金時計

@tsuka11

第1話

〝金時計〟

それは愛知県の名古屋駅にある金色に塗装された時計。県民には待ち合わせ場所として広く利用されている。



1 アズサ


 十一月十日 午前十時二十分


 二十二歳のアズサは、金時計前で彼氏の到着を待っていた。しかし、待ち合わせ時刻から二十分が過ぎても彼女はまだ一人でいた。

 

 アズサの彼氏はケビンといい、ブラジル系日本人だ。ケビンはとても優しく、話も面白いのだが、遅刻癖が難点だった。


 今月に入りすでに二度目のデートだが、ケビンはどちらも十五分以上の遅刻をしている。付き合いはじめた当初は、文化的な違いがあるのだろうと自分を納得させていたが、彼の家にお邪魔したとき、家の中があまりにも日本の一般家庭そのものだったので、文化的な違いはあまりないのではと頭をよぎった。そして、彼の家族構成や生い立ちを知ると、その考えは確信へと変わった。


 ケビンの父はブラジル人だが、母は日本人。この父の方だが、当の昔に離婚してブラジルに帰っており、ケビンは二歳のころから日本人の母の手で育てられたという。彼はポルトガル語を話せないし、ラテンアメリカの文化は何も継承していないとのことだった。つまり、人種が異なるだけの日本人であり、彼の遅刻癖はただの性格によるものだったのだ。


 それ以来、彼が遅刻する度に、アズサはきつい言葉を放つようになった。前回も相当搾り上げたというのに、彼の遅刻癖はいまだ改善が見られない。


 アズサは『まだなの?』とメッセージを彼のスマホに送るが、既読は付かない。

せっかくお気に入りの革ジャンを引っ張り出してきたというのに、それをいまだにケビンに見せられないでいる。


 苛立ちが募る中、人々が多く集まるこの金時計では、二つの怒声が飛び交い始めていた。どうやら肩がぶつかったらしく、二人の男女が口論をしている。女性の方は黒人のスーツ姿でかっちりきめているが、男性の方は対照的に、全身古ぼけたジャージ姿で清潔感に欠けていた。顔立ちはやや濃く、僅かにハーフを思わせる。

男性の方が特に激昂しているようすだが、女性の方も痺れを切らしたのか、ついに声を荒らげ始めた。


 そして、痺れを切らしたのは彼女だけではなかった。ケビンが来ないことに苛立ちを覚えたアズサは、強い足取りでかれらの方へと向かっていった。



2 ケビン


 今日も待ち合わせ時刻に遅れてしまった。家を出る時間に問題はなく、電車の遅延もなかった。このまま行けば、アズサを苛立たせることなく金時計に行けるはずだった。しかし、金時計までの道を進んでいると、老齢の女性が道路の脇で蹲っていた。見た目の清潔感からして路上生活者でないことはすぐに分かった。明らかに困っているというのに、行き交う通行人たちは見てみぬ振りをしている。


 今日こそは間に合うと思っていたのに、なぜこうも上手くいかないのだろう。

アズサは非常に気の強い女性で、自分のこともきつく叱ってくる。それだけならいいのだが、アズサは他人にもかなり気を回す節があるのだ。


 以前、アズサの家で二人で過ごしていたとき、道路から大きな声で男性二人が口論しているのが聞こえた。最初は無視していたが、あまりにも続くので、我慢の限界を迎えたアズサは外へと出ていくなり「うるせぇんだよ!」と叫んだ。見事に場は鎮まり、アズサの行動力には感嘆したものだが、それと同時に危うくもあった。これが別の場所で、しかも自分がいない時に起きたらどうしようと。毎回、上手くいくわけではないのだから。


