第20話

 ――わたし何してんだろ。


 三奈はうんざりした気持ちで珈琲の香りに包まれた古典準備室の椅子に座っていた。


「高知さんはブラック飲める?」


 給湯室の方でそんな声がする。三奈はため息を吐いて「ガキ扱いしてんの?」と答えた。


「ブラックくらい飲めるし。てかむしろブラックしか飲まないし」

「そう。良かった。この珈琲ね、ブラックの方が美味しいから」


 そう言いながら松池が嬉しそうにトレイにマグカップを二つ乗せて給湯室から出てきた。そして「どうぞ」と三奈の前に一つを置くと、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。まるで友達が我が家に遊びに来たといわんばかりの様子だ。


「先生さ、ちゃんと先生しなくちゃダメじゃない?」

「え?」


 不思議そうな表情で彼女は首を傾げる。三奈は眉を寄せて「なんで授業サボってる生徒を誘って一緒に珈琲飲んでんの? 暇なの?」と松池を睨んだ。彼女は苦笑する。


「でも、わたしが教室に残ってる高知さん見つけなかったら他の先生が見つけてお説教だったよ?」

「お説教するのが正解なんじゃないの?」

「そうかもしれないけど、せっかくだし」


 彼女はそう言うと美味しそうに珈琲を飲み始めた。三奈は呆れた気持ちで彼女を見る。なにがせっかくなのか意味がわからない。

 目の前に置かれたマグカップからはフワフワと香ばしくて良い香りがする。手が冷えていたのでカップを両手で包み込んだが温かいどころか熱すぎて持てそうにない。仕方なく取っ手を持って一口飲んだ珈琲はあまりにも苦い。


「美味しいでしょ?」


 微笑みながらそんなことを言ってくる松池に三奈はため息を吐いて周りに視線を向けた。

 ここはどういうスペースなのだろう。周りは半透明のパーティションに囲まれていて、出入り口から直接こちらを見ることはできない。簡易的な応接用なのだろうか。

 考えていると「これね、御影さんがこうした方がいいって言うから」と松池が言った。


「美桜が?」

「うん。ここ使ってるのわたしだけになったから最近よくサチと一緒にお昼を食べてるんだけど、なぜかその様子をこっそり撮ろうとする生徒がいるみたいで」

「ああ、これって盗撮避けのためなわけね」

「え、高知さんも知ってるの?」

「知ってるも何も――」


 以前は空き教室で昼食をとる二人の姿がクラスのグループラインでもよく流れていた。そういえば最近は盗撮画像を見なくなった気がしていたが、これのおかげだったようである。


「先生、人気あるからね」

「うん。サチは人気者だもんね」


 嬉しそうに笑う松池を三奈は信じられない気持ちで見つめた。


「……マジで言ってんの?」

「え、なにが?」


 三奈はため息を吐くと「なんでもない」とテーブルに頬杖を突いてスマホを開いた。美桜のおかげで充電は満タンだ。


「それで、高知さんはどうしてサボってたの?」

「体操着持ってくるの忘れた」

「そう……。あ、そういえば昨日は早退してたよね。もう大丈夫なの?」

「大丈夫じゃなかったら来てない」

「それはそうだね。えっと……」


 ――めんどくさい。


 三奈は深くため息を吐くと「聞きたいことあるなら聞けばいいじゃん」と言った。


「え?」

「まわりくどい。めんどくさい。うざい」


 三奈は言いながら視線を松池に向ける。彼女は「そうだね」と笑みを浮かべた。


「大丈夫かなと思って」

「何が?」

「んー、何だろう。日常?」

「は?」


 思い切り眉を寄せると彼女は「柚原さんがね、ちょっと心配してたから」と言った。


「余計なお世話」

「うん。柚原さんも下手に関わると噛まれるから気をつけろって言ってた」

「じゃあ、放っておけばいいじゃん。噛むよ?」


 三奈の言葉に松池は「うん、でも」と薄く微笑んだ。


「さっき教室で見た高知さん、淋しそうに見えたから……。だから一緒に珈琲を飲みながらお喋りしたいなって」

「……あっそ」


 三奈は呟くとスマホをテーブルにおいてマグカップを両手で持った。熱かったカップは今は程よい温度で温かい。


「……先生はさ、あの人のことまだ好きなの?」

「え、なに突然」

「先生が希望したお喋りのパートだけど?」


 すると松池は困ったような表情で「サチには言わない?」と小首を傾げた。


「言うわけないじゃん。わたしがあの人と個人的に会話なんてすると思う?」

「たしかに」


 彼女は笑うと小さく頷いた。


「好きだよ。今でもすごく」

「……しんどくないの?」

「しんどいに決まってる。でも、そのうちこの気持ちは変わるんだって信じてるから」

「なんで? あの人のこと嫌いになる予定でもあるの?」

「まさか」


 松池は目を見開くと「でも、親友にはなれると思ってるから」と穏やかな表情で続けた。


「親友、ね……。じゃあ今の関係は?」

「え?」

「先生にとってあの人との今の関係って何?」


 三奈の問いに彼女は少し眉を寄せて考え込む。そして「サチはきっと、わたしのこと友達と思ってくれてる」と呟くように答えた。


「あの人から見た関係じゃなくて先生から見た関係を聞いてんだけど」

「……失恋しても続いてる片思い、かな」


 そう答えた松池の表情はなぜか穏やかだった。苦しそうでも悲しそうでもない。ただその事実を受け入れているような表情。それが三奈には理解できない。


「それ自覚しててあの人の近くにいるの、辛くないの?」

「辛いよ。でも大丈夫」

「なんで?」

「柚原さんにたくさん話聞いてもらってるから」

「ああ……」


 たしかにあの人なら無限に話を聞いてくれそうな気がする。そしてきっと思わせぶりなアドバイスなんてしているんだろう。松池は単純そうだからそれを真に受けて今の気持ちがどうにかなるなんて思っているに違いない。


