いなくなったアンディ

 雨が窓を打つ音で、シェリアは目を覚ました。

 まだ眠気で重い瞼を開けば、そこにはすっかり薄暗くなった部屋。


 今日、王都から一年振りに屋敷に帰ってきたシェリアは、異国の焼き菓子であるポルボロンをつくった。


 そして出来あがったものを両親・執事のジェームズ・メイドのエレンに渡すと、少しだけ休もうと自室のベッドに飛び込んだ。

 軽く一眠りするつもりだったのに、ベッドの柔らかさと日向の匂いに、思いの外熟睡してしまったらしい。


 因みに、弟のアンディは外出中だったようなので、あとで渡そうと自室のテーブルの上に置いてある。


 シェリアは半覚醒中のまま、暫くうとうととしていたが、はっとあることを思い出し、身体を起こした。


 それは、窓辺にミルクとクッキーを置くというもの。

 王都滞在中だって、一度も欠かしたことはないのだ。


 慌てて時計に視線をやれば、針は九時近くを指している。

 今から用意したなら、十分間に合うはずだ。


 寝過ごさずに済んだことにほっと息をつき、シェリアは厨房へと向かうことにした。

 まだ眠気が残っているせいか、はたまた疲労のせいか、身体は少し重かった。



 ◆



 三階の一番端にある自室から一階の厨房まで、壁伝いにゆっくり歩けば、静まり返った薄暗い階段で、シェリアの足音だけが響く。


 両親とアンディはもう眠っただろうか。

 アンディにクッキーを渡しそびれてしまったかもしれない。


 もしも眠っていたなら、睡眠を妨げるわけにもいかないので、明日の朝渡すことにしよう。

 そのようなことを考えながら歩いていると、一階に辿り着き、サロンから明かりが漏れているのが見えた。


 まだ誰か起きているのかもしれない。

 そう思ったシェリアが明かりの方へと近付いていくと、どうも穏やかでない会話が聞こえてくる。


 無意識に気配を消して音を立てないように近付き、そっと柱から様子を窺ったシェリアは、瞳に映った光景に思わず小さく息をのんだ。


 沈痛な面持ちで手を組む両親と、そばに立つ執事のジェームズ。ただならない雰囲気であることが察せられる。


 ……これは、自分が触れていい問題ではないかもしれない。見なかったふりして部屋に帰るべきだろうか。


 そうは思うものの、しかし、シェリアの足は床に張り付いたまま動きそうにない。

 身体が硬直してしまったようで、シェリアはその場に立ち竦んだ。

 

 そうして、そのまま暫くの間、時間が止まったように動けずにいたシェリアを解放したのは、執事であるジェームズの声だった。


「お嬢様、どうされましたか」


 その声に、ジェームズだけでなく両親も振り向き、シェリアはこの場にいる全員の視線を集めてしまった。


 なんともいたたまれない気持ちになりつつ、シェリアは出来るだけ何気ないよう装って、その場に足を踏み入れた。


「その……何かあったのかしら。厨房に向かおうとしたら明かりが見えたものだから、気になってしまって。覗き見てしまったの。ごめんなさい」

 

 事実なのだが、なんとも言い訳じみている気がして、シェリアが心の中で落ち込んでいると、ジェームズは柔らかく微笑んでくれた。


「そういえば、そろそろ時間でございましたね」


 ジェームズの笑顔は、身体が強ばっていたシェリアをほっとさせてくれる。

 ……けれど、シェリアの問いには答えてくれてはいない。


 やはり、見なかったふりをして部屋に戻るべきだったろうか。自分は邪魔ではないか。


 シェリアは自問を繰り返すが、答えはみつかりそうにない。


「……シェリア、アンディと今日は会ったりしたかしら」


 うっかり自問の底なし沼に陥りかけたシェリアは、背後からかけられた声に、はっと引き戻された。

 瞬時に表情を切り替えると、声の主である母の方へ向き直した。


「階段室で会いましたわ。……確か、一階と二階の間くらい場所で、昼過ぎに邸に帰ってきてすぐのことでした」


 シェリアの言葉に、母は動揺してみせた。

 アンディについて訊かれたということは、アンディに関することだろうか。


「その、様子は、どこかおかしかったりしたかしら」

「いいえ、特には……。普段通りだったかと」


 要領を得ない質問だったが、やはり、どうやらアンディの身になにかあったらしい、とシェリアには分かった。


 普段通りに見えたけれど、シェリアは今日、初めてアンディときちんと話したので、異変があっても気付かなかったかもしれない。


 おまけに一年ぶりなのだ。

 些細な変化を見落としていた可能性は、十分にある。

 

