かすかな異変とミルクとクッキー
シェリアにとってアンディは、一日に二回から三回ほど会話するだけの、互いに関心がない存在だった。
血が繋がっているだけの他人といってもいいくらいだ。
それは決して仲が悪いとか、嫌いだというわけではなく、ただ、互いの世界が重ならないだけ。
きっと、アンディにとっても、当たらずといえども遠からずだろう、とシェリアは認識していた。
◆
「……アンディ、身体を温めないと風邪をひいてしまうわ」
シェリアが宥めるように言い聞かせると、アンディはぶんぶんと首を横に振った。
「風邪なんてもの、ひかないよ? ……それより、何処へ行くの?」
アンディを二階の浴室に案内したシェリアは、ミルクを用意すべく厨房に向かおうと、踵を返したところで、何故かアンディに引き止められてしまったのである。
「ミルクを用意しに厨房へ行くだけだから、すぐに戻ってくるわ。……それと、とりあえず湯船に浸かった方が良いと思うの。大丈夫だと思っていても、翌日体調を崩してしまうかもしれないもの」
シェリアは自分の行動予定を明かしつつ、入浴の利点を説明したのだが、残念ながら、アンディは聞き分けてはくれないらしい。
先ほどから掴んだままのシェリアの服の腕の裾を、一向に放す気配がない。
アンディはシェリアを迷い子のように見つめた。
アンディの瞳は、いつもは色鮮やかな草原を彷彿とさせるのに、今は、何故か深い夜に紛れ込んだ気分にさせる。
それは、シェリアと同じ、エメラルドグリーンの色の瞳だったはずなのに。
「……アンディ。お昼頃にクッキーを焼いたの。お風呂が終わったら、一緒にどうかしら」
「……クッキー?」
解放する気が全くなさそうなアンディに、シェリアが、苦し紛れに昼に焼いたクッキーの話をすると、アンディは僅かに反応してみせた。
アンディが甘いものを好きだったかは記憶にないが、きっと好きだったのだろうと仮定したシェリアは、アンディをクッキーで釣ることにした。
「……王都で食べた異国のクッキーが美味しかったから作ってみたのだけど、アンディが湯浴みに行かないのなら、アンディの分も私が食べることにするわ」
シェリアの言葉に、アンディは、暫しの逡巡のあと、
「…………浴室行ってきます」
嫌々と、浴室へと向かっていった。
その背中は、心なしかしょんぼりして見えて、無理矢理すぎたかもしれない、とシェリアは反省した。
アンディは、暗い夜道で迷って帰ってきたのだ。
きっと、心細かったのだろう。
大人びた一面があったとしても、まだ十歳の少年なのだ。
あとでアンディに謝ろう。
アンディの背中を見送ったシェリアは、心の中でそう決意すると、くるりと向きを変えて階段を一歩ずつ下り、厨房へと向かう。
用意するミルクは、カップ三つで良いだろうか。
両親がまだ起きているなら、その分も……と、シェリアが歩きながら思案していたところで、サロンから明かりが見えるのと同時に会話が漏れ聞こえた。
「……………、他に方法は……」
シェリアは気配を消し、厨房へと向かう。
用意するカップは三つで良さそうだ。
聞こえてきた会話の内容は、シェリアには上手く飲み込めなかった。
◆
「……おかえりなさい」
シェリアが浴室のある二階へ戻ると、上り階段の三段目に座って待っていたアンディが出迎えてくれた。
少し不機嫌そうに頬を膨らませたアンディは、「……クッキー」と、ぽそり呟いた。
その姿に、シェリアが思わず笑みをこぼせば、アンディの頬はますます膨れてしまった。
「アンディ。ごめんなさい」
シェリアの突然の謝罪に、アンディはきょとんと首を傾げた。
「道に迷って心細かったでしょうに、そこに思い至らなかったわ」
「……別に、気にしてないから、いいよ。だって……」
シェリアにまっすぐに見つめられたアンディは、視線をそらす。
アンディの声は最後の方は小さくなって、シェリアには聞き取ることは出来なかった。
「クッキー、三階の私の部屋にあるの。一緒に行く? それとも此処で……」
「一緒に行く」
