまで響き渡るような赤ん坊の産声。
赤ん坊は、掌に、血の塊を握っていた。
あの血の塊が証拠だ。
ホエルンにはそう思える。
エスゲイが目的を果たし、高く寝息を立てはじめると、ホエルンはそっと寝処を離れた。
このところ、ホエルンは、目が冴えると、こうして密かに寝床を離れる。
赤ん坊が生まれるまでは、エスゲイの顔色をうかがい、一人で行動などできなかったが、いまでは不思議なほど大胆になった。群れを離れて、勝手に草を食む羊のように、自由になった自分を感じる。
足音を忍ばせて、幕舎の外へ出た。
外へ出た途端、夏の匂いに包まれた。辺り一面に広がっている薬草の香りだ。
ホエルンは、薬草のさわやかな匂いを胸いっぱいに吸い込み、空を仰いだ。
帯のような星屑が、深い夜空を渡っている。
長く尾を引いて、流れ星が暗い地平線に落ちた。
近いうちに、エスゲイは戦いに赴くだろう。
相手の首と、何頭もの羊と馬と、うまくいけばめずらしい布や、光る石を持ち帰るだろう。
もうすぐ夜明けだ。
幕舎のまわりで草を食む馬が、いななきを上げた。
☆
モンゴル高原の北東部を流れるオノン川は、ヘンティ山脈を源とし、東へと流れ、シルカ川に合流する。シルカ川はアムール川と一体となり、川幅を広げ、やがて、タタール(間宮)海峡へと注ぐ。
オノン川の源、ヘンティ山脈の南には、いくつもの盆地がある。風を避けるのに格好の場所であるこの草原に、古くから遊牧民は幕舎を設営した。
12世紀初頭、モンゴル高原に割拠していたのは、メルキト、オンギラト、タタル、ケレイドなど多くの部族である。まだ強い統率者を得ないこれらの部族たちは、幕舎の設営地をめぐり、家畜をめぐり、またはもっと些細なことで諍いを繰り返し、時には戦闘にまで発展して、多くはない財産を奪い合った。
月が満ち欠けを繰り返し、羊たちは何度も繁殖期を迎えた。
テムジンが生まれて、八度目の秋のことである。
タタルとの戦闘
空はどこまでも青く、澄んでいる。
草原は黄金に輝き、激しい風に波打つ。
風は、ヘンティ山の向こう、シベリアから吹いてくる。
「チョー! チョー!」
草原にエスゲイの声が響き渡った。
馬のいななきと地面にとどろく足音に、いっせいに鳥たちが飛び立ち、さえずりと羽音で辺りは騒然となる。
オノン河畔で鷹狩りをしていたエスゲイは、先頭に立って、馬を駆っている。従う者は、兄のネクンと弟のダリタイ、ほかに数人の部族だ。
鷹狩りは、イヌワシを使い、狐やマーモット、そして野うさぎを捕る。捕獲すると、毛皮や肉を摂る。
エスゲイたちは、降ったばかりの雪の上に、点々と残された狐の足跡を追いかけていた。足跡は一度川沿いを離れ、また川に近づいていく。
「こっちに続いているぞ!」
子どもながら、勢いよく前を進むテムジンを、エスゲイは頼もしく思った。
騎乗の姿はまだ幼く、肩にイヌワシこそ載せていないものの、立派な狩りの一員だ。
テムジンは、狐の足跡を見つけるのがうまかった。狐がたわむれに動いた足跡を無視し、的確に巣へ向かう道筋を見つけ出す。
今日の狩りはうまくいくだろう。
部族の誰もが、テムジンの能力に一目置いていた。まだこの世界に生を受けて八年だというのに、草原を見渡す目、森を探る目には、鋭利なものがあった。
テムジンは、風を感じ、音を聞き、日の光を計り、雲の流れを読む。
おそらくこの子には、天の指図が聞こえるのだろう。
誰もがそう思った。
だが、エスゲイは、知っている。
しゃべり出すのが遅く、いまでも口数の少ないテムジンは、何かを語る前に、長い間、見ているのだ。
風の行く先、雲の変化を、じっと見る。
木々の葉の色づきや、地面の小さな土の盛り上がりまで、目を皿のようにして見る。
テムジンの示した先に、狐の巣があった。
数匹の狐がまわりをうろついている。イヌワシを放ち、仕留める。
よく肥えた狐が手に入った。母狐だ。
自分のあとを継ぐ者は、この子だろう。
エスゲイはそう思っている。バアトル(勇者)という名を持つ己も、部族の中では恐れられた存在だが、この子はもっと偉大な男になるかもしれない。広い大地に君臨する男になるかもしれない。
だが、エスゲイは、思いつかなかった。
想像だにできなかったと言っていい。
広い大地ーー。それはオノン河畔に広がる草原ではない。
我が息子が、遠く、遠く、気の遠くなるほど遠い場所にある大地まで制するようになるとは、この勇者エスゲイにもわからなかった。
乾いた音を立てて、矢がエスゲイの頬をかすめた。
「伏せろ!」
弟のダリタイが叫び、馬がいなないた。
「タタルだ!」
兄のネクンが矢を構える。
タタルもまた、このオノン河畔に割拠する部族である。のちにボルガ川ほとりまでは行動範囲を広げるが、もとはエスゲイと同じくモンゴル部族の中の一派だ。
