幸せの儀式

波打ソニア

幸せの儀式

「新しくウワサを聞いたの」

 どういう神経で切り出したのだろうと、パフェの向こうをずるりと見上げる。恨みがましい顔だったと思う。薄い眉が八の字になり、小さな白い顔が悲しげに曇る。それでもシズクは、そこから話を仕切り直すだけのポジティブさを手に入れたらしい。

「用意が大変だけど、私たちにもできるような儀式なの。ほかの学校で試した子が、成功したんだって」

 それを聞いたとき、新しい友達がそんな風に言ったのだろう。そして同じように私に話したくてたまらないのだろう。でも、見ず知らずの誰かの雰囲気をまねていても、オカルトに胸を弾ませるいつものシズクでもある。

 迷ったけど、このまま喧嘩別れをしたら二度と会えない。もう、クラスにシズクはいないのだから。

「いいね。久しぶりに聞かせてよ、ウワサ話」

 久しぶりに、がとげになったか、かすかに間があった。でもシズクは、何事もなかったように元気に身を乗り出した。

「嫌いな人の持ち物を7つ」

 4人の顔がまた目の前をよぎってぎょっとする。

「信頼できる友達を一人、それにてるてる坊主を一つ作って、雨の日の夜に実行するの」

 気が付かなかったらしいシズクは、厳かな調子で続けている。ばくりと跳ねた心臓を落ち着けるように、そっと息をした。

「濡れた地面の上に、大きく円を描くように持ち物を並べる。その中心で信頼できる人と向き合って、てるてる坊主を持ってもらうの」

「傘はさしてていいのかな」

 ちょっとだけ笑うが、その答えはなかった。いつもの茶化しなのだ。

「そして、信頼できる人に掲げてもらったてるてる坊主の首をはさみで切るの。胴体が地面に落ちるのと同時に、不幸は全部洗い流されて、首と、首を持ってる人と、首を切った人だけがそこに残れるんだって」

「なんか、ずいぶん都合がいいね」

 思ったより露骨な内容に苦笑いが漏れる。

「要は嫌な奴を7人消してくれるってこと?雨の日を待ちさえすれば?」

「でも結構ハードだよ。嫌いな人のものを盗んだらすぐに疑われちゃうし、仕返しされるかもしれない。それに、信頼できる人に手伝ってもらわないといけない」

 かすかな音を立ててクリームをグラスからこそぎ出しながら、シズクが無邪気に答える。

「その危険を冒した人を、神様はちゃんと見ててくれるって話だとしたら、結構いい話かも」

「試したって人は、神様に褒めてもらえたって?」

 案の定、首を横に振る。唇の端にチョコがこびりついていた。

「そこはやっぱりウワサ。幸せになったらしい、どまり」

「だよねぇ」

 これもいつものオチ。いつも通りの、私たちのオカルト談義。

「あぁー!だからこっちに置けって言ったでしょ!」

 すぐ横でオレンジジュースを倒した男の子が悲鳴を上げて、お母さんが大声を出した。びくっとシズクがそっちを見る。

「あれ?何?」

「ううん。ちなみにさ、持ち物7つって決まってるの?7人も恨んでないとできないの?」

「そうみたい。まあ、神様を呼ぶくらいだし、そのくらいは?」

「アバウトだねぇ」

 てるてる坊主と7という数字がどう結びついたのかはわからない。けれど、雨を晴らしてくれるてるてる坊主が、実は生贄の話だったとか聞いたことあるし、生贄を捧げた時の話が捻じ曲がってそんな噂に落ち着いた、とかならもう何でもありになってしまう。