 ケビンは、困っている人を無視をするという罪悪感には敵わず、遅刻覚悟で蹲る女性に声を掛けた。


「大丈夫ですか?」


 およそ七十歳から八十歳ぐらいの女性は、ぷるぷると体を震わせ、掠れる声でいった。


「……膝がね」

「どうすればいいですか?」

「……じゃあ、立たせてもらえる?」


 ケビンは分かりましたと答えると、女性の腕を自身の肩に回した。


「じゃあいきますよ」ケビンは告げると、女性の脇腹を支え立ちあがろうとした。しかし、想像以上に女性の体重は重かった。――いや、正確にはそうではない。女性は立ち上がることが出来ず、全ての体重が重力に従ったのだ。


「ごめんなさい。やっぱり立てないや」女性は申し訳なさそうに呟いた。

「どうしましょう、誰かに連絡しましょうか?」

「大丈夫、ケータイは使えるから。とりあえず座らせてもらえる?」女性は道路の脇にある縁石に目を向けた。ケビンは彼女の意志を理解すると、今度は背後に周り、両の脇にそれぞれ腕を差し込んだ。女性の胸の前で自身の手を結び、再び一声掛けてから持ち上げた。先ほどよりも体勢が楽なのもあり、すっと持ち上がった。わずか三十センチほど移動させると、縁石の上に女性を座らせた。


「あぁ、ありがとう。助かりました」女性は疲れ切った顔ではあったが、嬉しそうな声色をみせた。

「いえいえ、本当に大丈夫ですか? よかったら代わりに連絡しますけど」


 これを聞くと、女性は手を左右に振った。

「大丈夫だから。とりあえず休ませて」

「はぁ、わかりました」そういうと、ケビンは腕時計をちらりと見た。女性をただ縁石に座らせただけであり、ケビンはこの問題が解決した気があまりしなかった。ゆえに去るにも去れない。


「本当にありがとうね。あなたみたいな若い子がいて助かりました。それにしても優しい声で、しかも日本語がお上手ね、あなたはどこの国の出身なの?」

「日本人ですよ」ケビンは素早く答えた。

「そうなの?」

「はい。父がブラジル出身なだけです。日本育ちの日本人です」

「そうなの。なら、あなたのお父さんが日本に来て、あなたのお母さんが、あなたを産んでくれてよかった」


 父はもうとっくにブラジルに帰っているので、もういない。しかし、その家族構成を彼女に話す必要はないだろう。


「そうだ、名前はなんていうの?」

「辻井マサヤっていいますが、みんなはミドルネームのケビンで呼びます」

「そうケビンさん。引き止めてごめんなさいね。予定あるでしょう? どうぞ行って」

「いいんですか? 本当に連絡されなくて大丈夫ですか?」

「大丈夫。落ち着いたら自分でするから」そういうと女性は鞄から携帯電話を取り出した。

「分かりました。では、お気を付けて」ケビンは一礼すると、金時計の方へと向かった。


 腕時計の時刻は十時二十分を指している。今の出来事をアズサに話して納得してくれるだろうか。言い訳ばかりを考えながら、金時計広場に足を踏み入れると、甲高い声が上がっていた。


 一瞬、理解が追いつかなかった。なぜなら、その甲高い声がアズサのものとしか思えなかったのだ。



3 タイヨウ


 〝タイヨウ〟――はっきりいってかなり珍しい名前だ。他人に自己紹介をするとき、いつも「お日様?」などといった弄りが入る。もう何度も経験しているので、正直こんな名前でない方が良かったと思うことが多かった。それに、この名前を気に入っていないのは、名付けられた由来を全く知らないことにもある。


 物心ついた時から祖母と二人暮らしで、親の顔は写真ですら見たことがない。自分の顔立ちは少々濃く、いささか日本人離れしている。複雑な事情を勝手に想像してしまい、祖母に親のことは聞けなかった。もし何か重たい理由があるならば、祖母との仲が気まずくなってしまう恐れがある。それだけは何としても避けたかったのだ。


 最終的にはネットの画像検索を頼りに、自分の親はフィリピン人だと結論付けた。日本とそれなりに関係があるので不自然ではないし、顔も似ているような気がする。確実にインド人ではないだろうし、黒人でもない。肌の色は日本人となんら変わらず、顔立ちがやや濃いというだけなのだ。


