10.開かれたドア
目を覚ますと、消灯時間はすでに過ぎていて天井の明かりは消えていた。しかし本来ならもっと暗くなるはずの部屋が、足元のほうからほのかな光に照らされていることにナオミは気づいた。
ベッドから体を起こした彼女は、その瞬間、氷のように冷たい手で心臓を無遠慮に鷲づかみにされたような気持ちになった。
ドアが開いていたのである。
部屋を照らす光は、完全に開かれたドアの外から差し込んでいるものだった。
ナオミはベッドからおりると、光に引き寄せられるかのようにドアのほうへ向かった。
――今ならまだ間に合う。
とナオミは思った。
視線を下げドアの外を見ないようにして、手探りでドアノブをつかんでそっと閉じれば、なにも変わらないそれなりに満ち足りた日々は続いていく。
だが理性による現状維持の提案は、ナオミの精神をつかのま貫いた衝動によって拒否された。
ナオミは顔を上げ、ドアの外をひたと見つめた。
そこから見えたものは屋外の景色ではなく、細長い通路だった。床には毛足の短い赤い絨毯が敷きつめられていて、部屋とは異なり天井全体ではなく両端が細い光の筋となって通路に鈍い明かりを落としている。視界に入る通路の一番奥の部分は行き止まりになっているようだが、薄暗くて見えづらかった。
もっとよく見ようとナオミは目を細めて身を乗り出し、思わず足を部屋の外に踏み出しそうになって、慌てて体を引いた。ここから一歩でも前に進めば自分はこの部屋の住人ではなくなる、という想念が足に絡みついて踏みとどまらせたのである。しかし同時に、もはやこの状況において自分にドアを閉じるという選択肢はないのだとも感じていた。
――私はこの部屋から出ることになる。
ナオミはそう思ったが、その思いとは裏腹に足はぴくりとも動かず、ドア枠に汗ばんだ手をつき体を支え、身じろぎひとつせず通路の奥をただじっと見つめていた。再びはじまった理性と衝動の戦いは、
結局この状況を打破したのは、誰にでも平等に訪れる時間という存在だった。虚弱な彼女の肉体は、まったく動かずに立ちっぱなしでいることに疲れを感じはじめていた。進むにしろ戻るにしろ、どちらかに体を動かさなくてはならなくなったときに、ナオミは正面を向いたまま足を踏み出すことを選んだ。体をひねって後戻りするよりかは、短期的に肉体にかかる負荷が少ないと判断したのだ。
表面的には理性が肉体に敗北したように見えるが、その実、裏で衝動が糸を引いてそう動くよう仕向けたともいえる。いずれにせよ、ナオミはついに部屋の外に出たのである。
両足を赤い絨毯の上にのせたナオミは、慣れないその感触に戸惑った。足裏から伝わる感覚が異なるだけで、部屋とはたった一歩の距離なのにまるで違う世界にいるように思える。なにか体に変化が起きていないか、足の裏をのぞいたり、手のひらや手の甲を見てみたり、服をめくって体を調べたりしてみたが、特に異変は感じられなかった。
通路は部屋の半分くらいの幅があり、ナオミは左側の壁に手をつきながら慎重に歩を進めた。
十歩ほど進んだところで、ふと部屋のドアが閉まっているのではないかという疑念に襲われ肩越しに振り返ってみたが、ドアは開いたままで、部屋の内部が薄明かりに照らされてぼんやりと浮かんで見えた。隅々まで見知っている馴染み深い自分の部屋なのに、なぜか他人の部屋をのぞいているようにナオミには感じられた。
再び視線を前に戻そうとしたとき、通路の壁の異変に気づき、ナオミははっとした。ちょうどナオミが手をついているあたりの壁が、薄汚れていたのだ。
壁の汚れを目で追っていくと、これまで歩いてきたところだけではなく、通路のこの先の部分も同じように汚れが線となって続いている。
これが意味することを彼女は理解した。
――私はこれまでにも部屋を出てこの通路を歩いたことがある。しかも壁が手垢で汚れるほど何度も、数えきれないほどに。
ナオミは突如として猛烈な不安に襲われた。急いで部屋に戻って青い錠剤を飲んで愚鈍になりたかった。しかしここで後戻りしてしまえば不安はさらに重みを増し、その足は一歩戻るごとに沼地を歩くかのごとく沈み込み、重さに耐えかねた腰は折れ曲がり、頭は地に着くほどに垂れ下がり、部屋にたどり着くころには体はすっかり押し潰されて水分を失った抜け殻になっているに違いない。
そんな自分の姿を想像したナオミは、意を決して先へ進むことにした。もし自分が何度もここを通っているのだとしたら、同じように悩み、そして前に進んだはずであり、この先に続く壁の汚れはその証明であると彼女は考えたのだ。
それからしばらく歩くと正面に白い壁が見えてきた。やはり部屋から通路の奥を見たときに感じたように、そこは行き止まりになっていた。
ナオミは少しためらったあと、目の前の壁に恐る恐る指を触れてみた。すると機械が動作する重低音が鳴り響き、壁全体が持ち上がり天井に収納され、目の前に通路と同じ赤い絨毯が敷かれた階段が現れた。階段の先がどうなっているのかナオミの位置からは確認できなかったが、もう戻ることはできないのだとナオミは自分を奮い立たせ、階段をのぼることにした。
その階段はひとつひとつの段が大きく急だった。壁を支えにしながら十段目まではなんとかのぼることができたものの、日々たいした栄養も取らず体力が失われていたナオミは、残りの数段を四つん這いになって、一段のぼっては休み、もう一段のぼっては休み、最後の一段をのぼりきったときには汗だくになって息を切らし、しばらくその場で体力が回復するのを待たなければならなかった。
なんとか立ち上がり先に進んだナオミの前に現れたのは、彼女が住んでいる部屋の数十倍の広さはありそうな、巨大な正方形のホールだった。
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