 こんなことも、シズクにいろいろ話を聞かされて普通に考えるようになってしまった。

「ちなみにさ、その7人って消えた後どうなるんだろう?」

「ルミは設定の外を攻めるなあ……どうだろう、神様に連れていかれるなら、罰せられるか食べられるか?」

「儀式をした人の記憶から消えるとか?」

 一瞬、シズクが痛がるような顔をした。でも、すぐに笑う。

「それいいね、幸せにしてくれるなら、そういうことかも!恨んでたことぜーんぶ、なかったことにしてくれる!」

 めっちゃポジティブな解決策、いや神に頼んで復讐してるけど、とか笑い合う。

 気味が悪いけど生活必需品並みの憂さ晴らし。ちょっと前までは、うちら二人にとっての。


「中島さぁん」

 下駄箱で声をかけられてびくりと固まってしまう。ごった返している下駄箱で邪魔くさく突っ立ってしまうのに、その瞬間私は透明人間になったみたいにスルーされる。そしてあいつらだけが私を見つける。

「おはよ」

 背の高いアヤメの声は、頭の上からゆっくり垂れてくるみたい。するりと回された腕が指先でやんわりと肩をつかむ。もう痣ができててそれだけで電気が走る気がした。

「お、はよう」

「うんうん。ねぇ、佐伯さんとまだつるんでたんだ?」

 とっさにうつむくが、大きくうなずいたようになってしまった。

 やっぱり見られていた。目も合ったのだから当たり前だ。だからシズクが住んでいる町を見たいといったのに、久しぶりに地元で会いたいとか。

 ファミレスも正直、追いかけてこられるかもと気が気じゃなかった。

 くすくすと笑う声がする。アヤメの背後のユカ、ミキ、ハナだ。でも今アヤメに肩を抱かれていると3人の姿が見えない。もっと大勢に、笑われているような気がする。誰も私たちのほうなんて見ていない、振りでもそのはずなのだ。

「あんな裏切り者ほっとけばいいのに。やさしいんだねぇ、中島さん」

 アヤメの声が優しいが、この女が私の体に優しいことはない。やることなすこと、私の毒だ。シズクがいなくなってからはとうとう暴力も始まった。

「チクリもしないで一人で転校しちゃったやつのことなんか、忘れちゃいなよ。うちらがもっと仲良くしたげるからさぁ」

ぐ、と肩に爪が突き立つ。どこの映画で見てきたやつなんだか知らないけど、本当に痛い。定規を当てたのはユカだけど、指示はこの女が出したのだ。

 仕返しされるのは目に見えている。でも、履きかけの上履きにかかとをねじ込むと、身をよじってアヤメから逃れ、階段へと飛び込む。

「中島さん!走らない!」

 担任で生活指導の大岡の声が飛んでくる。けれど無視して教室に走った。


 アヤメに目をつけられたのは偶然、というか不注意だった。もともとは、シズクのほうが先に目をつけられていて、その日も遠巻きに嫌味を言われていたのだ。

 泥棒猫とか、陰キャのくせに男好き、とか。クラスみんなが知っていた。ミキが好きな先輩が、シズクに告白したのだ。シズクはオカルト話が理解できないその人を振った。たまたま顔が好きなだけだったみたい、とのちにシズクが言っていた。

 ユカとハナはずっとシズクを吊るし上げていた。シズクは気にしていない風だったが、無視していると最後にミキが机を蹴るのがお決まりで、それはさすがに迷惑そうだった。アヤメはそんな4人を、うっすら笑いながら見ていた。

 その日も、とうとうミキが立ち上がってシズクの席に向かおうとした。それを見送ってクスクス笑うハナの後ろを通って、ロッカーに教科書を取りに行こうとしていたが、ミキの蹴りをまねて笑っていた男子が、そんな私に、気が付かなかった。

 男子の蹴った椅子が私の足に直撃した。衝撃よりもびっくりしてよろめいて、ハナにぶつかる。悲鳴を上げたハナはやっぱり驚きで、たむろしていたアヤメの杖に倒れ掛かった。その拍子に、机に置かれていたものが全部落ちた。