 しかし、唯一の家族だった祖母も二年前に亡くなった。


 もう自分の年齢も気づけば三十を数える。


 ほぼ毎日のように稼いだ金をパチンコに費やしては、しょっちゅう負けている。仕事はどれも長続きせず、転々とする日々。衣服や食事に使う費用を削っているので、ここ数年は二着のジャージを着回ししているだけだ。もう冬の色が近付き、かなり冷えてきているが、他に着る服はない。


(あぁ、自分はどこまでついてないんだ)


 今日も今日とてパチンコで五万円負けた。苛立ちが腹の内に溜まり、これをどこかにぶつけたいそんな気分だった。


 その時、金時計前で肩がぶつかった。


 その瞬間は好都合な出来事が起こったと思い「おい!」と咄嗟に声を荒らげた。

しかし、ぶつかった相手の容姿を見るなり、直感的にこれは問題が大きくなってしまうのではと予感した。しかし、それでも自分の怒りを抑えることは出来なかった。



4 ウチェナ


 ウチェナがナイジェリアから日本に渡ってから、十年が経とうとしていた。日本語はもう完璧で、通訳の仕事も完璧にこなしている。ナイジェリアはイギリスの植民地であったため公用語は英語である。日本では英語が非常に役に立ち、仕事にも困らない。リベラルであることを示すため黒人女性を積極的に起用してくれる企業もあるのだ。


 今日は泊まりの仕事がようやく終わり、その帰途についていた。近鉄に乗るため金時計前を通り過ぎようとしたとき、ジャージ姿の男性とぶつかった。

最初は「すみません」と日本語で謝ったが、男性の怒りは収まらないようで、暴言を放ち続けた。


「お前、日本語通じんのか? 通じないなら国に帰れ!」

「通じてますよ。今、喋ってるじゃないですか」

「うるせぇ! 日本語が喋れるから何だってんだ。この黒人女が」


 男性の放つ言葉はだんだんと差別的な内容が増していき、ついにウチェナは我慢ならなくなった。


「何ですかさっきから! 人種差別ですよ!」


 ウチェナと男性の怒声が金時計広場一帯に響き渡り、いくつもの視線が二人に向かう。


 このやり取りが一分ほど続いたときだった。若い一人の女性が割って入ってきたのだ。見たところ二十代前半といったところだろうか。黒髪で黒い革ジャンを着た、見るからに気の強そうな日本人女性だった。


「うるせぇんだよ、おっさん!」革ジャンの女性は叫んだ。


 あまりの出来事に男性の方も一瞬動きが止まり、反応に困ったようすを見せた。


「ただでさえ、彼氏が遅刻してイライラしてんだから騒ぐな!」


 これを聞くなり、ウチェナの頭に疑問が浮かんだ。


(〝周りに迷惑だろう〟などといった主張ではないのか? 彼氏が遅刻とは何のことだ?)


 この文言では、男性はより激昂してしまうのではないかと頭をよぎり、それはすぐにも的中した。


「彼氏が遅刻してるなんて知るか! 関係ねぇんなら黙ってろ!」

「お前が黙れば、こっちも黙るよ!」


 革ジャン女性の登場によって、男性の標的はウチェナから彼女へと一瞬で変わった。


(いまならすっと逃げられるか?)


 そう思っていたときだった。さらに新たな人物が参入してきたのだ。


「ちょっとアズサ! なにしてんの?」優しい声色のラテンっぽい男性が二人を諫めようと介入してきた。


「おせぇよ!」アズサと呼ばれた女性は叫んだ。「てめぇが、もっと早く来ればこんなことになってねぇんだよ!」


(この人が彼氏か。それにしても彼の遅刻のせいではないだろう……ともいいきれな

いのだろうか?)


