白野椿己

 明るい未来を夢見て上京した十三歳の春、お父さんに連れられて水族館へ行った。

 地元の小さく寂れた水族館とは違う、都会に馴染んだ大きな建物と広場。多彩で種類が豊富な生き物に、どこを歩いても楽しいブースの多さ。

 トンネル水槽を通った時はまるで海の中に居るみたいで、自分が魚になった気になれた。



 スクリーンのように大きな水槽で、人生で初めてマイワシのトルネードを見た。



 ぶわぁっと大きな塊が一斉に動き、優雅に、時に素早く泳いでいく。春のライトアップで桃色に照らされ揺れ動く姿は、夜の桜吹雪のようでうっとりとしたものだ。

 メタリックなピンクが万華鏡のようにキラキラして、きれいで、うっとり。

 人間の集団行動とはまた違う美しさがあり、ぽっかりと口を開いて眺め続けていた。


 いいなぁ、きれいだなぁ。

 私も、七色の照明を浴びたらこれぐらい美しくなれるのかな。


 私もこれから、そんなダンサーになれるかな。





 バスの中でうたた寝をしていたらしい、なんだか懐かしい夢を見ていた気がする。じんわりと心が暖まっている感じがした。

 のそりと背もたれから体を離し、ぐぐっと伸びをし首を鳴らしてから窓の外を眺めた。もう数分でダンススタジオに着く距離だ。

 パンパンと頬を叩き、ペットボトルの水を口に含んでからリュックにしまう。


 バスから降りてスタジオに入り、いつものように更衣室へ向かった。


「おはようございます」

「おはようございます」


 更衣室の扉を開けながらお決まりの挨拶をする。他メンバーの談笑を聴き流しながら着替えをすませ、二リットルのペットボトルとタオルを持って練習室に向かった。


 練習室に入って隅に荷物を置き、空いている場所で柔軟を始める。二十歳になってからアップの重要性に気付いた。

 小中学生の時は急に踊りだしても大丈夫だったけれど、最近はアップの有無や丁寧さで踊りのクオリティの変化を実感している。気を付けないと。


「香菜おはよう」

「おはよう」


 静佳が私の隣に座って柔軟を始める。

 彼女は入団当初から親しくしているメンバーで、一緒に行動することが多い。同い年のメンバーは数人居たけれど、全員辞めてしまった。

 二十歳になっても同じ習い事を続けている人の方が圧倒的に少ないだろうから、私達が珍しいのだと思う。


 それに踊りと言えばHIPHOPやK-POPのような、アイドル歌手やSNSでよく見かけるダンスの方が人気なので、そっちに変わってしまった子も多い。


 私が所属している舞踊団のダンスは、イメージするなら演目の団体行動や阿波踊りのような集団芸術辺りだろう。

 踊りのジャンルはモダンやコンテンポラリーを主軸に、作品テーマに合わせ色々な要素を取り入れている。

 舞踊団としては一糸乱れぬ群舞を持ち味としていて、圧倒的な『集団美』を高らかに掲げている。

 大勢で同じ振付けをピタリと完璧に合わせて踊るさまは、中華舞踊にも似ているかもしれない。


 幼い頃にテレビで舞踊団の踊りを見て好きになり、実際に生で舞台を見てからは憧れに変わった。

 小さい頃はお遊戯会で踊るのが好きだったし、バレエを習っていた姉の真似もよくしていたものだ。


 入団して今年で七年目になる。

 メンバーは年齢も性格も違う、舞踊団という繋がりがなければ関わることもないような人も多い。

 最初はなかなか慣れなくて、メンバーが変わっていくたびに怯えていた。

 今はもう、出会いと別れに慣れすぎてしまった。


「先月入ってきた子、辞めたんだって」

「あー、やっぱり」


 静佳の言葉に返事をしながら辞めた子の顔を思い出す。HIPHOPを習っている女子高生で、ダンスの幅を広げたくて通い始めたと言っていた。

 多分続かないだろうなと思っていたんだよね。


 ここで踊っていくには、別種のダンス経験は仇になることが多い。踊りの癖が群舞を台無しにしてしまうからだ。技術が高かったとしてもダメなものはダメ。



 指導してくれる先生はとにかく厳しい。

 踊りの個性にバツを付け、自己主張にバツを付け、目立つことにバツを付ける。

 だから私達は出る杭が打たれるように、何度も丁寧に矯正されてきた。

