第2話 王太子の浮気
(アンドリュー様……どこかしら。大丈夫かな……)
まさか晩餐会の最中に王太子宮まで帰ってしまってはいないだろう。そう思った私は、大広間の周囲の部屋や渡り廊下など、様々なところを見てまわる。……やっぱりいない。
(もしかして、外の風に当たりに行ったのかしら。アンドリュー様は庭園がお好きだから…)
早く広間に戻らなくてはと気にはなったけれど、妙な胸騒ぎを感じた私は急かされるように王宮の庭園へと向かった。
月が綺麗な夜。背の高いデルフィニウムの花々の陰に隠れるようにしてそこにいたアンドリュー様の栗色の髪を、ようやく見つけることができた。
(ああ、よかった。やっぱりここにいらっしゃったのね)
「ア…、」
アンドリュー様、大丈夫ですか?……そう声をかけながら近付こうとした私は、彼の前にもう一人の人影があることに気付き、ピタリと動きを止める。……誰だろう?背が低い……、女性……?
デルフィニウムの陰からそっと見守っていると、その人が淡い赤毛の女性であることが分かった。そして、
(…………え……?)
花々が夜風に靡き、二人の姿が月明かりの下に照らし出された時、私はようやく気付いた。
アンドリュー様とその女性が、ひしと抱き合っているということに。
「……愛しているよ、エルシー。たとえ正式な夫婦になれなくとも、僕の心は君だけのものだ…」
「ああ、アンドリュー様…。私も、あなた様を誰よりも強くお慕い申し上げておりますわ…。こんなにも、深く…」
「エルシー……!」
(…………何よ、これ。どういう、こと……?)
呆然と見守るしかなかった。幼い頃から全てを捧げてきた相手…、この国の王太子殿下が、私の婚約者が、……今、目の前で別の女性を抱きしめながら、切なげに愛を語っている。
まるで悲劇の主人公たちのように。
これが現実とは思えなかった。認めたくなくて、まるで別の世界の出来事のように思える。指先がすうっと冷たくなってくるけれど、その場から一歩も動けず、二人から目を逸らすことさえできずにいた。
どのくらいの時間が経っただろうか。二人が抱き合った体をゆっくりと離し、互いの手を握ったまま、見つめ合う。
その時、視界の端に気配を感じたのだろうか。アンドリュー様がちらりとこちらに視線を向けた。
「……っ!!メッ……、メレディア……ッ」
しまった。そう顔にはっきりと書いてある。それほどアンドリュー様の顔面は強張り、今までに見たことがないほど無様だった。
ただならぬ気配を察して振り返ったその女性は、私と目が合うと慌てて顔を背ける。だけど、はっきりと見てしまった。……学園で何度も見たことのある女性だった。名前は……誰だったかしら……。
「メレディア……ッ、こ、これは、そ、その……っ」
「…皆様がお待ちですわ、アンドリュー様。具合が悪いのでなければ、急ぎ大広間にお戻りくださいませ」
機械的な声でそう告げると、私はアンドリュー様の返事も聞かずに踵を返しそのまま大広間を目指した。
(…動揺してはダメ。常にポーカーフェイスで。堂々と。悠然と…)
広間に戻るやいなや、会場中の様々な視線が集まってくるのを感じる。羨望の眼差し。値踏みするような、検分するような眼差し。私は口角を上げたままゆっくりと前を見据え、王家の方々の元へと向かう。
「……どうだった?いたか?兄上は」
戻ってきた私に、トラヴィス殿下が真っ先に声をかけてくる。私は努めて冷静に返事をした。
「……ええ。おられましたわ、庭園の方に。もう戻られると思います」
「一人で?」
「…さぁ。おそらく」
「……そうか」
はぁ、と軽くため息をつくトラヴィス殿下。…もしかしたら、殿下はご存知だったのかもしれない。
しばらくするとアンドリュー様が一人で現れ、私のそばまでやって来た。だけどその目は不自然に泳ぎ、態度も妙に落ち着きがない。
(…情けないったらありゃしない。私にバレてここまで動揺するのなら、わざわざこんな夜に浮気相手を王宮に招き入れるんじゃないわよ)
再び始まる来賓たちの挨拶の波。次々に微笑みを返しながら、私の胸はどうしようもなく乱れ、痛んでいた。張り裂けそうなほどに軋んでいた。
(……あーあ。何だったんだろう。これまでの苦労の日々は…馬鹿らしい)
この人を支えるために、将来非の打ち所のない王太子妃になるためだけに、必死に頑張ってきたのに。
全てを捧げてきた相手は、別の女性を抱きしめながら愛を語っていた。
心がポキリと折れる音がした。
『……愛しているよ、エルシー。たとえ正式な夫婦になれなくとも、僕の心は君だけのものだ…』
(……思い出した。エルシー・グリーヴ男爵令嬢)
そうだ。学園にいる、同じ学年の生徒じゃないの。男子生徒たちにモテモテの、あのか弱げな美少女。
王太子殿下は完全無欠の公爵令嬢より、男爵家の可愛いお嬢さんに心を奪われていたってわけね。やれやれだわ。
皆が私を見ている。こんなところで泣き崩れるわけにはいかない。
心の中で強がりながら、私は唇の震えを抑えようと必死だった。
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