 アヤメのブランドペンケース。ユカのヘアクリップ。ミキの財布に、ハナのメイクポーチ。そんな女の子たちのお気に入りが、全部床に落ちた。びくっとそれを見たハナが、振りむいて私を怒鳴りつけた。私も委縮して、必死に謝って拾い集めようとしたが、机の向こう側に落ちたものに向かう道を見つける前に、ユカが全部拾い集めてしまった。

 その間にもハナに吊るし上げられる私を、後ろで男子たちはちょっと気まずそうにしながらも笑っていた。それに、アヤメが、初めて目に入った、というように私を見つめて、はっきりと微笑んでいた。


 以来、彼女たちの休み時間のターゲットは私になった。私がしてしまったようによろけたふりをして机の上のものを全部落として、拾ってあげて謝るというパフォーマンスが何度も繰り返され、メンバーが一巡した後は一つずつ物がなくなっていった。

 ある日、とうとう教科書を破られ、ちょうどその部分で音読をするように大岡に言われ、戸惑っていた時。

「先生、中島さん、教科書を濡らしちゃったみたいで。机つけてもいですか?」

 そう言ってくれたのが、シズクだった。


 それまで私が助けなかったシズクが、私のことを助けてくれた。連れてきてくれた保健室で、まずはそのことを謝って、お礼を言った。

「仕方ないよ。それに、今の中島さんのほうがひどいことされてる。というわけなんです、谷崎先生」

 保健室の谷崎先生は困ったようにため息をついた。左手の薬指に指輪が光る、もうすぐ退職する先生だった。

「まさか佐伯さん2号が出るなんて……あ、ごめんなさいこんな言い方。普段、佐伯さんがあっさり話してくれるから」

「先生、ひどーい。中島さんは教科書破られちゃったんだよ」

「ひどい。そんなことを……って、あなたももう少し心配しなさい。笑い事じゃないわよ」

「えへ、でも中島さんと机つけるの、楽しかった」

 2人の毒気のなさに、力が抜けた。シズクが無理に明るくしているのでなく、本心から言ってるらしいのもなんとなくわかったせいだと思う。

 同時に、2人はこのことを大事にする気がないことも、わかってしまった。

「とりあえず、ここに来てくれるのは構わないわよ。気分が悪ければ授業中でもね」

 もうすぐ学校をやめるから、自分はほとんど何もできない、と言われてるみたいだった。実際、もうすぐやめる先生が学校に何を言っても無駄だと思った。


 でも、思ったよりも保健室登校は楽しかった。教室に行かずに3人でおしゃべりをする。そのために課題も手早く片付いたし、アヤメたちの愚痴よりも、シズクが持ってくるオカルト話に谷崎先生と私で茶々を入れることが多くなった。それを一生懸命打ち返すシズクに、私や谷崎先生が加勢して、残された一人が途方に暮れることもあった。

 そのたびに、お腹を抱えて笑った。そうして、受験勉強が始まるまで持ちこたえれば、アヤメたちの接触も減ると、そう思っていた。

 けれど、その前にシズクがいなくなってしまった。


 私たちが保健室に逃げ込んだせいで、アヤメたちのいじめがエスカレートし、シズクの持ち物も無くなったり壊されたりするようになった。

 シズクのペンが折られていることに、お母さんが気が付いたらしい。理由を問われ、シズクは素直に話した。

 嫌がらせをされていること、同じ目に遭っている友達がいること。保健室の先生が逃げ込むのを許してくれていること、その先生がもうすぐ学校をやめること。

 それらすべてを話したとき、シズクのご両親は泣いてしまったらしい。そして、あれよあれよという間に、引っ越しとシズクの転校を決めてしまった。これはシズクにも予想外だった。

「ルミが一人きりになっちゃうよ!」

 そう言って、このまま残りたいと両親を説得した。けれど、かばってくれた先生がいなくなっては絶対にいじめっ子たちがおとなしくしていない。これ以上、娘が嫌がらせをされるのを許すわけにはいかないと、二人は譲らなかった。