 自分らしさを出すことは決して許されず、与えられたものを完璧にこなすためのトレーニングや練習の日々。

 十三歳から矯正と教育を受けた私はそういうものだと突き進めたが、自分を捻じ曲げられることに耐えられず辞めていく人も多かった。


 私だって楽だった訳ではない。

 常に己と戦い、自信を持って踊るには練習し続けるしかなかった。学校帰りに友達と遊び、ゆるゆる楽しく習い事をしている同級生が羨ましかった。



「蕾が膨らんでから咲き誇るシーン、その後の桜吹雪を修正していきます」

「はい!」


 先生の大きな声が室内に響き、それに勝るような声量で私達が返事をする。先生の声は魔法のようだ、一言発するだけでピリッと空気が張り詰める。

 より一層背筋を伸ばしてからポジションについた。


 一人の合図をきっかけに一斉に踊りだす。自分の呼吸と周りの呼吸が重なり合い、音楽のように流れていく。

 好きだ、指先や足先、髪の毛さえもコントロールするように全身で、全力で踊ることが好きだ。

 吸いこんだ空気が体の中を駆け巡り、細胞が叫ぶように震え、感情と一緒に溢れ出していく。


 それはまるで水を得た魚のような、生き生きとした躍動感。


「ストップ。真由美、タイミングと振りのやり方が違う。もう一度」

「はい」


 斜め後ろから大きな返事が聞こえた。少しだけ声が震えている、彼女が注意を受けるのは珍しい。

 潜る前のように短く強く息を吸いこんで、もう一度同じところから踊る。

 少し踊ってはバツ、また踊ってはバツ。


「ダメ、もう一回最初から」


 自身が注意されている訳でもないのにひしひしと感じるプレッシャーは、一瞬でも気を抜くと押し潰されてしまいそうだ。

 ちらりと真由美ちゃんを見ると、表情こそ変わらないがズボンの布を強く握り締めていた。


 鋭くなる皆の息遣いは気合いであり鼓舞であり、苛立ちでもある。乱れた呼吸の中に紛れて、小さな溜息が聞こえた。

 集中しろ、このタイミングで自分が間違えるのは絶対に避けなければ。


 何度も繰り返し、やっと丸が貰えて次のシーンに進む。そうやって細かく丁寧に練習を重ね、群舞の精度を上げていく。

 少し踊って調整、シーンに違和感が出れば修正と、練習内容が尽きることはない。完成してからシーン丸ごと変わることだって、ざらじゃない。


 全身から玉のような汗が流れ、窓から差し込む西日に反射して光る。

 肌にたくさん付いた汗の雫が鱗のように見えた。

 皆の鱗が、剥がれ床へと落ちていく。



「五分休憩入れて、最初からやります」


 先生の声を聞いて散り散りに分かれ、崩れ落ちるように座り込んで給水する。壁にもたれかかると、ちょんと何かが肩に触れた。


「香菜さん、選抜部分を後で一緒に合わせて貰っていいですか?」

「うん」

「やった」


 大和君が屈託のない笑顔を浮かべる。

 群舞といえど位置によって振付けが違うこともあり、突然配役が変わることも多い。

 先程の練習でもポジションチェンジが有り、選抜メンバーから真由美ちゃんが外され大和君が抜擢された。

 彼が選抜に入るのは初めてだ。


 彼は舞踊団に来て一年足らずだが、どんな作品でも器用に踊りこなす大型新人だ。

 私が同じ高校二年生だったら絶対に仲良く出来ない。

 高い背に長い手足、私には無い武器を持つ彼に純粋な好意を向けられるほど、私は大人じゃない。


 水を飲みながら大和君を見ると、柔軟をしながら誰かを見ていた。視線の先に居るのは真由美ちゃんだ。

 彼が突き刺すような冷たい視線を向けてから、にんまりと右の口角を上げた。




 それから二時間ほど練習が続き、今日の全体練習が終了した。

 先生は室内から出て行き自主練の時間が始まる。バイトや他の予定がない限りは皆、一時間ぐらい練習してから帰宅することが多い。


「三十回も同じところを練習させられるなんてね」

「まぁ、あたし等は気を付けよ」


 わざと聞かせるようなボリュームで室内に響いてきた不協和音。

 名指しもせず、悪口を言うでもなく、でも誰でも察することができる真由美ちゃんへの批判。

 言われた本人も、そして周りも誰一人として顔色を変えずに聞き流す。


