転送病理医のCPC(仮)

ryo_456jp

第1話 病理医転送

CPC(Clinicopathological conference)は、日常生活で耳にすることはないだろう。特に、医療者でなければ、大半の人は知ることもなく生涯を終えている。そして、知ることもなく、CPCにかけられているのだ。

CはClinicの頭文字で“臨床”を意味する。PはPathologicalで“病理”を意味する。要は、臨床医と病理医がともに検討会を行うという意味だ。 では、何を検討するかというと、それはその人の体から生きた証を読み取っていく。CPCによって、その人の“死”が必然だったのか、それとも避けられた運命だったのか明らかになってくるのだ。


仕事が一段落しのは、夕方の帰宅ラッシュもとうに終わり、まばらに遠目の対向車とすれ違う、そんな時間であった。今日の出来事を心の中で反芻しながら無気力にハンドルをにぎる。湿度を帯びた生ぬるい風も、そんな僕に気を利かせて冷感を帯びつつ肌を打ちつけている。遠くで蛙の輪唱が広がった帳の中に響いている。時折、石に乗り上げてはねる。そんな農道を1人帰っている。

今日は迅速診断が立て込んで、ルーチンの病理診断も2割増しで割り当てられた。所属する医局は慢性的な人材不足である。所属する大学病院は地域の基幹病院であり高度な医療を求める患者さんが集中し、それに応じて検査や手術も増えるのは当然の成り行きである。病理診断は医療の基盤である。診断には推定診断と確定診断が挙げられるが、臨床医が行うのは臨床診断であり推定診断の域を出ない。病理診断はこの臨床診断に診断の根拠を付加し、診断を確定し、患者さんの悩みを解決するための方針を決めることが任せられた重要な役目である。我が国は分化の成熟に伴った少子高齢化の真只中であり、病を抱える多くの老人たちが悩みの解決を求めて集まってくる。慌ただしい日常で、臨床医も病理医も疲弊しきっているのが現状だ。

過ぎ去る風景も、見えているようで見えていない。ぼうとした意識の中で、アクセルとハンドルは半自動的に動かされている。そういえば、昨日は研究で使用するパラフィンブロックを探しに、一人で倉庫にこもっていた。ブロックは木箱に収納されていて、縦断くらいに積み上げられている。目当てのブロックは積み上げられた木箱の最下層にあり、上の木箱をずらし、やっとのことで目当てのものにたどり着いた。パラフィンブロックは病理の要で、病理医が主に診断するHE標本(ヘマトキシリン&エオジン染色標本)のもとである。臨床医が診断ないし治療のために採取した患者さんの組織(体の一部)は固定液(10%中性緩衝ホルマリン)に浸され、採取された時点の状態を保持させる。組織の固定を行わなければ、腐敗して患者さん情報は失われてしまう。一旦固定されれば、核酸は時間経過とともに劣化していくが、形態は永年保持される。固定された組織は大きければ、3㎝大に細切し、脱水、脱脂を経てパラフィン内に埋め込まれる。そうして出来たパラフィンブロック(以下ブロック)は臨床検査技師(以下技師)がミクロトームで4μm厚の薄さに切る。さながら、よく切れる鉋で木材を滑らかにする宮大工の様な繊細な作業だ。薄く切られたパラフィン切片は、ぬるま湯に浮かべられスライドガラスで拾う。そして、60℃の伸展板というぬるい鉄板の上でパラフィン数時間かけて伸ばす。このスライドガラスに貼り付けられた組織を、HE染色し病理診断が行われる。やっとの事でお目当てのブロックを探しあてて、立ち上がった瞬間に黄緑のドット絵に似たベールが頭上から舞い降り、足は力を失った。地面が顔に向かってくる感じをどうすることも出来ずに感じ、その場に倒れてしまった。いわゆる、起立性低血圧症だ。人気のない倉庫で数分間、視界や感覚が戻るのを待っている間、ほんの僅かな死の不安がよぎったのを忘れない。それが、運転している時にも起こるとは全く予期していなかった。右折しようと右方向に頸を回した瞬間、あのドット絵のベールが再び頭上から舞い降りてきた。脱力感が全身を軟らかく包みこみ一体何が起きたのか把握できないまま、植えられて間もない水田の中に落ちていった。どういう位にハンドルを切ったかは定かではないが、車体はまるでスタントマンでも乗せているかの如く直角に傾きそして天地が逆転した。

まわっている。心地よい浮遊感。前後左右もなく漂う。光りはなく、深く厚い帳の中にいる。運転していた車のシートは何処に行ったのか、わからない。

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