第6話 見つめる湯気

 人生において大事な瞬間というのは突然訪れる。なぜもっと準備をしてこなかったのだろうと後悔するのが人間なのだろう。いま僕は後悔の真っただ中にいる。

 数日前に借りた小説は二日で読破した。先輩から借りた本は先輩の身体の一部のような気がして、汚れをつけないように折り目を付けないように慎重に読み進めていった。読み終わった後は本の内容はもとより先輩の頭の中を盗み見たような気がして不思議な魅力を感じた。そこから読書という面白さにのめりこんでいった。というよりは、趣味が読書という知的な自分に少し酔っていたのかもしれない。そこから、本屋に何度か足を運ぶ。今まで漫画コーナーにしか興味をひかれなかった僕にとって別のコーナーに興味を惹かれるというのは自分が新しい世界に足を踏み入れたのだとワクワクする。目の前の本棚には作家の名前順にびっしりと小説が並び、どれを手に取ればいいのか迷ってしまう。先輩はどんな本が好きなのだろうか。この前に聞いておけばよかった少し後悔する。次に会ったときに聞こう。今日はこの前借りた作家の別の作品と平「本屋大賞受賞‼」のポップに目を惹かれ積みされていた本を手に取りレジに向かう。そのまえに本屋に来た目的はもう一つあったことを思い出す。

 先輩にデート(厳密に言えばデートではない)に誘われた僕は人生で女性とお出かけしたことはもちろんなく、女性と学校以外の場で会うなんて壊滅的になかった。そのため服のセンスは絶望的だし、こういう場面でなにを話せばいいかもわからない。しまいには、こんな僕と一緒に過ごして何が楽しいのだろうかと考えてしまう。こんなことならクラスの女子たちに片っ端に声をかけてデートしておけばよかった。とは思わないが最低限の男らしさを身につけていればと後悔する。本屋へ来たのは他の本も読んでみたいという好奇心もそうだし、先輩との面会の参考になる雑誌が置いていないかと探すためでもあった。

 雑誌コーナーの前で右往左往していると実にいろいろな特集をしている雑誌がある。男性誌から女性誌まで見て回ると「デート」に関する特集が数多く置いてある。〝おいしいお店〟〝モテる服装〟〝モテ仕草〟今まで僕には無縁だと思い見向きもしなかった字面が、今はこれを求めていたと思うほど目に留まる。結局、男性誌に並ぶ「一一月号特集。即実践、エスコート術‼」に興味を惹かれた。こんなもの高校生の少年が立ち読みしているのも恥ずかしいので雑誌を先ほど選んだ小説二冊の間に挟みお会計へと向かった。

 当日、結局僕は制服で行ったしまった。服のセンスは中学生で止まりさすがに人と会うには着て行けない。僕は三十分も早くついてしまい一一月上旬の寒さに震えながら店の前で先輩を待つ。お店は僕の家と学校のちょうど中間にあるお店だ。土曜日の昼過ぎということもあり駅前は閑散としており冷たい風が吹きつける。お店は入口からレトロ感漂う喫茶店で一階が薬局で二階に店を構える。店の入り口へ続く急な階段の下には看板と食品サンプルが飾ってあるショーケースがある。歴史を感じる出で立ちに一人だったら入れないだろう雰囲気がある。ショーケースに飾ってある、精巧に出来たナポリタンやクリームソーダの食品サンプルを眺めていると後ろから声をかけられる。

「お待たせ。ごめんね、待った?」

振り向くと、いつも通り優しく微笑んだ表情で凛と佇む先輩が緑のコートを着て立っている。いつもの制服姿とは違いヴィンテージなコートを着た先輩はとても大人っぽく見える。

「いえ、今来たところです。」

長いこと待ち指先が震えていたが、予習した雑誌の一パージを思い出しながら挨拶を返す。

「そのコートお似合いですね」

「そう!ありがと!コートステキでしょ。お気に入りなの」

「はい、とても似合ってます」

雑誌に書いてあったのは二つの鉄則、とにかく褒めろ、女の話を聞けだ。

「じゃあ、行こっか」

「はい」

喫茶店の入り口につづく急な階段を先輩がよろけてもいいように後からついていく。階段を上ると扉にOPENの札がかかっていて別世界の入り口のように感じる。そして、僕が先導して扉を開ける。予習通りだ。

「ふふ、優しいのね」

微笑む先輩の表情を見て僕は心の中でガッツポーズを決める。気持ちが高揚したままドアを開けるとカランコロンと鳴る。扉を開けると、珈琲の香ばしい香りとタバコの残り香が体を包む。店の奥がガラス張りになっておりお店全体に太陽の明かりが差し込む。店内には窓側と壁際にテーブル席が二席ずつ。中央に大きな丸テーブルに椅子が八席とゆったりとした店内だ。現在、お客さんは三組おり、主婦らしきペアとスーツのペア、丸テーブルに一人が座っている。いらっしゃいと七十代ぐらいのマスターが声をかけてくれる。それに続き、ママさんが窓側の席へ案内してくれる。