 こんなこと日常茶飯事だ、なんなら先週は彼女達が別のメンバーから言われていた。

 呼吸と同じで、するのが当たり前。

 言葉の選び方や表情で可視化できるので、どちらかと言うと陸じゃなくて海の中の気泡のよう。

 魚達から出る気泡が全部他者への文句だったら面白いかも、なんて冗談を思いついてしまう始末だ。


 私も言われたことがあるし、多分誰かに言ったこともある。心に余裕がなければ腹立たしくなることは常で、それを口に出すか出さないかだけだ。

 例え自分に身に覚えがあったとしても、お前のせいでと感じてしまうのが人間の弱さだろう。

 毎日何十回何百回と繰り返されれば少なからず歪んでいく。


 全員で完璧に美しく踊ることが正義だ。

 ミスする人を非難することは悪ではなく、努力し行動することを放棄した人が悪、ただそれだけ。

 いちいち真に受けて悪態を飲み込んでいたら、あっという間に溺れてしまう。


 輪を乱す自分が悪いのだから練習するしかない。本番の舞台の上でミスをしたら、その群舞全体の価値が下がる。

 厳しい世界だけれど、その先に揺るぎない芸術の圧倒的美がある、らしい。

 全員等しく、先生から刷り込まれたこの教えを胸に練習に励む。

 ついて来られない、納得出来ない、そんな出来損ないは弾かれ消えていった。




 四年前に一度、こんな状況に心が病んで舞踊団を辞めようとしたことがあった。

 お母さんに泣きついた夜を昨日のことのように覚えている。

 挑戦してみたらどう? という言葉に乗せられて、ダンスオーディションを受けることにした。

 舞踊団には体調不良だと嘘をついて練習を休んだ。何かをサボるのは人生で始めてで、罪悪感と恐怖と緊張で心臓が破裂してしまいそうだった。


 オーディション当日、会場の控え室に入った瞬間、頭が真っ白になった。

 軽快なステップ、挑発的な視線、主張の強い踊り。自主練をしている子達がそれぞれ主役としてスポットライトを浴びているような、そんな錯覚。

 下から這うように恐怖心がよじ登ってくる。

 騒がしい周囲の音を掻き消すように、ドクンドクンと鼓動が唸った。


 海外ダンサーのような激しい踊りをしている子も居る、しかも見た感じ小学生くらいだ。

 課題の振付けにオリジナルを加えている子も居た。

 思わず惹きこまれるような踊り方に、ついつい目がいってしまった。


 あんなふうに踊れない、どうしよう……いや大丈夫、私は他の子達よりも上手く踊れる。

 厳しい練習に耐えてきたから土台が違うし、基礎もしっかりしているし細部までこだわって踊れる。

 私なら、出来る。


 一人ずつ順番に呼ばれ、別室で試験が始まった。

 しばらくして名前を呼ばれ、大きく深呼吸してから歩き出す。

 審査員は海外でも活躍している有名ダンサー二人、特に男性の胡桃さんは実力も高く私も憧れている。

 嬉しさで自分の名を言う声が上擦ってしまった。

 一振り一振りを丁寧に、気持ちを込めて踊る。


 踊り終えて二人を見ると、胡桃さんが私の顔を見てから小さく笑った。


「君はあの舞踊団の一員だから価値があるのであって、君自身はたいしたことないね。結構上手いけど、それだけ。突き抜けた個性も魅力もない、あそこは群舞だからソロの華が無いのは分かるけど。将来に期待させるキラリとしたものも無い。残念だったね優等生」


 体験したことのない威圧感。

 ばくり、と頭から食べられたような気分だ。


 体が動かない、あれ、どうやって息を吸うんだっけ。吸ったらどうするんだっけ。こわい、ここに立っているのが怖い。

 私の踊り、何の価値もないってこと?

 そんな、上手いのに評価されないなんて、そんなのおかしい。納得出来ない。


「呆れた、自分を良く魅せられない癖に睨みつけるプライドだけはあるのかい?」

「もうちょっと優しく伝えてあげなさいよ。まぁあれね、人気グループに居た時はもてはやされていたけれど、脱退したら相手にされなくなってすぐ消えるアイドルみたいな。今の貴女はそんな感じかしら」

「お前の例えの方がよっぽど酷いだろう。自分の実力に自信があるのは良いが、慢心しないことだ。君と同じくらい上手い子は沢山居る。他の誰かと簡単に替えが利いちゃうようなダンサー、いらないよ」


