第30話 幼い日の約束
「だいぶ慣れてきたんじゃないか?馬上の感覚に」
「ええ!すごく楽しいですわ」
それからしばらく馬が進んだ頃殿下に問いかけられ、私はすぐさまそう答えた。殿下はそうか、と答えると、背後から回した両腕で私の体をより強く支えてくれる。
「なら少し走ってみるか。しっかり掴まってろ」
「え……っ?……きゃっ……!」
そう言うやいなや、殿下の手綱の合図とともに馬が速度を上げて走り出した。さすがに少し怖い。
「で、殿下……っ!ゆっくりでいいです!ゆっくりで……っ」
「はは。そんなに心配しなくていい。絶対に君を落としたりしないから。……気持ちいいだろう?」
「は、はいっ……。でもっ……」
怖いような、それでいてたまらなく楽しいような。
高鳴る自分の鼓動を聞きながら夢中で掴まっていると、殿下が言った。
「海辺を走り回るんだって、そう俺たちは話したんだよ、あの時。それもちゃんと覚えてるか?」
「お、覚えてますけど……っ」
「だけどさすがに子どもみたいにはしゃぎまわって二人で浜辺を走るのもどうかと思うだろ?だから今、代わりに馬で走ってる」
「……ふふっ。殿下は律儀でいらっしゃいますね」
「だろ?他ならぬ君との大切な思い出だからな。なかったことにはしたくないんだ。どんな些細なことでもな」
「……っ、」
殿下……。
それって、どういう意味ですか……。
この方の優しさなのだろうか。それとも────
ひとしきり馬で走り、しばらくすると方向転換して、来た道をゆっくりと戻る。
最初に馬に乗った辺りに到着すると、使用人たちの手によって砂浜に日除け傘が立てられ、大きなシートが敷かれていた。その上には様々な籠やプレート。……どうやら昼食の準備がなされているらしい。
「楽しかったな。……おいで」
「あ、ありがとうございます……」
先にヒラリと馬から降りた殿下が、また手ずから私が降りるのを手伝ってくださった。
「お疲れではありませんこと?殿下」
「いや、全然」
……すごい体力だな。これがもしもアンドリュー様だったら、もう横になりたいと言って半べそかいてると思う。ただ前に座っていただけの私でも結構疲れた。だけど楽しすぎて、気持ちはずっと昂ったままだ。
「さぁ、昼食にしよう。腹が減っただろう。早朝から連れ回したからな」
殿下はそう言うと、シートの上のふかふかのクッションに私を座らせてくださる。すぐさま使用人たちが飲み物や取り分けた食事を持ってきてくれた。そのプレートを見て、思わず破顔する。
「……サンドイッチですね」
様々なフルーツや何種類かのピンチョスとともに乗せられていたサンドイッチを見て思わずそう言ったのは、あの日の殿下との会話をまた思い出したからだった。
「持ってきて一緒に食べようと言っただろう?……ほら」
そう言うと殿下は私のプレートから小さなサンドイッチを一つ取り、私の口元に持ってくる。とても満足げな笑みを浮かべて。
恥ずかしかったけれど、抵抗することなく私は口を開けた。瑞々しいレタスや、柔らかいローストビーフの風味が口いっぱいに広がり、空腹だった私は感動を覚える。
「……とても美味しいですわ」
「だろう?シェフたちが腕によりをかけて作ってくれた」
そう言いながら自分もサンドイッチをぱくりと頬張る殿下とともに、しばらく食事を楽しむ。休暇をとって学園を休んで以降いろいろな経験をしたけれど、今日ほど心の底から楽しくてたまらない日はなかったかもしれない。
「……この昼食も、あの日の約束を果たすために準備してくださったんですの?」
「ああ、もちろんだ。……しかし君もそんなにはっきりと覚えていてくれたとは。ほとんど自己満足のつもりでいたから、嬉しいよ」
「……覚えているに決まってますわ」
私にとってこそ、あの幼い日の忘れられない出来事は特別な思い出なのだから。
……でも……、
「殿下、王宮のシェフたちが張り切って作ってくれたこれらの食事、どれも本当に美味しいですけれど……、あの日私がお弁当を持っていきたいと言ったのは、私が自分で作って持ってくるという意味だったんですのよ。……わざわざシェフたちの手を煩わせずとも、先に言ってくだされば私が作ってお持ちしましたのに」
こんなに楽しい一日の何もかもを、私に内緒で全部準備してくださっていたことが、嬉しいような、申し訳ないような。
そんな気持ちで口にすると、殿下は私のことをじっと見つめる。そして優しい微笑みを浮かべたまま、
「……じゃあそれは、次回のお楽しみだな」
そう言うと、吹き抜けた風のせいで私の口元にはらりとかかった長い髪をそっと指先で掬い、私の耳にかけてくださった。
まるでこの上なく大切なものを扱うように、とても優しい手つきで。
それがとても心地良くて、私は目の前の殿下から目を離せずにいた。
(……このまま時間が止まればいいのにな……)
そんな風に思ってしまったのは、殿下と過ごすこの非日常的な休日が、あまりにも楽しかったからだろうか。
私とトラヴィス殿下との間に、また忘れられない思い出ができたのだった。
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