「今日はお友達と一緒かい。めずらしいね」

「ええ、たまにはね」

「そう、ごゆっくり」

ママさんの〝お友達〟という言葉に反応してしまう。そういえば、僕と先輩の関係は何なのだろうか。周りの人には僕たちはどう見えているのだろう。いやいやいいや友達でも恋人でもない、ただの先輩と後輩だ。たぶん。自分勝手に思考を走らせ、入って数分もたたないうちに緊張は最高潮だが席に座り気を紛らわす。周りを見渡すと古時計やウッド調の椅子、お客さんの客層が目には入るが頭には入ってこない。僕が初めての空間と初めての経験でそわそわしているとママさんが注文を取りに来る。

「ご注文はお決まりですか」

「私は、キリマンジャロ」

先輩はそういうと目線をこちらに向ける。

「えっと…僕は…」

喫茶店に行き慣れていない僕は、なにが定番なのかもわからず、珈琲も苦くてまだ飲めない。とっさにショーケースの食品サンプルを思い出す。

「…ナポリタンで」

そう言うとママさんはかしこまりましたと奥へと下がる。注文を終え微妙な沈黙が流れ、僕は目の前の先輩よりも自分がなにを話そうかばかり考えてしまう。

「わたしね」

先輩は窓のほうを眺めて小さな声で話し出す。

「1人になりたいときによくここに来るの。人間関係て難しく感じるときない?」

僕には難しく感じるときしかないが。

「周りにさ。合わせて明るく接すれば接するほど、心の影が濃くなっていくの。それで疲れちゃう。だからときどき孤独が必要なの」

先輩が弱音を吐いているのが珍しかった。その言葉を吐き出す先輩の声は温度低く目の奥は冷たさが宿る。先輩の向く窓の先に視線を向ける。見えるのは駅前のバスのロータリー。バスには様々な人が乗り降りする。バスから降りてくるのは女子高生、妊婦さん、おばあさん。一方でバスに乗っていくのは、ギターを背負ったお兄さん、スーツの男性。人々の生活の営みを見つめながら話す先輩の横顔は、どこか寂しさを感じる。いま喫茶店に座っているお客たちも今夜のおかずや仕事の話をしている。なんだか、先輩は別々の人生が交差していく場所が好きなのかなぁと勝手に考察してみる。今までの先輩の印象とは違う一面が見えて驚いたが、新たに見えた人間臭い部分が逆に僕には魅力に感じた。

「それとねっ」

急にこちらを向き、先ほどとは打って変わって明るいテンションで話しかけてきた。

「他のお客さんの会話を盗み聞くのって結構楽しいのよ」

「ちょっと。声が大きいですよ」

「フフ。夕食の献立から商談まで。全く飽きずに一日を潰せちゃう。この前面白かったのは毎回クリームソーダを注文するおじいさんがいて…」

楽しそうに話す先輩は、僕にナポリタンが運ばれてきて美味しさに舌鼓を打っている最中にもお客さんたちのことについて話していたが、僕はそれをひたすら聞いていた。目の前で楽しそうに話す先輩につられ僕も楽しくなっているとだんだんと外が暗くなってきた。すると、マスターが食べ終わった僕に珈琲を持ってきてくれた。

「どうぞ」

「えっと、頼んでませんけど」

「これ、サービスね。椿ちゃんのお友達ならいつでも大歓迎。」

「いいの?マスターありがと」

先輩は学校では見たことのない子供っぽい笑顔をマスターに向ける。目の前の白いカップに艶めく褐色の飲み物を一口飲むと、高校生の僕にはまだ苦かったが、その温かさにほっと息を吐く。

 よほど居心地の良い場所なのかテンションと話題が途切れずに先輩は話し続け、これまで聞き役に徹していた僕に見かねてかこちらに話題を振る。

「なんだか私ばっかり話してるね、信くんは最近どう?」

「ぼくは、そうですね…」

なぜだか言葉が詰まってしまう。言いたいことはたくさんある。でも、言いたいことがあふれて何から言えばいいかわからない。なかなか次の言葉が出てこない。頭の中では言いたいこと聞きたいことが山ほどあるのに。話したいのは借りた本の感想や似合っていた緑のコートのこと、真っ赤なナポリタンの感想やお店のインテリアのこと。最近森下と仲良くなったこと。中学生の頃に出会った不思議な女性の話。聞きたいのはあなたの好きな服や音楽や本のこと。部活や友達やマスターとの話。知りたいのに聞けなくて話せなくてただただ目の前のコーヒカップを眺めてしまう。そしてどうでもいい無難な相談をポツリとつぶやく。

「今度のテストがダメそうです」

出てきた言葉は陳腐な話題。

「そうなんだ、信くんて意外と勉強出来ないんだ?」

シンプルに失礼な返事が返ってきた。

「意外とってどういうことですかぁ」

「フフ、ごめんね。じゃあさ、今日来てくれたお礼にうちで勉強教えてあげよっか。今、私受験勉強中だし人に教えたほうがこっちも身になるし」

「え‼いいんですか‼でも、受験で大変な時に行くのも申し訳ないかと」

場をつなぐために出した話題が思いがけずいい方向に転んだ。行きたい気は満々だがなぜか遠慮の言葉が出てしまう。

「あ、そう、嫌ならいいけど」

「いやいやいや、嫌じゃないです。行きたいです!行かせてください‼」

いたずらっぽい目をした先輩は手で口をおさえる仕草でこちらに笑いかける。

「しょうがないなぁ」

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