 一気に全身から血の気が引いていく。下唇をぎゅっと嚙み締めて、泣くもんかと必死に堪えた。

 普段の練習で技術の指摘を受けるのとは訳が違う。悔しい、本当に悔しい。


 私には、一人で輝く資格はないらしい。



 そこで一度心がポキリと折れた。

 舞踊団でセンターを貰えることも増えたし、他の団体からも褒め言葉をいただけるぐらいで、それなりに自分の踊りに自信があった。

 ベッドに寝転びながら昨日の自主練動画を確認する。つい昨日までは満足していた自分の踊りが、途端に滑稽に見えた。


 ばかみたい。


 自信満々に踊っていたライバル達は胡桃さんと同じで、個性と魅力で自己表現するダンスだった。

 海水と淡水みたいに同じようで全然違う、だからお前には無理だと現実を突きつけられた気がした。


 学校以外の時間ほぼ全てを踊りに費やしてきた。

 家族や友達と遊ぶ間も惜しんで、ただひたむきに踊りと向き合ってきた。

 それなのに踊りにすら価値がないなんて、だったら私には何が残るというの。

 先生に沢山バツを付けられて今があるのに、今の私にすらバツを付けられるの?

 踊る意味って。


 指がスマホの画面に当たり、停止していた練習動画が再生される。

 虚しくて腹立たしくて、勢いに任せてスマホを壁に投げつけた。

 スマホは壁際に置かれた姿見に当たり、パリンと無機質な音が鳴る。鏡面の一部が床に崩れ落ち、上の方まで長いヒビが走っていった。


 あぁ、この姿見は家でもちゃんと練習が出来るようにって、お父さんとお母さんが選んでくれたのに。


「…………ばかみたい」



 あんなにも行くのが嫌だったのに、私の足は舞踊団へと向かっていた。

 何事もなかったかのように練習に参加し、体調管理に気を付けてと心配してくれたメンバーに笑顔を返す。

 価値や意味を見つけられなくても、私は踊ることを辞められなかった。


 数日後、練習後に先生から呼び出された。

 体調不良と噓をついて練習を休んだことへの言及だった。それだけじゃない、オーディションを受けたことまでバレていた。

 受けたこと自体は深く追及されなかったが、嘘をついたことに関しては厳しく注意された。


「受けるって、静佳にしか話してない」


 つまり、彼女が。

 信頼していたし、真面目でルールをしっかり守る子だから、約束も守ってくれると思っていたのに。

 それとも真面目さゆえに、ズル休みがルール違反だから先生に伝えたのか。


『香菜、最近ずっと良いポジションに居るね。今日はセンターだし、凄い!』


 数週間ほど前に静佳から言われた言葉が頭をよぎった。純粋に褒めてくれている、友達として喜んでくれている、そう思っていた。

 いつも通りの優しい笑顔。本当に?


