中の魚

あげあげぱん

第1話 起

 ムツゴロウの群れが道路を渡っていた。どこかにある故郷を目指して。


 一か月前。


 七月になったばかりのころ。僕は父の寺で何をするでもなく、ぼうっと過ごしていた。


 父は僕に寺を継ぐことを強いてはこない。その役目はきっと長兄が勤めるだろう。僕は小さなころから、そう思っている。


 ある若い女の人が寺を尋ねてきたのは、そんなころのことだった。若い、と言っても、その人は大学生くらいに見えて、高校生の僕よりは大人に見えた。


「ごめんください」


 寺の軒下で足をプラプラさせていた僕に、彼女は「ごめんください」と言った。彼女の方に顔を向けると、その整った顔がほのかに緩んだ。よく見れば、いやよく見なくても、つやつやとした黒髪の美しい人だ。


「寺田住職を尋ねてきたのですが」

「ああ、それなら僕の父です」

「住職は中におられますか?」

「玄関の方に上がってください。父を呼びますから」


 彼女は言われたとおりに寺の玄関へ向かい、僕は父を読んできた。彼女と父の二人は前から合うことを決めていたようで、二人はそのまま寺の奥へ行ってしまった。


 僕はまた軒下へ戻り、足をプラプラさせながら何をするでもなく、のんびりと過ごしていた。そうするのが好きだったし、山中にある田舎町では、暇を潰せるようなところも、ほとんど思いつかないからだ。


 そのうち、父を尋ねてきた女性は寺を去っていった。その日にあったいつもと違うことは、それくらいのことだった。


 翌日、僕は日の当たる気持ちの良い自室で勉強をしていた。受験勉強というやつだ。今の僕は高校の二年生だが、三年の冬なんてあっと言う間にやって来る。それまでに出来る限り、頭に知識を詰め込むのだ。そうして、頭の中が煮詰まった時は寺の軒下でのんびりと過ごす。それが僕のライフサイクルだった。


 その時、寺の玄関をノックする音がした。初めのうちは父か兄のどちらかが出るだろうと思っていたのだが、ノックは止まない。どうやら父も兄も出払っているようだった。


 仕方が無い。と思いながら、僕は急いで玄関に向かう。そうして扉を開けた先に立っていたのは昨日見た若い女性だった。僕がぺこりと頭を下げると、彼女も同じように頭を下げる。そういえば、僕は彼女の名前を知らない。


「寺田住職はおられますか?」

「いえ、居ません。けど、そのうち戻って来ると思います。中で待っていますか?」


 僕が聞き返すと彼女は「そうね」と言って頷く。


「そうさせてもらいます。ええと……」

「寺田シンです」

「そうなのね。私は陸奥セイカ。セイカと呼んでね」


 そう言って彼女は僕へはにかんだ。いつの間にか、彼女の口調はくだけたものになっていた。そうしてくれた方が僕としても話しやすい。


「セイカさんですね。上がってください」

「ええ、お邪魔します」


 セイカさんを居間へ案内し、麦茶とクッキーを持ってきた。彼女は居間をきょろきょろと眺めていた。畳と座卓と座布団だけの部屋がそんなに新鮮だろうか。


「お茶とお菓子を持ってきました。よければどうぞ」

「ありがとう。いただくわ」


 麦茶を呑む彼女を僕は観察する。夏だというのに、シャツの上にカーディガンを羽織っている。昨日見た彼女は半袖だったはずなのだが、なにやら妙だ。


「……熱くはありませんか?」


 どうしても気になってしまい、彼女にそう尋ねてしまった。建物の中はエアコンが効いていて、それでも寒いというほどではないから、カーディガンを脱いでもおかしくはない。


「これは……日光を防ぐため……というわけでもないのだけれど」


 セイカさんはためらうようなそぶりを見せてから「あなたに相談してみるというのも良いかもしれないわね」と言った。そして彼女はカーディガンを脱ぎ、その腕にはっきりと存在するそれを僕に見せた。


「これを見られるのが嫌だったの。なんだか、気味が悪いでしょう?」


 彼女の両腕には、黒い点々がいくつもあった。それは、はっきりとした黒色で、小さなぶつぶつのようにも見えた。ほくろではない。と、いうよりは何かの悪い病気を思わせるようなものだ。もしくは魚卵を想像させた。


「……病気、と呼ぶものではないと思うの」

「では、なんなのですか?」


 その時の僕にはそう訊き返すのが精一杯だった。彼女は「なんなんだろうね」と困ったように笑う。


「私の故郷……生まれた村にずっと存在するものなの。これまで、多くの人がそうなるのを見てきたわ」

「多くの人が……」

「ええ」


 セイカさんは困ったように肩をすくめた。


「私の父も、母も、同じようなことになって、居なくなった」

「居なくなった?」

「そう、居なくなったの」


 彼女は「居なくなった」という言葉を使った。それはいったいどういう意味を指すのか、その時の僕にはまだ分からない。分からないことばかりだ。


「ねえ。シン君」

「なんですか?」

「君にも、私の村の話をしてあげる。君のお父さんにもした話だけど、君の意見を聞いてみたいと思ったから、私の話を聞いてほしいの」

「……良いですよ。聞かせてください」


 僕は彼女の話に興味があった。それに、当時の僕は彼女が抱える苦しみを真の意味では理解していなかったから、軽々しく話を聞かせてくれなどと言うことができたのだ。


「それじゃあ……私の話を聞いてね」

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