第2話 不遇
「お嬢様、庭に綺麗なアストランティアが咲いていますよ。陽気も良いので良ければ散歩してみませんか。お手伝いしますから」
マティアスがそう言ってくれた。
イリーナは苦労しながらベッドから身を起こす。四肢が強張って体が動きにくくなっているのだ。身を起こすのも時間がかかる。
見かねたマティアスがイリーナの背を支えてくれようとしたが、イリーナはやんわりと断ってベッドのそばに置いていた杖を手に取った。
「ありがとう。マティアス先生が用意してくれた杖があるから大丈夫です。自分で歩いてみますね」
そう言って慣れない杖をつきながら立ち上がる。
「アトランティアはどんな色ですか? 知りたいです」
数ヶ月前に近所に住む子供に苗をもらってから大事に育ててきたのだ。
イリーナの目はこの二週間で完全に見えなくなってしまった。家族に命じられるまま力を使いすぎてしまったためだ。
マティアスは一瞬声を詰まらせたが、息を吐いてから言う。
「……愛らしいピンク色でとても綺麗ですよ。お嬢様のクランベリー色の目には劣りますが」
「そうですか」
(この目で見たかったな)
困らせてしまうだけだから、それは言わないでおく。お世辞でも目の色を褒めてくれたのは気を遣ってくれたからだろうな、とイリーナは思った。環境のせいで自己肯定感が低いイリーナである。
「お嬢様、今からでも一緒に逃げませんか? 私はお嬢様のためならば、どんな苦労でも……」
そう力強く言ったマティアスに、イリーナは悲しげに首を振った。
「そんなことをしたら、マティアス先生は職を無くしてしまいます。それにご家族だって伯爵領で醜聞が広がり立場が悪くなってしまうでしょう」
イリーナを含めた伯爵家の人々は今は社交シーズンということで領地から離れ、皇都の別邸に滞在している。
マティアスは伯爵領に両親や弟妹もいるのだ。伯爵家の末の娘を連れて逃げ出したことが知られたら、ただでは済まないだろう。たとえ家族から厄介者扱いされていても、イリーナは対外的には伯爵家の令嬢だ。
(マティアス先生を巻き込むわけにはいかないわ)
イリーナも何度も逃げようと思った。
だが心読み以外に取り柄もないか弱い女の身の上。しかも徐々に体が動かなくなる体では一人で逃げるにも限界がある。決行したとしても暴漢に襲われて死ぬ未来が容易に想像がついた。
(それに……どうせ死ぬ運命ならば、誰かの役に立って死にたいわ)
それが自分を冷遇する家族であっても。
その時、扉がノックもされずに開いた。
カール・アイゼンハート伯爵。イリーナの父親だ。
新しく始めた商売が好調なためか襟巻きには大きな宝石がつけており、その羽振りの良さが窺えた。
「イリーナ、今日の体調はどうだ?」
(いつまで寝ているんだ。この役立たず。杖などついて周りの気を引こうとしているのか? 売女の娘だけあるな)
同時に聞こえてきた父親の声に、イリーナは顔を歪めて頭を垂らし、刺繍のほつれた夜着を握りしめる。
イリーナの実母は伯爵家の元メイドで平民ではあるが、売女ではない。だが伯爵家では皆がそうイリーナの亡き母を馬鹿にしていた。
「……申し訳ありません、お父様」
「今日は前から皇宮のパーティに参加すると言ってあっただろう。仕度はどうした?」
「えっ!? も、申し訳ありません。すぐに支度を……っ」
イリーナは慌てたが、そんな話は初耳だった。
確かに大きなパーティが皇宮であるから義母と義姉が楽しみにしているのは知っていたが、イリーナは留守番だと思っていたのだ。
父親は言ったつもりになってイリーナを責めることが多々ある。
伯爵は大きなため息を落とした。
「まったく。体がうまく動かないだの、目が見えないだの……冗談じゃないぞ。まあ『心読み』の力に影響があるわけではないが……扱いが面倒なこと、この上ない」
「そんなおっしゃりようは……」
マティアスがそう非難の声を上げたが、イリーナはそっと彼のシャツの端をつかんで首を振った。医者とはいえ、雇われの彼が伯爵にたてついても良いことなんて何もないのだ。それでもマティアスが反論しようとしてくれただけで、イリーナは救われた。
(お父様は私の命があとわずかなことを御存じないから……)