「アンタも運ないよね」

 シズクの転校、谷崎先生の退職が同時に発表された集会の日の放課後、個室の上からホースで水を注ぎこみながらアヤメがそう語りかけてきた。

「つるんでた2人ともいなくなっちゃうなんてさぁ。谷崎は仕方なくても、佐伯はチクるなりなんなりすればいいのにさ」

 どうして、あんたの言うことに納得しないといけないの。その言葉が喉元まで出かかり、何とか呑み込んだ。

「ま、そんなことしたら先生たちに納得してもらえるようにもっと仲良くしてやるけどね」

 代わりに、涙があふれた。


 引っ越しや転校の準備で忙しく、しばらくシズクとは連絡が取れなかった。メッセージが返ってくるのも遅くなって、でも絶対に定期的に会おうと言ってくれた。それを信じてとうとうあの日、時間を合わせた。

 久しぶりに会えたシズク。けれど、邪魔が入ったのだ。


「じゃあ、今度はこっちの町に来てね」

 タイルに映るシズクの笑顔。今回はごめんね、という心の声も聞こえてくるようだった。

 ぶちぶちぶち。なまくらのカッターナイフが髪の毛を切れずに引きちぎっていく。

 言う通り、来てもらうようにしなくてごめん。ここから出かける機会を作れたのに、本当にごめん。その申し訳なさをにじませたシズクの表情に、ふわりとむしられた髪の毛が絡みつく。

 今度はこっちの町に来てね、あのウワサを教えてくれた友達も紹介する。さっき渡したクッキー、駅の近くのケーキ屋さんで買ったんだ。

 ぶちぶちぶち。あはははは。

 美容室も変えたんだけど、すごくいい美容師さんがいるの。今度、染めちゃおうかって言ってるんだ。アッシュ、似合うかな?

 ぶちぶちぶち。はらりはらり。

 ごめんね、中島さん。やっぱり間違ってる。大岡先生にはしっかり伝えたし、新しい保険の先生にも伝えてもらうように頼んでおいた。どうか、少しでもあの子たちと距離置いて。受験さえ始まれば、きっと落ち着く。

 谷崎先生は優しかったのでしょうが、中島さん。保健室まで来られるなら、教室にも来られるでしょう。新しい保健の先生は、しばらくお忙しくてあなたの相手もできません。教室に来なさい。

 ルミ、いい加減にしなさい。友達と悪ふざけにしても度が過ぎているわよ。

「中島さんの親ってさー、佐伯と足して2で割るのがいいよね。全然気が付かねーじゃん、もう丸刈りじゃね?」

「ユカひっどー」

「ミキも笑ったらカワイソーだよ」

 きゃはははは。


「本当にやるの?」

 当たり前のようにそう返信が来て、打ち込んであった文面を送る。

「あいつら4人、大岡先生、うちの両親。全員の持ち物は用意できる。明日、雨が降るらしいから今夜てるてる坊主を作る。あとは、信頼できる人だけ」

 既読が付くかは見ない。代わりに、一言で送りたかった言葉を打ち込んだ。

「待ってる」

 答えは見ない。あのファミレスの時と同じだ。


「あぁー!だからこっちに置けって言ったでしょ!」

 すぐ横でオレンジジュースを倒した男の子が悲鳴を上げて、お母さんが大声を出した。びくっとシズクがそっちを見る。

「やる時は、協力してくれる?」

「あれ?何?」

「ううん。ちなみにさ……」


 学校に行って、体育の時間に体調不良だと言って、保健室に行く振りをした。

 教室に戻って、アヤメのブランドペンケース。ユカのヘアクリップ。ミキの財布に、ハナのメイクポーチを鞄に突っ込む。

 保健室で新しい保健の先生に伝えて、体調が悪く、家に帰らせてほしいと伝える。おどおどした男の先生は、ほかの先生に相談しようとしたが、大岡先生に言ってありますと言えば、しばらく目をぐらぐらさせてから、気を付けてねと言った。