 群舞は一人だけが目立つことなんてありえないし、構成によっては最前センターではなく後方や端が重要な時もある。

 それでもやっぱりセンターを狙う気持ちがあるのは当然のこと。

 私自身だってそうなれるように努力を重ねてきた。


 だから改めて思い直すと、彼女の発言は嫌味だったのかもしれない。笑顔の下で、お前さえ居なければと思っていたのか。

 いやダメだ、浮かんでしまった悪い考えを消そうと頭を振った。


 結局、どうしてと彼女に聞くことはできなかった。

 彼女の存在が今まで私を支えてくれたのは事実、安易に聞いてギスギスした関係になるのは避けたい。

 裏切られた悲しさよりも、嫌われたくないという気持ちの方が勝った。

 もう内緒話はしない、そう決意していつも通りに接した。誰にも本音は漏らさない、そして誰のことも信じないと決めた、十六歳の秋。




「香菜」

「お疲れ静佳」

「今日はずっと大和君と一緒に練習してたね、ヒューヒュー」

「大和君のポジションが変わったから、一緒に合わせていただけだよ」

「でも、大和君って絶対香菜に対してだけ態度違うもん。そのうち告白でもされるんじゃない?」

「あはは、大和君に失礼だって」

「えー、絶対好きだって!」


 大和君が特別懐いているのは、私が舞踊団で一番上手いダンサーだと先生に太鼓判を押されているからだ。

 選抜には必ず入り、常に一番良い場所で群舞を踊る。彼は私を引きずり下ろす瞬間を虎視眈々と狙っているだけ。

 私と仲良くすることで舞踊団での地位を上げ、私から技術を盗みたいだけで、これっぽっちも恋心なんてない。


 だって大和君、静佳と付き合っているんだから。



 今日は自炊する気が起きなくて、コンビニでお総菜を買って帰宅した。

 衣類を洗濯機に入れてスイッチを押し、風呂掃除をしてから湯船を張る。

 レンジで温めたお総菜と冷蔵ご飯を食べながらSNSをチェックした。


 大学の友達の遊びや旅行、バイトなどの楽しそうな投稿の数々。将来を見据えて人脈を広げるとか、熱心に勉強している子もいる。

 短期留学している先輩は、眩しいほどの悠々自適なステイ写真をアップしていた。

 自分も何か投稿しようかと指を動かし、止まる。


 大学で授業を受けるか練習に行くかの二択ばかりの毎日で、代り映えなんてない。

 今日もこれと言って何かあった訳でもないし……他の人と比べて投稿できることなんて、無い。

 そう思い直して投稿を辞めるのは何百回目だろう。



「私、このままでいいのかな」



 ぽたり、言葉と一緒に涙が零れ落ちた。口にした途端、ドバッと溢れとめどなく流れていく。

 踊ることが大好きで、たくさん舞台に立てて、プロのダンサーのように照明を浴びて、きっと素晴らしい日々だ。

 でもその裏で仲間のことは誰一人信じられなくて、周りは常に足の引っ張り合い。醜い嫉妬とポジションへの執着がドロドロと私達をかき混ぜていく。

 キラキラしている大学の同級生達と比べて、なんて惨めなんだろう。


 スマホの画面上に魚ゲームの広告が流れた。


 魚、魚か。こんなんじゃいつまでたっても、私はちっぽけで弱っちい魚のまま。

 今更自分らしく踊る方法も分からなければ、自分の良さも分からない。

 一人で戦える武器を持たないまま泳いでいく勇気だって無い。



 ふと、昔見たマイワシのトルネードを思い出した。あんな風に輝きたいだなんて本気で思っていた、あの頃。

 確かに間違っちゃいない、私は集団美の中で生きている。必死にもがいて、置いていかれないように食らいついて。

 憧れた美しさとは無縁で笑えてくるけれど。


「イワシって、魚編に弱いだったよね。弱いのに、いや弱いからあんなに大勢で群れてるのか」


 なんだか舞踊団の私達みたいで親近感を覚えた。

 一人では輝けず華のない弱さ、そんな子達の集まりで集団美が成り立っている。

 はみ出る子は潰されるか追い出されるから、魚群とはちょっと違うけれど。


 気付けば検索フォームを開き、マイワシのトルネードについて調べていた。

 仲間で協力して生きる彼らの美談を見るという、精神的自傷行為がしたくなったのかもしれない。

 絵本のスイミーみたいなものでしょ、教科書で習ったし学芸会で見たこともある。

 沢山ヒットした中から適当に選び、集団で泳ぐ理由を頭の中で読み上げた。



『マイワシが竜巻のように渦を巻いて泳ぐのは、敵が来た時に「自分は生き残るぞ」と我先に群れの内側へ入るように泳ぐからである。全個体が中心に向かって泳ぐため、やがてグルグルと回るようになり渦となる。群れは外側ほど食べられるリスクが高いので、内側へ隠れ紛れることで生き延びたいのだ。故にマイワシの群れにはリーダーが存在しない。自身が襲われる可能性を下げるために常に場所は変動する。水族館で見る時は綺麗に照らされ気付きにくいが、助かろうと真ん中に向かって泳ぐ過程で体がぶつかる、端に追いやられ襲われかけるなど、体は傷だらけである』