 この場を去りたかったが、困り顔のラテンの彼氏を放っておくことはできず、ウチェナは問題解決のためにも声を掛けた。


「彼女は関係ないんですよ」

「関係ないことないだろ!」ジャージ姿の男性はそう言葉を放ち、アズサという女性に掴みかかろうとした。

「ちょっと!」ラテンの彼氏はすかさず、その間に入った。


 男性は肩を押したり襟首を掴んだりしているが、ラテンの彼氏はそれをなんとかいなしている。


 アズサという女性もこの場を鎮めることに尽力してくれればよいのに、苛立ちからか彼氏の後ろに張り付き、ジャージ男に向け「ばーか」だのと嘲る文言を叫び続けている。


 ジャージ男はますます怒りを募らせ、いまにも女性を蹴りつけそうな勢いを見せた。ラテンの彼氏がなんとかそれを防ごうとするが、一発の蹴りが彼氏の横をすり抜け、革ジャン女性の腹部に命中した。


「痛ッ!」と彼女が声を上げた瞬間だった。今まで、なんとかこの場を鎮めようとし

ていたラテンの彼氏が自ら手を出すようになったのだ。素早いローキックが放たれ、ジャージ男は唸り声を上げ態勢を崩した。それからラテンの彼氏は、何かのスイッチが入ったかのごとく攻勢に出た。


「やめてください!」ウチェナは思わず叫んだ。


 しかし、ラテンの彼氏は収まらず、気付けばジャージ男に馬乗りになり拳を叩き込んでいた。


 そのとき、ようやく騒ぎを聞きつけたのか警察官が現れた。


「なにやってるんだ!」と警察官がいい、殴りかかっているラテンの男性を後ろから羽交い絞めにし地面へと押さえつけた。


 はっきりいって彼は巻き込まれた側だが、今駆けつけた警察官の目線では完全に加害者に見えるだろう。


「ケビンは何もしてねぇんだから離せよ!」


 革ジャン女性は甲高い声をあげ、彼氏を取り押さえる警察官に近付いた。


「何もしてないわけないだろ! 人を殴ってたんだぞ!」

「そっちが先に殴りかかってきたんだよ! ケビンは私を守ろうとしただけなんだって!」


 そう叫ぶ女性の声は、さきほどと打って変わり、悲痛な色で満ちていた。



5 ヤスエ


 白のミニバンは電話を掛けてから、およそ十分後に現れた。


 その間、ヤスエは道路沿いの縁石に座り続けており、二人に「どうかされましたか?」と尋ねられたが「迎えを待っているだけです」と返した。


「母さん。大丈夫?」ミニバンから降りた息子は慌てた顔でそういった。

「うん。優しい人に助けてもらったから」

「心配したよ。一人で出かけなくてもいいのに」息子はそういいながらヤスエを持ち上げ、車の後部座席へと乗せた。

「たまには、一人で出かけてみたかったのよ。いつも迷惑ばかり掛けてられないもの」


 息子は運転席へと戻ると、ぼやくように返した。


「何を言うんだよ母さん。今までさんざんこっちが迷惑かけて来たんだから、母さんが俺に迷惑かけていいんだよ」

「どの口がいうんだか。いつも面倒そうな顔ばっかりするくせに」

「何も本心からそう思ってるわけじゃないよ。何にせよこうやって心配する方が迷惑ってもんさ。――そういえばさっきいってた優しい人って?」

「あぁ、外国人の方……じゃなかった、親が外国人の方に助けてもらったの。ブラジルっていってたかな」

「愛知県はブラジル人多いからね」

「そうなの?」ヤスエは尋ねると息子はうんと返事をした。

「あぁいった優しい人に幸運が舞い降りるといいのに。その人時計気にしてて、なんか急いでるみたいだったから。――あぁ、何も問題ないといいけれど」


 ミニバンが金時計のある名古屋駅前を通り過ぎようとしたとき、何やら騒がしくしている警察官数人と、血を流す男性が見えた。どうやら暴行事件のようだ。


 遠目からそれを眺めながらヤスエはいった。


「いやね、なんだか物騒になっちゃった」

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