第17話 エルシーの教育(※sideアンドリュー)

 メレディアとの婚約解消が正式に成立した。

 それとほぼ同時に、無事エルシーと婚約を結ぶことができた。やはりグリーヴ男爵の提案通り、両陛下不在の間にエルシーの居を王太子宮に移しておいたのが功を奏した。元々メレディアが学園を卒業次第、結婚することになっていたのだ。彼女ならそれでよかった。幼少の頃からの教育の賜物ですでに王太子妃として備えるべき知識やマナーは完璧だったからだ。

 だがエルシーは違う。いくらあの子が「アンドリュー様と一緒になれるのなら、私死にもの狂いで頑張りますわ!」と言ってくれているとはいえ、卒業までのわずか2年ほどの間に学業と両立させながら全ての王太子妃教育を終えることなど不可能だ。

 だからこそ今から王太子宮に住み込んで、学園にいる間以外の全ての時間を妃教育に注ぎ込む。それだけエルシーの意志は固いのだと、それほど王家に嫁ぐということを真剣に考えてくれているのだと、父や母にアピールできた。


 ところが。


「何を馬鹿らしいことを言っておられるのか。あの男爵令嬢の固い意志を信用したから婚約が許されたとか、そういうことじゃないんですよ、兄上。結婚前にも関わらず兄上の住まう宮に女を寝起きさせるということが、どれほど非常識で品位に欠ける行動かお分かりにならないのですか。それが周囲に知れ渡ってしまい今さらあなたが他の令嬢と婚姻を結ぶことなどできないから、認めざるを得なかっただけだ。グリーヴ男爵とやらも狡猾だな」


 第二王子である弟のトラヴィスはそう言って露骨に嘲笑した。何だ、この言い草は。兄である僕に向かって……。

 何故だか突然僕の部屋にやって来たトラヴィスは、勝手にソファーに座って偉そうにふんぞり返ると僕のことを非難しはじめた。


「……“あの男爵令嬢”だの、“女”だの、無礼な口のきき方は止めろ、トラヴィス。それに、エルシーはもう男爵令嬢じゃない。僕と婚約を結ぶにあたって王家の縁戚であるウィンズレット侯爵家の養女に迎えられたんだぞ」

「ええ。戸籍上はね。先方も大概迷惑だと思っていることでしょうね。内心は関わりたくもないはずだ」

「……っ、いちいち不愉快なことを言うな!!お前に何が分かる!!」


 こちらを愚弄し挑発するようなことばかり言う弟に腹が立ち、思わず大きな声を上げた。するとトラヴィスはその黄金色こがねいろに妖しく光る目をすうっと細め、無表情で俺を見つめる。


「……っ、」


 その冷たい視線がやけに恐ろしくて、思わず身震いしてしまう。弟のくせに僕よりだいぶ背が高いトラヴィスには、父に似た異様な迫力があるのだ。普段はこういう顔を隠してヘラヘラ笑っているものだから周りに人が集まるが。僕の前ではよくこんな顔をする。……止めてほしい。


「俺はこれまで散々言いましたよね、兄上。あの女だけは止めておけと。……まぁ、今さらどうこう言ってももうどうにもなりませんがね。せいぜいお二人で努力なさることです」

「……う……、うるさい……っ。言われなくても、分かっている」


 さっきの顔が怖くてつい目線が泳ぐ。いつまでここにいるつもりなんだ。早く出て行ってくれないだろうか。

 すると僕のその思いが通じたのか、突然トラヴィスがガバッと立ち上がった。驚いて肩が跳ねる。


「ですが俺はあなたに感謝してもいるんですよ、兄上。メレディア嬢を解放してくださったのですからね。どうもありがとうございます」

「…………は?」


 何のことだ?何故こいつに礼を言われなければならないのか。訳が分からない。

 トラヴィスはそれだけ言い残すと僕に背を向けそのまま部屋を出て行った。







 エルシーの王太子妃教育はすぐさま開始された。

 グリーヴ男爵は言っていた。娘は高位貴族の方々のような高度な教育を受ける機会はたしかになかったが、地頭はものすごく良い子だと。エルシー自身も僕と人生を共にすべく全力を注ぐと言ってくれていた。僕は期待した。すぐに成果は出はじめるだろうと。


 教育はまず日常の基本的な動作から開始された。王太子妃として求められる美しい所作、姿勢、マナー。エルシーはどれをとっても求められる最高の水準にはまるっきり達していなかった。恋人同士のようにそばにいる時は、そのあどけなさがまた可愛らしくて仕方がなかったのだが……。


「エルシー様、また背中が曲がっております。常にご自分の立ち姿に意識を集中なさってください。……いえ、ですからそうではありません。そんなに胸を張って反り腰になってはかえって不格好なのです」


「エルシー様、そんなに前屈みになってペンを走らせるのはお止めください。みっともないと何度も申し上げたはずです。座った時の姿勢は、こう!こうです。……そのまま背筋は決して曲げずに……。……ほら、また猫背に!」


「……エルシー様、今また音を立てられましたね。この上なくお行儀が悪うございますよ。スープは静かに口に運んでください。……ですから、そのような気味の悪い音を立てるのはお止めくださいと申し上げているんです!」


 エルシーは初日の夜から泣き出した。


「アンドリュー様……。あの教育係のおばさんは何ですの……?きっと私のことが嫌いなんだと思いますわ。あまりにも厳しすぎますもの。ご覧になりましたでしょう?私が何かするたびに目くじらを立てて怒ってきて……。うぅぅ……っ。他の方に変えてくださいませ。私もう頭がおかしくなりそうですわ…………ひっく」


 そう言って僕の膝の上に顔を伏せて肩を震わせるエルシー。……可哀相だが、ここを乗り越えられないようでは到底この先は耐えられない。

 メレディアが幼少の頃から受けてきた教育はこんなものではない。まだまだ序の口だ。

 僕はエルシーの柔らかい赤毛を撫でながら静かに諭す。

 

「彼女は“おばさん”じゃないよ。高位貴族の令嬢たち、とりわけ王家の女性や王家に嫁ぐ女性たちの教育を専門にしているこの国きってのマナー講師だ。彼女から習うのが一番いい。どうか頑張っておくれ、エルシー。これも僕たちの未来のためだ」

「うぅぅぅぅ~……ひくっ……ひっく……」

「……。そのうちだんだんと慣れてくるから。辛いのはきっと最初だけだ。……ね?」


 そう。きっと今だけ。メレディアは一度も涙を零したりしていなかった。少なくとも、僕の前では。そして16という今の歳ですでに完全無欠の公爵令嬢と呼ばれるまでになっているんだ。メレディアにできてエルシーにできないわけがない。


 エルシーが泣き疲れて自分の部屋に戻っていくまで、僕は辛抱強く彼女を慰め続けた。





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