シェリアが訊ねると、アンディは、間髪入れずに返事をして立ち上がり、階段を下りてシェリアの隣にやってきて、視線で早く行こうとねだる。
そんなアンディに、シェリアがくすりと笑って、上り階段に足をかけて一段ずつ上がっていけば、後ろからアンディはトコトコとついてくる。
三階の角部屋を目指す道すがら、アンディは口を開いた。
「……こういうって、普段自分で運んでるの? ねえさん」
背後からの問いかけに、シェリアは前方を向いたまま、こくりと頷いた。
「ええ。夜半のミルクは特別だから、自分で用意するようにしているわ。……それ以外の時は、だいたい、いつの間にか用意されている気がする」
「……いつの間にか?」
「アンディも、昼間話していたでしょう? この地では不思議なことが起こると。これもそのひとつだと思うの」
「……そうなんだ」
まるで、初めて耳にするかのような反応を示すアンディに、シェリアが不思議に思っていると、目的地に到着した。
「アンディ。ソファで良いかしら」
シェリアが振り返って訊ねると、どこかそわそわしながら周囲を眺めていたアンディは、こくりと頷いた。
そういえば、アンディが部屋に来るのは初めてだ。殆ど会話などなかったのだから、当然だけれど。
いつの間にか雨はやんでいたらしく、窓際のテーブルは、月明かりに照らされていていた。
シェリアは、テーブルにトレイを置き、ミルクの入ったカップをテーブルにふたつ、窓辺のひとつと配置した。
それから、ベッド横の棚の上にある包みを手にして、今も珍しそうに部屋を視線を動かしているアンディに近付いた。
「アンディ。これ、あなたの分」
シェリアに話しかけられたアンディは、ぱっと振り返ると、両手のひらで大切そうに受け取った。
アンディは、手の中の包みをきらきらとした瞳を輝かせて見つめていたのだが、暫くすると、一転して寂しげな瞳になり、名残惜しそうに呟いた。
「…………食べるの勿体ないなあ」
異国の焼き菓子だから珍しいのだろうか。
アンディは、切なげに、包みを見つめたままだ。
「クッキーくらい、また、いつでもつくるわ」
「…………うん。ありがとう」
寂しそうに微笑んだアンディの表情に、シェリアは妙なひっかかりを覚えた。
何かを見落としているのだろうか。
シェリアは、棚の上に置かれた自分用のポルボロンの包みを手に取り、アンディの手の中に包みにそっと重なるように置く。
手の中の包みが増えたことに驚いたアンディが、反射的にぱっと顔を上げると、シェリアはくしゃりと撫でた。
「私の分もアンディにあげるし、なんだったら明日もつくるわ。だから、元気を出して。…………あと、仕舞いこむのはやめましょう?」
いそいそと包みをふたつとも服のポケットに仕舞おうとしていたアンディが、ぴたりと動きを止めた。
部屋に持ち帰るだけなら問題ないが、アンディはそのまま大事に大事に保管しそうな勢いだったのだ。
シェリアの言葉に、しょんぼりと落ち込む様子を見せた。
心なしか、背中の羽根も元気がない。
────羽根?
何故、アンディの背中に羽根が見えるのだろう。
シェリアが思わず目をこすり、再びアンディの背中を確認すれば、羽根はそこにはなかった。
“かれら”に逢いたいばかりに、弟の背中に羽根が見えるなんて重症だ。アンディのことは生まれた時から知っているし、間違いなく人間なのに。
きっと疲れていて幻覚を見たのだと、シェリアは結論を出すと、今もしょんぼりとしているアンディの頭を再び撫でた。
「とっておいても、数日くらいしか持たないと思うわ。あとニ、三年は毎日つくるつもりだから、アンディも飽きるほど食べることになると思うし……」
「──ニ、三年経ったら……?」
「えっと、お嫁に行くかもしれないから、難しい……かも……」
シェリアの発言に、アンディは雷に打たれたような反応を示した。
慰めるつもりが更に落ち込ませてしまったようで、アンディは肩を落としながら、ポルボロンの包みをポケットに仕舞いこんでいた。
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