エスゲイは、長年の長年、タタルの者たちと争いを繰り返してきた。
争いは、大抵、鷹狩りの最中に起こる。
この草原に生きる者にとって、狩りをせずに生きていくことはできない。家畜の数は限られており、部族の者を養うにはとても足りないからだ。
日々の糧は、狩りによって補われる。小動物の肉は、部族の飢えを癒してくれる。
良い狩場は奪い合いになった。そして、捕えた獲物は略奪し合う。
引き連れた犬が喚きはじめた。相手の犬も吠えている。
矢の数、蹄の音を聞く限り、タタルの数はそう多くはないと思えた。
「後ろへ回れ!」
エスゲイはダリタイに怒鳴り、馬を前に進めた。タタルを前後から挟み撃ちにしてやろう。
オノン川の川底は浅い。馬は石を蹴散らし、水しぶきを上げて進む。
全身にカッと汗が湧き出た。
タタルの出現に、エスゲイは怯まない。身体中に血が巡り、熱がほとばしる。
いつものように、エスゲイはこの瞬間、己が獣であると感じる。戦闘態勢になったとき、生きていると感じる。
自分は、バアトル(勇者)なのだ。
「ついて来い!」
後ろにいるテムジンに叫んだ。
男の戦いを、息子に見せてやろう。小さな諍いだが、勝ちは勝ち、負けは負けだ。
どんなときにも負けは許せない。
「ウオォーッ!」
背丈の高い草の間から、タタルの者たちが飛び出してきた。と同時に駆けてきたタタルの犬たちが、エスゲイたちの犬に向かってくる。
まだ距離はある。
タタルは両手で数えられるほどの人数だ。
いちばん前に三人、横に並んで向かってくる。
エスゲイは弓矢を構えた。
竹がしなる。
「右端の男を狙え!」
ふいに、傍らのテムジンが怒鳴った。
虚をつかれて、エスゲイは思わず動きを止めた。
「あの男が強い」
テムジンの顔を見て、エスゲイは驚いた。すぐ先に敵が見えているというのに、息子は怯えていない。
「あの男が、強い」
もう一度言ったテムジンの顔に、ほんの少し怯えが走った。
味方の犬を襲ったタタルの犬の一匹が、こちらに向かってきたのだ。
テムジンは、犬が苦手だ。
部族内のほかの子どものように、夜の暗さや雷鳴のとどろきには怯えないくせに、なぜか、犬だけは嫌がる。
エスゲイは、テムジンの言うとおり、右端の男に狙いをつけた。幼い息子の言いなりになったわけではない。偶然、そうなってしまったのだ。
矢は勢いよく飛び、右端の男の馬に当たった。
馬が前足を高く上げていななき、騎乗の男が地面に転がった。
すぐさまエスゲイは、矢を構え、倒れた男を狙って矢を放った。
「ぐううえぇえ」
と、こちらまで響くうめき声を上げて、男が絶命した。
そのとき、敵の背後に回った弟のダリタイが矢を放った。
矢は命中しなかったが、うろたえたタタルたちがさらに動揺する。
テムジンは正しかった。
右端の男がやられた瞬間から、タタルたちは逃げ腰になっていたのだ。おそらく、右端の男が率いてきたのだろう。
「追え! 逃がすな!」
獣と同じく、モンゴル部族の者たちは、逃げる敵に容赦はしない。背中を見せたとき、そのときがいちばん負かしやすいと知っている。
騎乗したままの乱闘になった。
怒号が飛び交い、血しぶきが上がる。
激しい抵抗にあったが、やはり、右端の男を亡くしたのが動揺を生んでいる。
数人には逃げられたものの、二人のタタルを捕えることに成功した。二人とも矢を受け、瀕死の状態だ。
「名は」
兄のネクンが二人のタタルに訊いた。
「……ウゲ」
「ゴリブハ」
一人は言い終えて息を引き取り、一人はまだ力のある目でエスゲイを睨んだ。たびたびのタタルとの戦闘で、エスゲイは名を知られている。タタルにとっては、憎い相手だ。今日襲ってきたのも、獲物というよりも、エスゲイが目的だったのかもしれない。
息のあったゴリブハのほうも、がくりを首を追って死んだ。
風が吹いて、死んだタタルの二人に砂がかぶる。
「チョー!」
エスゲイは叫ぶと、駆け出した。
いつのまにか日が陰り、風が強くなっている。
これ以上、今日の狩りは難しいかもしれない。
不穏な黒い雲は、大きな天に広がりつつある。
嵐の到来よりも、エスゲイは、テムジンのことが気になっていた。
なぜ、右端の男がいちばん強いと、この幼い子にはわかったのだろう。
だが、エスゲイは訊かなかった。
息子に教えを乞うなど、もってのほかだ。
雷鳴とともに、空が光り、瞬間テムジンを照らした。
たった今、血まみれで戦う大人たちを目にしたというのに、表情に変化はない。
細い目をしっかりと開け、まっすぐ前を向いている。
黒い雲に追い立てられるように、エスゲイたちは幕舎を目指して帰途についた。
参考文献・集史(ラシード・アッディーン)
・成吉思汗(勝藤猛)
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