もし知っていたら、イリーナにこんなに冷たい言い方はしないはずだ。──そうイリーナが信じたいだけだったが。
「マティアス、お前は医者だろう! イリーナをさっさと治せ! この無能め。首にするぞ!」
「……力及ばず、申し訳ありません。尽力いたします」
伯爵の暴言に、マティアスは悔しげに、うな垂れた。
伯爵家の人々は貴族の血統を重んじているため、それ以外の者は医者であっても例外なく見下している。
アイゼンハート伯爵は大きくため息を落とした後、言った。
「イリーナ、さっさと用意しろ! 皇宮に行くんだから、ちゃんとした格好をするんだ。流行りのドレスを着て、私に恥をかかせるなよ」
「し、しかし、お父様。私は新しいドレスは持っていません」
イリーナが持っているのは義姉が着なくなった旬を過ぎたサイズの合わないドレスばかりだ。しかも可愛いデザインは友人(という名の取り巻き)に譲っているらしく、イリーナに下げ渡されるのは微妙なデザインのものばかり。
「お前にはちゃんと小遣いを渡しているだろう! どこで散財しているんだ!?」
そう伯爵は怒鳴るが、イリーナのお小遣いは義姉に全て奪われている。
『半分平民の血が流れるあなたには身分不相応でしょう』と言われて。
それは邸宅の金銭を管理している義母も承知のことだ。
ここで父親に『義姉に取られている』と真実を伝えたところで『お前よりビアンカの方が金が必要に決まっているだろう! お前と違ってビアンカは社交で忙しいんだ! 家族なら姉に気を遣え! 本当に思いやりのない娘だ!』と言われて終わりだ。
今までずっとそうだったから、イリーナは口をつむぐ。
「まったく、金遣いの荒い娘だ。お前がいてはいくら金があっても足りやしない。こうして私が金を稼いで食わせてやってるんだからな! 感謝しろよ!」
「……はい、お父様」
イリーナは殊勝にそう頷く。
実のところ、アイゼンハート伯爵家が商売で大成功しているのはイリーナの『心読み』の力によるところが大きいのだが……。
影の功労者など存在しないかのごとく伯爵は振る舞い、義母も義姉もイリーナを使役していた。
「『ありがとうございます』は、どうした!?」
「……ありがとうございます、お父様」
「はぁ、言わなければお礼すらできないとは礼儀知らずな娘だ。こんなのが伯爵家の娘とはな。……仕方ない。ドレスはビアンカに借りるんだ。着替えは侍女にやらさせて早く玄関ホールに降りてこい」
そう言って伯爵は部屋から出て行った。
「お嬢様、何かお手伝いしましょうか?」
マティアスが気を遣ってそう言ったが、イリーナは首を振る。
「いいえ、着替えは一人でも大丈夫です。慣れてますから」
イリーナはそう言って微笑む。
「しかし、その目では……」
「時間はかかるかもしれませんが、男性の先生のお手を借りる訳にはいきません」
「それならメイドを呼んできます」
そう言うマティアスに、イリーナは寂しく笑って頭を振る。
父親はああ言ったが、イリーナに専属メイドはいない。義母が『あなたは使用人の娘なんだから、自分の世話くらい一人でできるでしょう』と言って与えてくれないからだ。
伯爵家で虐げられているイリーナは使用人達からも軽んじられており、イリーナが着替えを手伝ってほしいと頼んでも協力してくれる者はいない。だから自分のことは自分でするしかなかった。
幸い、目が見えなくなってもどこに何があるか分かるので着替えは問題ない。
だがドレスを義姉に貸してもらうのは大変だ。嫌な顔をされるし、父親の命令だからと伝えたとしても嫌味を言われるだろうことは想像がついた。
イリーナは小さくため息を吐いてから、ベッドから身を起こした。
(皇宮か……即位したばかりの皇帝陛下は、兄弟殺しの冷酷非道な暴君だと噂だけれど)
銀髪と銀仮面を親族の血で真っ赤に染めて、玉座で笑っていたという。
その姿に震え上がった貴族達が口々に皇帝の悪評を流したのもあって、まるで化け物のような扱いをされていると聞く。
(化け物か……)
イリーナは己の掌で目蓋をそっと包み込む。
(……私の方がよほど化け物かもしれない)
他人の心の声が聞こえる異能を持つイリーナは、皇帝にほんの少しだけ親近感を抱いた。
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