「そのおかげで少しずつだけど気持ちの整理がついてきたような気がするの」

「へえ。よかったね」

「全然感情がこもってないなぁ」


 松池は苦笑すると「高知さんは? 気持ちの整理」と続けた。


「無理」

「前も同じこと言ってたね」


 でも、と彼女は心配そうに眉を寄せた。


「あの時よりも辛そうな顔してる」

「気のせいじゃない? いつも通りだし」

「いつも通りの高知さんは授業サボらないでしょ?」


 三奈は答えず、松池から視線を逸らしてテーブルを見つめた。


「わたしの前ではウソつかなくてもいいのに」


 思わぬ松池の言葉に三奈は「は?」と思わず視線を上げる。彼女は考えるような少し難しい表情で「えっと、だってね。わたしは高知さんの気持ちを知っているわけだし――」と続ける。


「わたしの気持ちも高知さんは知ってるでしょ? それはもはや何でも知ってる友達のようなものじゃないかと思うのだけど、違いますか?」


 なぜかぎこちない口調の松池を三奈は眉を寄せて見つめる。彼女は緊張した面持ちで「その、つまり」と視線を泳がせながら言葉を探している。


「わたしには何でも話してくれても大丈夫っていうか」

「なんで?」


 三奈は松池を睨む。すると彼女は迷うように視線を彷徨わせてから「友達になりたいから」と続けた。


「え、嫌だけど」

「え……」


 松池は目を見開き、そして悲しそうに俯いてしまった。三奈は深くため息を吐く。


「先生と生徒じゃん。友達なんて無理」

「そんなことないと思う。わたしと高知さんだったら」


 同じ穴のムジナとでも思われているのだろうか。それは間違っていないかもしれない。三奈だって思ったのだ。松池は自分と同じはずだ、と。しかし――。


「……先生、人の話を聞く余裕なんてないでしょ」

「それは――」

「わたしって先生よりは人間関係の偏差値高いし、先生に頼らなくても全然平気」

「本当に?」


 そう言った松池の声は真剣だった。彼女は三奈を見つめてくる。その整った顔に見つめられると少しだけ気後れしてしまう。あるいはまっすぐすぎる気持ちのせいだろうか。

 返す言葉が思いつかずに黙っていると松池は毅然とした表情で「高知さん、友達いないでしょ」と言った。


「いや、いきなり失礼じゃない? いるよ。普通に」

「たしかにいるように見えるけどいないでしょ? こういうこと話せる友達」


 いない。三奈には美桜以外の友達なんていない。いや、美桜にだって本心を話せない。だから実質、友達なんていないのだ。だが松池には柚原がいる。だから同じような境遇でも松池は耐えられて自分は耐えられない。


 ――ああ、そういうことか。


 三奈は笑みを浮かべる。


「無理しなくていいよ、先生」

「え?」

「どうせ頼まれたんでしょ? あの金髪の人にわたしの友達になれとかなんとか……」


 松池は少しだけ言葉に詰まったが「たしかに頼まれたのもあるけど」と微笑む。


「本当にあなたと友達になりたいと思ってる。だって高知さんはわたしのこと避けたりしないし、普通に何でも話せるから」

「ふうん」


 たしかに松池と話しているときは気楽だ。それはきっと三奈も松池に自分を重ねているからだろう。彼女になら本心を話しても大丈夫かもしれない。そう思う瞬間もある。彼女にすべてを話して……。


 ――話して?


 そしてどうする?

 何が変わる?

 気持ちが少し楽になる。楽になった先はどうする?

 松池のように気持ちが変わるのを気長に待てというのだろうか。それがいつになるのかも分からないのに。


 ――無理でしょ、そんなの。


「先生とわたしは違う」


 三奈は松池を見つめながら言った。


「先生とわたしは似てるかもしれないけど違う。先生があの人に対する想いとわたしが美桜に対する想いは違う」

「高知さん……」

「わたしは自分の気持ちが変わるまで好きな人の友達であり続けるなんてできない。こんな気持ちで美桜とこのままずっと友達でいるなんて、できない……」


 自分以外の誰かにあんな笑顔を向ける美桜を隣でただずっと見続けるなんて、きっともうできない。でも――。


「美桜以外の友達はいらない」


 瞬間、松池はなぜかとても悲しそうに眉を寄せると立ち上がった。そして三奈の隣に立つと腰を屈め、泣き笑いのような表情を浮かべて三奈を抱きしめた。


「わかってる? 言ってること矛盾してるよ?」

「――わかってる。バカにしてんの?」

「してないよ」


 ぜんぜんしてないよ、と彼女は優しい声で言った。松池の身体は温かくて柔らかい。美桜とは違うけど良い香りがする。


「どうするつもりなの?」

「知らない」

「先生にできることはある?」

「ない」

「先生、頼りにならないかな」

「ならない。全然ならない」

「そっか」

「でも――」


 ありがとう、と口の中で呟いた言葉は松池に届いただろうか。彼女は三奈の背中を優しく撫でながら「うん」と頷く。


「泣いてもいいよ?」


 松池の柔らかい声を聞きながら三奈は「誰が」と顔を俯かせながら笑った。


「この状態なら誰か来ても顔は見えないから大丈夫だし」

「この状態、誰かに見られたら先生クビじゃない?」

「そうかも」


 しかし、それでも松池は優しく三奈の背中を撫で続けてくれる。まるで幼い子を落ち着かせるときそうするように。


 ――ガキ扱いして。


 しかし、不思議と嫌ではない。いつもみたいに苛ついたりもしない。ただその温もりが心地良かった。


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