第10話

 美桜の風邪は長引いているらしい。結局、三日間学校を休んで土曜日を迎えていた。


「それで、もう平気なわけ? 風邪」


 三奈は美桜の部屋でクッションの上に座りながら聞いた。美桜はいつもと変わらない様子で頷く。


「さすがに三日も休めばね。熱はすぐ下がったし。通話でも言ったでしょ。お見舞いに来てもらうほどじゃないって」

「平日に来れなかったからその分。こんな場所、学校帰りに気軽に来れないし」


 三奈は言いながらテーブルにコンビニで買った期間限定のスイーツを置く。


「これ食べて」

「なにこれ。見たことない」

「期間限定のパフェ。けっこう人気みたいでタイミング悪かったら出会えないやつ」

「そうなんだ? ていうか一つしかないけど」

「一つしかなかった」

「半分こする?」

「しない。美桜の見舞いに来たんだから美桜が食べなよ」


 三奈の言葉に美桜は少しだけ首を傾げた。そして「わかった」と立ち上がるとキッチンに向かう。


「コーヒー淹れるけど三奈も飲むよね」

「コーラは?」

「ない」

「じゃ、いらない」


 しかし美桜からの返事はない。三奈はキッチンに立つ彼女の背中を見ながら小さくため息を吐いた。

 見舞いに来るつもりはなかったのだ。この部屋に良い思い出はない。

 美桜の気持ちを縛って自分は空回って、挙げ句の果てにはあの柚原という女に怒鳴り込まれた。それでもあのときの自分は精一杯だったのだ。美桜を引き留めたくて。

 三奈は視線を壁に向ける。相変わらずこのアパートには美桜とあの人しか暮らしていないようだ。いや、犬もいたか。昼間はよく寝ているらしく今は静かだ。


「はい、コーヒー」


 ぼんやりと壁を見つめていると目の前にマグカップが差し出された。三奈は視線を美桜に向ける。


「いらないって言わなかったっけ?」

「言った」


 それでも美桜がマグカップを下げないので三奈は仕方なくそれを受け取る。


「今日、あの人は仕事なんだってね」

「なんで知ってんの?」

「松池先生が言ってた」

「ふうん。松池先生と仲良いんだ? 三奈」

「別に」


 昨日、帰り際にたまたま会った松池がなぜか嬉しそうに報告してきたのだ。明日は修学旅行の打ち合わせ会議で土曜出勤なのだ、と。

 最近、松池は三奈を見つけるとよく話しかけてくる。単純に気軽に話せる相手が欲しいだけなのか、それとも別の意図があるのかよくわからない。


「帰りはあの人とご飯食べるんだって張り切ってたよ、松池先生」

「そっか」


 美桜は穏やかな笑みで頷きながらテーブルの向かい側に座った。そしてパフェの蓋を開けて一口食べる。


「え、おいし。三奈も一口食べなよ。これめちゃくちゃ美味しいよ?」

「いらない。甘いのあんまり好きじゃないし」

「……そうだっけ?」


 きょとんとした表情で美桜は三奈が持つマグカップに視線を向ける。


「砂糖とミルクめちゃくちゃ入れなきゃコーヒー飲めないのに?」

「それとこれとは別」


 三奈の言葉に美桜は軽く笑ってコーヒーを一口飲む。そして「で?」と三奈を見つめた。


「何かあった?」

「別に何も」

「ふうん」


 美桜は三奈を見つめたまま「三奈さ」と続けた。


「わたしにウソは通じないって覚えてる?」

「……覚えてない」


 言いながら三奈は額に手をやって眉を隠した。美桜は笑う。


「ちゃんと言ってよ、三奈。何かあった?」

「――あの人、いつ学校辞めるの?」


 三奈の言葉に美桜は目を丸くして「え、先生のこと?」と呟いた。三奈は頷く。


「他にいないじゃん」

「なんでそんなこと?」


 三奈は少し迷ってから「最近さ」とマグカップに視線を向けながら言った。


「みんなが美桜のこと探ろうとしてる感じがあって」

「探る? わたしを?」

「そう。美桜に彼氏でも出来たんじゃないかって噂が出始めてる」

「へえ……」


 美桜は無表情に頷く。三奈はそんな彼女に視線を向けながら「そのうちバレるんじゃないの? 今のままだと」と続けた。


「美桜、教室であの人を見るときの顔とかいつもと違うしさ。普段、先生と話したりなんかしないのにあの人とだけすごい喋るじゃん。そのうち誰かが気づくよ。いくら鈍くても」

「そっか」


 美桜は穏やかに微笑みながら頷いた。三奈は目を見開く。


「そっかじゃなくて、わたしの言ってる意味わかってる?」

「うん、わかってるよ」

「わかってないでしょ」

「わかってる。ごめんね、三奈」


 三奈は思わず眉を寄せる。


「なんで謝るの」

「きっとわたしが休んでるときにそういう話になったんでしょ?」

「そうだけど」

「そっか……。ごめんね。ありがとう、三奈」


 美桜はまるですべて分かっているとでもいうような表情で三奈に礼を言う。

 実際、分かっているのだろう。その話題が出たとき三奈がどんな態度を取ったのか。三奈は唇を噛んで俯いた。


「謝るくらいならちゃんとして」

「うん」

「隠すんだったらもっとちゃんと隠して」

「うん、そうだね。気をつける」

「あの人にもちゃんと言っといて。美桜に悪い噂が立つくらいならさっさと学校辞めろって」


 すると美桜は笑って「それは言えないかな」と困ったように首を傾げた。


「なんで。前に言ってたじゃん。あの人、学校辞めるみたいだって」

「うん。そのつもりだったみたいなんだけど、引き留められちゃったらしくて。あと一年は契約延長だってさ」

「……なにそれ。うちらが卒業するまでいるってこと?」

「だね」


 美桜は嬉しそうに笑った。三奈は眉を寄せながら「辞めればいいのに」と呟く。


「三奈」

「はいはい。ごめんごめん」


 ――でも、ほんとにそう思ってる。


 そう言ったら美桜はどんな顔をするだろうか。怒るだろうか。それともすべてを見透かしたような顔でまた礼を言うのだろうか。

 あの人がいなければバレることもない。あの人がいなければ自分にだって美桜を守ることができる。しかしあの人がいれば美桜があの人を見る視線に、あの人に笑いかける表情にどんな気持ちがあるのか分かってしまう人がきっと出てくる。そうなってからでは遅いのに。

 三奈はため息を吐くと「帰る」と立ち上がった。

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