「…………あのね、シェリア……落ち着いて聞いてね。アンディが、まだ帰ってこないの」


 どこか遠くから、雷の鳴り響く音がした。


「アンディが……ですか……?」


 もう、日がすっかり落ちているというのに、弟は帰ってきていないらしい。


「…………ええ。いつもなら……日暮れ前には帰って絶対に帰ってくるのに。………………もし、…………たら……っ」


 顔を両手で覆う母の背中を、父がそっとさすった。


 シェリアはジェームズと視線を交わすと、そっと気配を消してサロンを出ることにした。



 ◆



 シェリアは、そのまま、玄関扉のある間に移動すると、何をするでもなく、壁に背を預けて立つ。


 するとジェームズは、そんなシェリアに、この雨はシェリアが寝ている間に降りだしたのだと話してくれた。最初は、ぱらぱらと小雨程度であったけれど、次第に強さが増していったとのこと。


 話を聞いていたシェリアの脳裏には、昼に会話したばかりのアンディの姿が浮かんだ。

 シェリアと同じ亜麻色の髪とエメラルドグリーンの瞳。


 この雨の中、アンディはどこにいるのだろう。

 もしも、不測の事態で動けないのならば早く見つけ出さねばならない。


 アンディは、シェリアよりもずっと、この地での現象をよく見ていた。

 きっと将来、よい領主になると、シェリアは思っている。


 雨足が激しさを増していく。

 闇雲に探したところで、行方不明者が更に増えるだけ。

 おまけに夜の帳が下りていては、小さな手がかりを見落としてしまうかもしれない。


 そう、頭では理解しているが、シェリアはどうしても急いてしまう。


 だって、まだ幼い弟は、雨空の下、どこかで震えているかもしれないのだから。


 どうか、どうか無事でいて欲しい。


 シェリアが瞼を閉じて、祈るようにぎゅっと手を握りしめていると───門が開く音がした。


 それは、雨音に掻き消されることなくやけにはっきりと耳に届いて、思わずぱっと顔を上げたシェリアは、門のあるであろう方向を見つめた。


 何かが少しずつ近付いてくる音に、シェリアの心臓は、どくんと鳴る。


 不思議と、雨の音は聞こえない。


 シェリアが音のする先を見つめていると、間もなくして玄関扉が開き、濡れ鼠になったアンディが姿を現した。


 思いがけないアンディの登場に、シェリアは目を見開いたまま、固まってしまった。


 そんなシェリアの様子に、アンディは小首を傾げつつ、帰宅を告げる。


「…………えっと、ただいま?」


 その声に、はっと我に返ったシェリアは、一拍遅れてアンディに駆け寄っていく。


「おかえりなさい、アンディ……っ」


 そして、傍で控えていた執事のジェームズからタオルを受け取り、わしゃわしゃとアンディの濡れた髪を拭う。


 そんなシェリアの様子を、アンディは宝物を見つけたみたいに、きらきらとした瞳で見つめていた。


「お父様もお母様も、心配していたわ。何があったの?」

「…………ごめんなさい。道に迷ってしまったんだ」


 一瞬、何故かアンディが決めてきた台詞を言っているように聞こえて、シェリアは動きを止めて顔を上げると、まじまじとアンディを見つめてしまった。


 もしかしたら、王都から帰ってきたばかりで、少し疲れているせいかもしれない。


 そのせいで、妙な錯覚を覚えたのだ。

 首を横に振り、抱いた違和感を一蹴して、シェリアはそっと微笑んだ。


「……そうなの。無事で良かったわ」


 すると、アンディもまた、ほっとしたように笑顔を返してくれた。

 昼間は大人びて見えたけれど、年相応な一面もあるらしい。

 シェリアは今まで、積極的にアンディとは関わろうとはしなかったから、きっと知らないことも多いのだろう。


「とりあえず、風邪をひかないように湯船で温まらないといけないわ」

「湯浴みの準備は出来ております」


 シェリアがジェームズにアンディの湯浴みの準備を頼もうかと振り向けば、既に用意されていた。


「ありがとう。ジェームズ、さすがね」

 

 まるでジェームズは心が読めるようだと、シェリアは時々思ってしまう。

 だけど、きっと、執事とはこういうものなのかもしれない。

 常に一歩先を読んで万全を期すような。


 いつか、幼いシェリアにジェームズがそう話してくれたのだ。


「では、」


 浴室に、とシェリアが言いかけたところで、こちらを見ている両親に気が付いた。


「お父様、お母様」


 母はゆっくりとアンディの傍まで歩いていくと、膝を曲げて微笑んだ。


「……アンディ、おかえりなさい」


 父は、母とアンディを後ろから見守っている。


 ───こうして、アンディ行方不明事件は幕を閉じた。

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