 この時間は上級生の授業に出ている大岡先生の机に、帰ります、のメモ書きを置くために職員室に入る。心配そうに見てくる先生に弱々しい笑みを返しつつ、さりげなく机の上の眼鏡ケースを回収した。両手でカバンを持つのに合わせて隠す。

 校門を抜けると、水を跳ね上げて駆け出した。体調不良で送り出したはずの主事さんに見られたかもしれないけど、もうどうでもよくて、家まで止まらずに駆けた。

 今日はお母さんのパートが遅番。だから、しばらく家でほとぼりを冷ませる。濡れた制服もそのまま、お父さんとお母さんの部屋に入る。そして、ネクタイと真珠のネックレスを盗み出した。

 どうせお父さんの帰りはお母さんより遅い。だから疲れて私の話にも興味ない。


 ともあれ。順調に日は暮れて、私は傘を差さずに家を出た。

 人が歩いていない夜の道。すぐに制服がずぶぬれになって全身を冷やされたけれど、わくわくと気持ちが高揚してきて熱を持った体には心地よかった。

 いつもの道を通って、いつもの校門が見える角を曲がる。春に桜並木になる暗い道の先、門のすぐそばの電灯の下に人影があった。

 ああ。もう、幸せになれた。

 シズクは本当のことを言ってくれていた。もちろんだよ、メッセージだけを抱いて、一人ぼっちになることも覚悟していたけれど。

 手を振り合いながら、久しぶりに私たちは心から笑い合った。


「懐かしいね」

 校庭の真ん中で、盗んだものを一つ一つ取り出すと、シズクがそう言った。ネクタイとネックレスは一番に投げて、大岡の眼鏡ケースにすごいと歓声をもらったあとだ。あの4人の持ち物。シズクも、覚えてくれていたのだ。

「これらがなければ、ルミはひどい目に遭わなかったけど、友達にもなれなかった」

 珍しく、真剣な調子だ。それは、私にも刺さる言葉だった。

「そうだね」

 私を置いて行ったシズク。シズクを助ける気もなかった私。被害者というと美しいけど、私たちもろくなものじゃないのかも。

「これが終わったら、今までの分幸せになれるといいね」

自分たちを中心に盗んだものを投げながらそう告げると、シズクは大きく息を吸って、

「うん!」

 なんとも元気にうなずいてくれた。

 あんまり場違いな元気に思わず笑ってしまう。いろいろ思うところはあるけれど、結局こうしてオカルトに貪欲で忠実なシズクが大好き。

  微笑みながら、昨日の夜作ったてるてる坊主を取り出した。

 シズクが助けてくれた時の、破られた教科書の残りのページを丸めて、つなげたページでくるんだてるてる坊主。すぐにぐっしょりと濡れていくけれど、シズクにはわかったらしい。

「準備が完璧すぎる」

「まあね」

 思い出の素材のてるてる坊主を手渡すと、最後、かばんに入っていたハサミを取り出した。当然心得ているシズクが目の前にてるてる坊主を掲げる。

「首から下ね」

「うん」

 今度は私が少し元気に返事して、そして、ハサミを構える。

「さあて、何が起こるかな?」

 いたずらっぽく笑うシズク。微笑み返して、かわいい顔のその下に、まっすぐハサミを突き入れた。


 がほ、と小さな唇から赤い泡が出る。手にしたハサミからぐねっと筋肉の跳ねる感触が伝わった。

「ごめんね」

 まず謝った。痛いだろうし、怖いだろうし、びっくりしただろうから。

 本当は謝ってほしい気持ちもあるけど、でもこうしたからには私のほうが悪い。

「ごめん」

 だから次にも謝った。でも、顔は笑ってしまっている。

「幸せで、ごめん」

 きっと、これからも楽しく過ごすことができた。新しい世界に出会いながら明るくなっていくシズクを見ながら、私も元気をもらって生きる方法が。

 でも、いやだ。一緒に頑張っていたシズクが一人で元気になって世界を広げて、つらかった日々を忘れていく。

 私とのつながりを、忘れてしまう。それが、耐えられない。

 うちらって、いつから仲良くしてたんだっけ?そんなこと言われた日には、きっと。

 だから、シズクはもう、ここで永遠になってもらう。永遠に、私の中でのシズクのままで、一緒に生きる。刑務所に入っても、世間からつまはじきにされても、シズクが私の中にいてくれるのなら大丈夫。

