第18話
「高知さん。五限の授業終わりましたよ」
そんな声に目を覚ました三奈はもぞりと布団から顔を出した。
「ちょっと、本気で寝てたの?」
木坂は呆れたような表情を浮かべると「髪ボサボサよ」とベッドのカーテンを開けていく。ぼんやりする意識のまま三奈は身体を起こすと、手櫛で髪を軽く整えてから「メイクは?」と木坂に聞く。彼女は三奈の顔を覗き込むと「そこまで崩れてはないけど」と曖昧な返事をした。
「あっそ。じゃ、いいや」
「いいの?」
「いい。もう帰るし」
「六限は?」
「出ない」
「でも鞄は教室でしょ?」
たしかに取りに行かなくてはならない。三奈は少し考えてから電源の入っていないスマホの画面で自分の顔を確認した。木坂の言う通りメイクが崩れているというわけではない。しかしそれとは別の問題が一つ。
「――最悪」
目元が腫れてしまっているのだ。まさか泣きながら寝ていたなんて言えるわけもなく、三奈は俯いて目元に手を当てる。するとスッと視界にタオルが差し出された。
「とりあえず冷やしなさい」
受け取ったそれはひんやりと濡れていて冷たい。顔を上げると木坂はすでにデスクの方に戻っていた。彼女は「先生が鞄持ってくるから」とパソコンを閉じる。
「え……?」
「自分で取りに行くならそれでもいいけど」
三奈は「いや――」と呟くと眉を寄せた。
「いっそのこと置いて帰ろうかと思ったけど」
「定期とか入ってるんじゃないの?」
「そうだけど。バス代くらいならスマホでなんとかなるし」
「無駄におこづかい使う必要はないでしょ。目元を冷やして待ってなさい」
彼女は当然のようにそう言うと出て行ってしまった。直後にカランと扉の向こうで音が聞こえた。おそらく外出中の札を掛けていったのだろう。
「……あの人、良い奴じゃん」
思わず呟いて笑ってしまう。そして冷たいタオルを目元に押し当て、そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。
木坂とは今までまともに会話をした記憶はない。サボりに来ていた頃も適当にウソをついて昼寝して戻っていただけ。それでも担任に報告するでもなく怒るでもなく何も言わないのでやる気のない教師なのかと思っていた。しかし違ったようだ。
――何も聞かないんだ。
ただ三奈の気持ちを察して動いてくれた。それが大人なのだろうか。それとも教師だからだろうか。どちらにしても今この場所にいたのが他の誰でもない木坂で良かったと心から思う。
「どうしようかな……」
もうまともに美桜と接することができそうにない。彼女の顔を見ると辛くなってしまう。作り笑いすらできないかもしれない。ウソもつけないかもしれない。そんな余裕が今の三奈にはきっと残っていない。
バタバタと廊下を走る足音が複数聞こえた。休憩時間の騒がしさが少し耳障りだ。三奈は深くため息を吐いて湿ったタオルの重みをただ受け止める。そのとき、ガタッと扉が音を立てた。そしてゆっくりと開いていく音。
――鍵はかけてなかったのか。
中に生徒がいるのだから鍵をかけないのは当然か。しかし外出中の札がかかっているはずなのにどうして入ってきたのだろう。思ってから、もしかして美桜が来てくれたのだろうかと期待した自分に気づいて三奈は嫌悪感に唇を噛みしめた。
――もし美桜だったらどうしよう。
しかしそんな不安は「あの――」という声を聞いて安堵感に変わっていく。
「高知さん、あの、いますか?」
おずおずとした声は金瀬のものに間違いない。ベッドのカーテンは閉まっていないので部屋に入ればそこに三奈がいることはわかるはず。
「見てわかんない? いるけど」
「ですよね」
聞こえたのはなぜか安心したような声だった。そして近づいてくる気配。三奈はタオルを顔に乗せたまま「何しに来たの」と言った。
「えっと、お礼に」
「は?」
てっきり様子を見に来たとでも言うのかと思ったのだが予想外の答えだ。彼女は「スキーの班に入れてくれてありがとうございました」と言った。
「……いまそれ?」
「昨日、言いそびれてしまったので」
「別に礼を言われるようなことじゃないでしょ。わたしは頼まれたからしょうがなく入れただけ。当日もあんたに構う気ないから」
「はい。ありがとうございます」
相変わらず会話が成り立たない。三奈は深くため息を吐いた。
「ところで、あの……」
「なに」
「それ、何ですか?」
それ、とは十中八九タオルのことだろう。三奈はため息を吐いて「見て分かんない?」と答える。
「タオルですね」
「そうだよ」
「どうして目を隠してるんですか?」
三奈は答えず、片手を挙げて額に乗せた。ふわりと空気が動いたのを感じる。金瀬が移動したのだろう。
「さっきスキー班に入れてくれたのは頼まれたからって言ってましたけど、御影さんに頼まれたから入れてくれたんですか?」
