渓谷の歌

あんちゅー

深く、深く

気を遣うこと


相手を敬うこと


頑張ること


愛想を振りまくこと


私の在るべき姿を定義すること


多く気に留めることを指折り数え


声もなく泣いた


どうにも言葉に出来ない


焦りのようなものが私を苛んだ


無性に辛く苦しい夜


きっと誰もが経験するそんな夜


眠りについた私は夢を見た


そこは大きな渓谷がある


地面の裂け目はどこまでも深く


その奥の奥底に川が流れているみたい


せせらぎは聞こえず


川霧が這っていた


遥か遠い昔のことのよう


風が轟と音を立てるばかりで


そこに命を感じない


それらが恐ろしくて堪らなかった


落ちてしまえば死んでしまう


多分そんなふうに思えた気がした


私はそこから離れようと振り返り


けれどここには何も無かった


いいや


何も無い訳ではなく


そこには街が広がっていて


多くの人が行き交った


極半透明の街と人


不思議と彼等は楽しそうに笑っていて


その肌の色が自然に思えた


ふわりと歩く彼らを見ると


まるでこの渓谷が見えていないみたいだ


時折人が崖の端を歩き


バランスを崩してよろめいた


ハラハラと見つめる私をよそに


落ちることなくあっけらかんとする


心の波が揺れている


ほっと胸を撫でて息を着く


良かった落ちて死ななくて


口をついて出た言葉


なんだか虚しく消えていく


途端にそれが嘘くさく


あっさり余韻も消えてなくなった


誰も彼もがこちらを見ずに


渓谷の風すら気にも留めない


私はここでも馴染めない


誰にも気が付かれない憐れを背負い


渓谷は広くて深く裂けていく



何処までも同じ世界が広がっている


いくらも歩いて気がついて


私はどれもが嫌いだと


次第に俯き足を止めた


誰にも見られないこの世界で


私のやるべき事は見つからない


別の焦りが心を煽り


虚しくなびいて落ちていく


このまま足を1つ出し


谷へ落ちれば楽になるのか


少し前まで抱いていたはずの


恐怖はいつかの過去の話だ


私はいつも不幸だと思った


私が私であることが


何より不幸だと思っていた


私はどこでも私でないと


他人に押し当てられた私を被って


生きる苦痛は誰にも理解など


されないものと高を括った


だから人から見られなくなれば


きっと私らしい私でいられると


そう思って作った世界でも


私は違った苦しみを


背負い始めて呟いた


轟と吹いた風に煽られて


私は谷へ落ちていく



いつか不幸だと思った陰で


いつか幸せだったことを思い出して


捨てても棄てても蘇る


憎い幸せが込み上げる


分かっていたのに目を背け


甘い不幸にしがみついた


とうに気が付いていたはずなのに


目を背けたのは誰のため


それは多分私の為で


幸も不幸も全てが私の私自身を装う為の嘘


私は結局私のことを


自分自身で定義して


望まれていない自分をひたすらに


望み続けて自分となった


例えば誰かが私の事を


貶せばたったそれだけで


私は誰より弱くなれるもの


本当は丸くて何も無い


殺風景な心象風景


渓谷に見えるこの裂け目を


心の傷と偽ってみても


実の所は綺麗なもので


だから薄く揺らいでいる


深く深く裂けた谷


いつの間にか目立たない


それはただの夢の跡


倒れて初めて目にした空は


何も無いただの天井のよう


私は1人笑うように泣いている


未来は私に勿体ない

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渓谷の歌 あんちゅー @hisack

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