 今、シズクは私の手に入る。

「今、私、すっごく幸せ。本当に、ごめんね」

 見開かれた瞳がきゅっとすぼまる。力が抜けた手から思い出のてるてる坊主がころりとこぼれて足元を目指す。

 きっと、地面につくと同時にシズクは。そんなセンチメンタルな情景を待っていた私は。


 足元の地面に水音を立てて吸い込まれた。

「え」

 重力を見失った瞬間、そんな間の抜けた形に開いた口からごぼごぼと泡が吐き出される。今落ちたばかりなのに、水面は見えない。ぬかるんだ校庭にいたのに、どこまでも澄んだ水の中で周りに漂う人達がはっきりと見えた。

 お父さんとお母さんが呆気にとられたように直立のまま沈んでくる。大岡は、学校にいるときのジャージ姿で机に座っているような姿勢で固まっている。反対側にはアヤメ、ユカ、ミキ、ハナ。4人ともスマホを握っていて、思い思いくつろいでいた姿勢から重心を失って暴れ始めた。

「謝らないで」

 目の前にシズクが現れた。ハサミを引き抜いて、水底に捨てる。その顔には鱗が現れた。髪が真っ白になって、いつの間にか制服が消えている。裸の胸にも鱗がびっしりだ。それに白いお腹の下は、足が消えて胴体がその真下へと伸びている。水の遥か底へ。

「きっかり8人、連れてこれた。ルミのおかげ」

 どうしてシズクが話せるのか。その姿は何なのか。

「仲間に与えてこそ、私ももらうことができる。初めてのササゲモノが、ルミたちでよかった」

 何を言っているのかわからない。いつもと違って、わからせてくれる気もない。

 ただ、もがいているアヤメたちやお父さん、お母さんの後ろに、ふっと陰が差した。

 シズクと全く同じ、脚のないものたち。お母さんくらいの年の顔もいれば、小学生みたいな男の子の姿の者もいる。みんな、鱗の肌と水底に伸びる胴体をしている。

「私たちは“みんな”で一つ」

 みんなが捕まる。シズクの“みんな”が、みんなを抱きすくめ、その首元へとかみついた。水の中が真っ赤に染まる。私にはシズクしか見えなくなる。

「雨の日にしかここには入れない。“みんな”で助け合って、みんなを食べて、ようやく上の世界に出られる」

 私にも、背後から誰かの腕が巻き付く。がしり、と抱きすくめる細い女の人の手。

「ルミ、殺してまで一緒にいてくれようとしてくれたから、本当は私が食べてあげたい。でも」

 根元でつながる9匹の、鱗を持つ蛇のような体。シズクがいつか、教えてくれた。

「忘れないよ、ルミ。私たちの一部になって。いつかこの姿で一緒に、私の住む街を見に行こう」

 ああ、引っ越していく友達のテンプレじゃない。

「ずっと、友達だからね」

 お願い。シズク。いつもの顔で笑って。

 今この時だけ、いつもの顔に戻って笑ってよ。

 手を伸ばそうとした私の首は、一口に噛み千切られた。

 さっきのてるてる坊主みたいに体を離れた首がふわりと浮き上がって水面を目指したけど、容赦ない力が捕まえて引き戻す。


 ああ、儀式をやったのは。幸せになったのは。


 わかったところで、私のすべては無に帰する。

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