第48話 取り乱すエルシー
「……ひどい……。あんまりですわ、トラヴィス殿下……」
殿下の背中で顔は見えないけれど、エルシー嬢の声はか細く震えていた。泣いているのかもしれない。……もしくは演技で。
「行こうか、メレディア嬢」
「……はい」
トラヴィス殿下はそんな彼女から私を守るようにエスコートしながらその場を去った。
チラリと振り返ると、エルシー嬢はこちらをギロリと睨みつけ……ることもなく、両手で顔を覆って立ち尽くしていた。
(…………。)
「絆されるなよ。どうせ演技だ」
「わ、分かってますわ」
私の心の内を見抜くように殿下に釘を差されたけれど、もちろんそんなことちゃんと分かってる。あの人がどれほど狡猾であざといのか。根性がひん曲がっているのか。それはもう、よく知ってる。
だから絆されたりするものか。
だけど、それからほんの一週間ほど経った頃。
私はとんでもない場面に遭遇してしまったのだ。
その日は生徒会の集まりがあり、目前に迫ったダンスパーティーについての打ち合わせを、いつもより遅い時間までしていた。アンドリュー様は王太子宮での仕事があるからと途中で帰られ、残ったメンバーはそれから数十分後に解散となった。
生徒会室を出て、鞄を取りに教室に戻る。そのまま帰れるように持っていっておけばよかったものを……。今日みたいに遅くなる日に限って置いてきてしまったわ。
そんなことを思いながら渡り廊下を歩き、階段を上って自分の教室まで戻る。もちろん、もうこの時間は誰も残ってはいない。私も早く帰ろう。そう思って教室の扉を開けると。
(…………え……?)
目の前の光景に、一瞬頭が真っ白になる。次の瞬間、心臓が大きく脈打ち私は慌てて駆け出していた。
「エッ……エルシーさん……っ!!止めて!待って!!」
教室の奥に設置された窓の上に乗ってそこから外に大きく身を乗り出し、今にもその手を離そうとしていたのはエルシー・ウィンズレット侯爵令嬢だった。ここは四階。私は慌ててその腰に飛びつき、力を振り絞って思いきり引っ張った。その勢いで二人して思いきり背中から倒れ、体をしたたかに床に打ちつけた。ビックリしすぎて心臓がバクバクいっている。
「いっ…………痛……。エ、エルシーさん!ウィンズレット侯爵令嬢、大丈夫?!」
「…………。」
私はどうにか体を起こすと、まだ隣で床に倒れ込んでいるエルシー嬢に声をかけ体を揺さぶる。でも彼女はその姿勢のまま動かない。
まさか、頭でも強打した……?
「ウ、ウィンズレット侯爵令嬢……!」
「ひくっ…………、う……、うぅぅぅ……っ」
顔にかかった長い赤毛をそっとよけると、その下で彼女は滂沱の涙を流していた。
「……ちょっと……、しっかりして、ウィンズレット侯爵令嬢……。一体どうなさったのよ……」
何これ。どういう状況なの?これも演技……?
それにしてはこの人、本当に飛び降りそうな勢いだったけれど……。
(……落ち着いて。冷静にならなければ。もしかしたら、これもこの人の策略という可能性もあるわ。……とにかく話をさせなくては……)
放っておいたらいつまでもそのまま泣き続けていそうなエルシー嬢の体を無理矢理起こして座らせながら、私は頭の中で自分にそう言い聞かせていた。
「……一体何のつもりなの?どうしてこんな……、遅い時間に私の教室で、こんなことを……?」
そうよ。おかしいじゃないの。ここは彼女の教室でさえないのよ。わざわざこの時間まで残って、私が戻ってくるのを待っていた可能性だってあるわ。そしてわざと私に今の光景を見せつけた……。
(……あら?)
エルシー嬢に声をかけながら頭の中でそう考えていた私は、真正面からびしょびしょに濡れた彼女の顔を見て少し気にかかった。この人、こんなに痩せてたっけ……?
改めて見ると彼女の顔は、今までより随分やつれているように見えた。頬が少しこけ、目の下にクマもある。王太子宮に移り正式にアンドリュー様の婚約者となってから、朝から晩までずっと勉強漬けの日々になったはずなのに、それでもエルシー嬢はこれまで疲れた様子など一切なかった。いつも肌艶がよく、よく食べよく眠っている人特有の健康的な顔色でいたはずだったのに。
今私の目の前で肩を落とし、床を見ながらボロボロと涙を零し続けるこの人は、すっかり疲れ切っているように見えた。
「……メ……メレディア、さま……。私のことなど……、放っておいてくださってよかったのですわ……」
エルシー嬢がようやく口を開いたかと思うと、ガサガサに掠れた声でそんなことを言った。
「もう……生きていたって仕方がないのですもの……。まさか、こんなことに……なってしまうなんて……。ひっく……」
「……。一体何があったの?」
警戒心を解いたわけではないけれど、今目の前で細い肩をふるふると震わせながら涙を零すエルシー嬢の姿は、そのまま放り出して帰るにはあまりにも心配だった。何か企みがあるのなら見抜かなくては。そう思いながらも、私は彼女の肩に手を置き、事情を聞き出そうと静かに声をかけた。
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