 言葉の意味を理解するのに少しだけ時間がかかった。理解した途端、口元が緩む。



「あは、あはは、ははははは! あはははははは!」



 あんなにも美しく照らされ輝いているのに、艶やかで優雅な泳ぎを魅せてくれているのに。

 本当の彼等は自分だけでも助かろうと必死に生きているだけなんだ。


 周りの犠牲なんて、知ったこっちゃあない。


 そこに自己犠牲なんてなに一つ無くて、皆で力を合わせて生き残ろうという仲間意識も無く、自分が生き残る確率を0.1パーセントでも上げたい生き物の本能だけが在る。


 生きるために周りを押し除ける魚も、その時にぶつかって押し出された魚も、運悪く外側になってしまい食われかけた魚も。

 皆が皆、傷だらけ。

 それでも今日を生き抜くために、明日を生きていくために同じように集団で泳ぎ続ける。


「私達と、おんなじなんだぁ」


 集団で一つになって戦っているなんて、そんなの絵本の中だけだったんだ。

 そんな綺麗ごとで笑っていられるほど人生は甘くない、海の魚と同じで陸の人間も命懸けだ。


 鮮やかなネオンの照明が傷さえも美しく照らす。

 衣装に隠された体の傷も、メイクと笑顔に覆われた心の傷も、だぁれも気付かないんだ。

 そしてドロドロとした感情で渦を巻いて、今日も華やかに照らされて舞う。

 踊りの世界に生き残りたいという本能が共鳴して、踊りの質感が細部まで統一され、見た人は一糸乱れぬ美に感動する。

 そう、そういうことなんだ。


 醜いから、美しい。

 だから間違ってない、やっぱり私の人生は間違ってなんかない。





 三年後、新国立劇場にて。

 開演のブザーが鳴り響き、ゆっくりと緞帳が上がる。真っ暗な舞台に上手後方から斜めに差し込む一筋の光。

 ゆらりと浮かび上がる銀色のダンサー。

 何枚も重ねられたオーガンジー素材の青いスカートが、ふわり、波打つように舞い上がる。

 舞台全体が徐々に冷たいブルーに染まっていく。黒に紛れていたダンサー達が、ドミノが倒れて現れる絵のように、瞬く間に銀色になって姿を現した。

 水面のような淡く白い照明が降り注ぎ、コポコポと海の中を思わす音楽が流れ始める。


 指先まで寸分狂わず揃えられた群舞が、舞台上を縦横無尽に泳いでいく。

 向きを変え、速さを変え、時に二つに分かれ、あっという間に姿形を変えていく。

 やがて互いがぶつかるようにして踊り狂い、強烈な緊迫感が一番後方の席にまで届いていた。


 色移りゆく光にキラキラと反射して、醜い生き様が芸術的に象られていく。

 観客は皆、瞬きはおろか息を吸うことさえ、ままならないほどに釘付けとなった。

 舞台が終わっても、拍手はしばらく鳴り止まなかった。


 それは世にも美しい鰯の乱舞。



「いやー、この年で絶句するようなダンスに出会えるなんて喜ばしいわ」

「調子いいな、見る前はあんなに馬鹿にしていたのに」

「馬鹿にしてたんじゃないの、ただ群舞ってあんまり魅力を感じたことがなかったのよね。鰯の集団美、本能が見せる醜悪さと生き様というコンセプト、抜群だわ」


 一か月前、とある舞踊団から公演の招待状が届いた。送り主は何年も前に、たった一度会っただけの哀れな子ども。一緒に送られてきた手紙を見るまでは、真っ青な顔で弱弱しく怒りに震えていた彼女のことなど忘れていた。

 思い出せたのは、手紙に皮肉たっぷりな思い出話が綴られていたから。

 何か吹っ切れたような文章は彼女が大人になったから、とは別の何かがあったのだろう。


 いつもなら断るのに出席に丸をつけて返送をしたのは、演者だけではなく公演の作者と振付けも彼女が務めていたからだ。

 まさかまだあの舞踊団に居たなんて、ばかだね。

 公演を見てシニカルな笑みでもプレゼントしてやろうと思っていた。


 彼女がどこで踊っていたか分からない。顔を覚えていないとか、他の人に埋もれているとかではない。

 指先一本の向き角度、衣装の動き方まで徹底的に統一された群舞は、狂気的なまでに繊細で完璧な踊りだった。

 それなりに揃えても、どうしても踊りの癖や体格骨格の違いで微々たる差異は出る。

手足の長さによる動きの速度の違いだって、コントロールには限界がある。


 なのに今回の公演はそれらを全く感じさせず、本当に完璧に舞って魅せた。

 誰か一人をコピーペーストしたような個の集団、そこにまったく個性は無いが、確実に全員が主役だった。

 周りを押し除けてでも生き残ろうとする我の強い主張、それを全員がやってもゴチャゴチャしない、考え抜かれた構成と技術の高さ。

 ここまで揃えるのは、ソリストが出来るような個性と魅力抜群のダンサー達では絶対に不可能だ。

 滲み出る自分らしさを隠すのは本当に難しい。



 僕は、あの日彼女に突き付けた言葉で強烈に殴られたのだ。

 あがき続けた優等生は予想外な方向へ殻を破り、成長を遂げていた。

 それは世界中の踊りを見てきて、実際にトップダンサーとして踊ってきた僕の価値観を酷く狂わせるほどに。


「ハハハ、恐ろしい女」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白野椿己 @Tsubaki_kuran0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