三奈は眉を寄せる。今さら何を言っているのだろう。あの場に彼女もいたのだからわかっているはずだ。しかし彼女は「先生に頼まれたからではなく?」と続けた。
「なんでわたしがあいつの言うことなんか聞かなきゃいけないわけ」
「あいつって、明宮先生のことですか?」
「他に誰がいるの」
「先生のこと嫌いなんですか?」
「あんたに関係なくない?」
「先生の言うことは聞かないけど、御影さんの言うことは聞くんですね」
「何が言いたいの? 当然でしょ。美桜はわたしの――」
「高知さんの?」
「……親友なんだから」
その言葉がこんなにも空虚に感じたのは初めてだ。『親友』という言葉に、今はもう何の意味も感じられない。
「親友……。ほんとに?」
「は?」
「だって高知さんが御影さんを見る表情は、なんていうか、親友に向けるようなものじゃないような気がして――」
その瞬間、三奈は反射的にタオルを手に取ると身体を起こして金瀬の声がした方へと投げつけた。バンッと重たい音が響く。そしてバサッとタオルが床に落ちる音。
ベッドのすぐ目の前に彼女は立っていた。思い切り投げたタオルは、どうやら至近距離で彼女の顔に命中してしまったらしい。金瀬は顔を押さえながら心から驚いたように目を大きく見開いていた。
「あ、あの……。すみません」
顔を押さえ、戸惑った様子で謝る彼女を見ながら三奈はドクドクと脈打つ胸を押さえた。頭に血が上っているのが自分でもわかる。目の前の光景が揺らいでいるような気すらする。
ダメだ。ここで取り乱してはダメだ。彼女が言うことなんて笑って受け流せばいいだけ。いつものように。
三奈は口から息を吐き出しながら「あんたに――」と言葉を探す。
――いつもみたいに笑って流せばいいだけ。
「あんたに何がわかるの!」
考えていることと飛び出した言葉は全然違う。三奈は混乱しながら口で荒く呼吸を繰り返し、震える両手を自身で握りしめた。
ダメだ。これ以上はダメだ。こんなの自分らしくない。こんな自分はダサい。ちゃんといつもみたいにヘラヘラ笑ってウソをつかないと……。
そのときガラッと扉が開いた。ハッと金瀬がそちらに視線を向けたのと同時に「札、見えなかった?」と木坂の声が聞こえた。
「あなたは二年生?」
「はい。金瀬です」
「金瀬さん、ね。どこか具合が悪い?」
「いえ」
金瀬は答えながら視線を三奈に向けてくる。
「高知さんのお友達?」
「……同じクラスです」
木坂は三奈をチラリと見てから「申し訳ないけど高知さん具合が悪いの」と三奈の鞄をデスクに置いた。
「ムリをさせたくないから保健室に用がないのなら教室に戻ってくれる? もうすぐ休憩も終わりますよ」
「……はい。すみませんでした」
金瀬は掠れた声でそう言うと俯きながら保健室を出て行った。三奈もまた俯きながら口で呼吸を繰り返す。視線の先に映るタオルを見つめていると、それを木坂が拾い上げた。
「これ、もしかして投げたの?」
「投げた」
「あの子に当たった?」
「たぶん、顔に」
「……あとで様子を見てくるから気にしなくても大丈夫よ」
「気にしてない。あいつが悪い」
「そう」
木坂はそれだけ答えると三奈の肩を軽く押した。その反動で三奈は崩れるようにベッドに腰掛ける。
「落ち着くまでいていいから。授業中に帰りなさい。あなたが帰ったあとで明宮先生にはわたしから言っておきます」
「なんて言うつもり?」
「体調不良で早退。それだけ」
それを聞いて三奈は顔を上げた。木坂はもうこちらを見ていない。気づくといつの間にか三奈の横には鞄が置かれてある。
「……先生ってさ、良い奴だよね。たぶんこの学校の先生で一番」
「あなたはこの学校の生徒で一番不器用ね」
三奈は「やっぱさっきのナシ」と眉を寄せた。
「教師はみんなうざい」
「そんなうざい教師から一つだけ言わせてもらうけど」
「認めるんだ」
「不器用を拗らせると辛いだけよ」
「は?」
「あなたはもう少し自分を捨ててみたらどう?」
「……なにそれ」
「考えなさい」
「うざ」
「教師ですからね」
それで会話を終了とばかりに木坂はパソコンを開いて作業を始めた。三奈は彼女の背中をぼんやり見つめながら考える。
――捨てろって何を。
柚原からは自分に優しくしろと言われた。そして木坂からは自分を捨てろと言われる。しかし結局どうすればいいかというところは教えてくれない。
大人は嫌いだ。何でも知ってるぞと言うような顔でさも何か的を得ているかのような言葉を使って惑わせてくる。それが本当かウソかも三奈にはわからないのに。
チャイムが鳴った。騒がしかった校内が次第に静かになっていく。三奈は小さく息を吐くと鞄を持って保健室を出た。
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