第9話 なぜここに?!

 その日から数日間、私は心ゆくまで部屋に引きこもった。

 誰にも起こされず、自然に目が覚めるまでたっぷりと眠り、時にはお昼近くになってようやく起き上がるとブランチを食べる。


「……ね、今日のスープとても美味しいわね。お代わりくださる?」

「……へっ?は、はいお嬢様っ。ただ今すぐに……っ」


 私の言葉にシェフは驚愕の表情を見せ、我に返ると慌てて厨房に引っ込んでいく。お代わりなんて、今までただの一度もしたことがなかった。朝や昼はいつも腹八分目。夜はさらに少なく腹六分目程度。細い体と極細のウエストを保つためにそれ以上食べることは許されていなかった。


(だけど別にもういいわよね。お腹いっぱいになるまで食べてみたかったんだもの!ふふ)


 美味しいスープと焼きたてのパンを心ゆくまで満喫すると部屋に戻り、侍女に買ってきてもらった小説をじっくりと読む。これまで一度も読んだことのない、巷で人気の恋愛小説や推理小説に、ホラー小説。これがもう楽しく仕方ない。教科書や歴史書、マナーブックなどからは決して得られなかった物語の世界に没入していく快感と高揚感に、私は夢中になっていた。


 たっぷり食べて読んで、疲れたら少しお昼寝もして。目が覚めたらまた読んで……。そんな風に気の向くままにのんびりと過ごしていたら、一日があっという間に過ぎていく。

 これまで私が過ごしてきた一日とはまるで違っていた。ああ、今日も何もしなかったなぁというほんの少しの焦りや罪悪感と、それをはるかに上回る充足感。ただひたすらに幸せだった。




 そんな日々を二週間ほど過ごしたある日のこと。


「……さすがにちょっと飽きてきたわね……」


 昼食を食べ終わり部屋でいつものように読書をしている時ふいにそう思った私は、そろそろ何か違うことをしてみたいと考えた。


(学園に行ってもいいんだけど……。でも別にまだ休んでても困らないしなぁ。……あ、そうだ)


 そういえば。してみたいことがあったんだった。

 学園に通うご令嬢方の中には、放課後数人で集まって王都のお洒落なカフェに行き美味しいケーキを食べながらお喋りを楽しんでいる人たちがいた。時々そういう会話が聞こえてきて、羨ましく思ったものだった。そんな気持ち、おくびにも出さなかったけれど。……あのグリーヴ男爵令嬢も、以前ご友人たちとそんな話をしていたっけ。


(……行ってみようかな、私も。王都の大通りにある、お洒落なカフェとか)


 そう考えるとどうしようもなく胸がドキドキしてきた。楽しみな気持ちももちろんあるけど、それ以上に……、私には気軽に誘って一緒に出かけられるような友人がいない。いつも周囲の学生たちからは一線を引かれているような、妙な遠慮を感じていた。こちらもそれが分かるから気さくに話しかけることもできずにいたし、自分のイメージを保たなくてはという気負いもあった。

 つまり、行くなら一人で行くしかないのだ。侍女たちに頼めば一緒に来てくれるのだろうけれど。

 ……でも。


(せっかくだから、一人の時間をたっぷり楽しんでみようかしら)


 よし!そうしよう!

 私は決断するとおもむろに準備を始めた。




 お供しますからと何度も言ってくれる侍女たちを断り、私は少し地味な装いでタウンハウスの外に出た。遠巻きに護衛の者たちが数名ついてくるけれど、こんな外出初めてだ。嬉しいような、怖いような……。

 ひとまず馬車に乗ろうと門の方へ歩き出した時、


「お、やっと出てきたか」


 …………。ん?


 聞いたことのある声が聞こえて、顔を上げる。


 すると。


「っ?!トッ……、トラヴィス殿下っ?!」


 なぜっ?!

 なぜ、我が家の敷地の前に殿下がいるの?!

 少しも予想していなかった人の姿に驚いて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。周りにいたフットマンや使用人たちも皆慌てて頭を下げる。トラヴィス殿下は学園の制服姿のままで、仁王立ちして私のことを見つめていた。


「学園きっての優等生が、随分長いことサボるじゃないか。具合でも悪くしているのかと思ったが……、……ふ、」


 私の目の前まで歩いてきた殿下は、まじまじと私を見つめて微笑んだ。幼い頃から見慣れていても、端正なその笑顔には胸がドキリとする。


「むしろ今までよりはるかに元気そうだな。どうしてそんなに肌艶がいいんだ」

「……ゆ、ゆっくり休んでおりますので……はい」


 びっくりしすぎてまだ心臓がバクバクいっている。トラヴィス殿下は優しい表情で私を見ながら静かに言った。


「……そうか。それならよかった。突然登校して来なくなったから、心身を病んで寝込んでいるのかと心配した」


(……あ)


 そうか、心配してくださってわざわざ……。でもそれでうちまで来るってすごいな……。


「ありがとうございます、殿下。私は大丈夫ですわ。ご心配おかけしました」

「いや。どこかへ出かけるところだったのか?供もつけずに」

「あ、ええ。ちょっと……」

「どこへ?」


 ……なんか食い下がってくるな。

 どうしようかと迷ったけれど、気分が高揚していたこともあり、私はトラヴィス殿下に正直に伝えた。


「実は、大通りのカフェにでも行ってみようかと思いまして」

「……ほぉ。……一人で?」

「ええ。一人で。……憧れていたんです、以前から。他の女子生徒たちが学園の帰りにカフェで美味しいものを食べながらお喋りを楽しんだり、そういうことをしているのに。こんなことになって、もう甘いものを我慢しながら朝から晩まで勉強漬けでいる必要もありませんでしょう?せっかくですから、今まで我慢してきたこと全部しちゃおうかなって」

「ふ……、いいな。それは楽しそうだ」

「でしょう?ですので、どうぞご心配なく、殿下。私はむしろ以前より充足感でいっぱいなんですの。病みやつれたりしてませんので」


 わざわざありがとうございます。どうぞお気を付けてお帰りくださいませ。

 そう話を切り上げるつもりで言ったのだけれど。


「そうだな。思っていたよりはるかに元気で安心した。だが、一人で街へは感心しないな。何が起こるか分からない」

「あ、いえ。一人といってもちゃんと護衛たちがおりますので」

「……そうじゃなくて。君みたいなのが一人でいたら……」

「え?」


 トラヴィス殿下は急に何やらボソボソと呟くと、ニヤリと口角を上げて言った。


「俺も一緒に行こう」


 …………はい?




 


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