第1話 揺れる息吹

人間が頭を空っぽにできるのは、どんなときだろうか?

何もせずぼーっとしているときだろうか?

布団の中で眠りに入る直前だろうか?

教科書を一言一句違わず読むだけの教師が展開する授業中だろうか?

きっと、そのどれも当てはまらない。

人は何もしまいとして、何もしないでいる。

動くまいと考えて、動かないでいる。

人の意志が最小になるのは、単調な作業を無意識に繰り返しているときだ。

例えば、歩いているときとかーー。


片方の足を持ち上げ、前方の地面を踏みつける。

今度はもう片方の足を持ち上げ、前方に降ろす。

そんなことを考えながら歩くのは、初めての経験だった。

顔にびっしょりとかいた冷汗を拭いながら、身体を前に傾けて懸命に歩く。

体全体の火照り、節々の痛み、目の奥に走る異常な鈍痛がひしめき合っていた。

風邪などひいたことのない僕は、それらの諸症状に新鮮な印象すら抱いていた。


顔を上げて周りを見渡してみると、かすむ視界一面に緑色が広がっている。

平らに開けた地面を背の低い草が埋め尽くしていた。

目的地が近いことを感じ取り、僕は農道の端に腰掛けた。

最後の水を飲みほしたのは何日前だっただろう。

急激に眠気を感じて上半身の力が抜けると、いとも簡単に体が半回転し仰向けに倒れ込んだ。

目を閉じて、最初に浮かんでくるのはムトの顔だった。

出発する前、二・三日で戻ると言ってしまった。

彼は器用だが繊細なところがある猫だ。

新しい飼い主くらいは探しておいてやるべきだっただろうかーー。


次に目を覚ましたとき、僕の目に映ったのは生い茂る葉と目の前に転がっている丸い果実だった。

薄い黄緑色に黒い縞の入ったその果実に魅入られたように、僕は自然と手を伸ばしていた。

口元に引き寄せて、皮に歯を突き立てる。

わずかに染み出た汁を必死の思いで啜った。

苦みと酸味が詰まった汁が、舌を濡らす。

後方から近づいてくる足音に気が付いたのは、そのまま皮を食いちぎって実を食べようとしていたときだった。


***


僕は、塔の上階の窓から外を見ていた。

いつもと変わらない白い天井が見えることに失望し、ため息をつく。

「あれ?三森?」

「何してんの?こんなとこで」

「塔の3階から上は入っちゃダメって言われたでしょ」

お前こそ。

「私はほら、巫女だから」


空を見てたんだよ。ここから。

「空?三森ってそんな信心深かったっけ?」

「教団の年寄り連中みたい」

別に祈ってたわけじゃない。

なあ、空の向こうに何があるか知ってるか?

「空の向こう?何それ?」

「空の上はずっと空でしょ。本気で救世主様でもいると思ってんの?」

あの上には本当の空があるんだ。

「本当の空って、それこそおとぎ話じゃん」

「そんなこと、教団の人に言ったら何されるか分からないよ」

「でも、そっちの方がロマンチックかも」

ロマンチック?

「うん。ウチの教義よりそっちの方が好きだな、私も」


「じゃあさ、三森が見せてよ」

え?

「ほら、ここの屋上からジャンプしてさ。神話みたいに」

……。

「って本気にしないでよ。ほら、早く降りるよ」

……ああ。


***


夢から覚めたとき、最初に僕を出迎えたのは鼻を刺すツンとした匂いだった。

身を起こそうとしたところで首に違和感を覚え触ってみると、白い繊維状のものが巻き付いている。

上半身を起こすと同時に、関節に残る鋭い痛みに顔をしかめた。

僕は見覚えのない和室に敷かれた布団に寝かされていた。

直近の記憶をなんとか探ろうとするも、鈍く重い頭痛にシャットアウトされる。


「あ、起きた?」

ふすまが開いて顔を出したのは、先ほど昔の夢で見たのと同じ女性だった。

当然ながら、15歳当時の彼女とでは雰囲気が異なるのだが。

「はい。これ飲んで」

一度ふすまの向こうに引っ込んだ彼女は、すぐに戻ってきて錠剤と水の入ったコップを僕に手渡す。

僕は素直にそれにしたがい、喉に走る痛みに戸惑いながらも錠剤を水で流し込む。

それと同時に、スイッチを入れて点滅し始める蛍光灯のように記憶の断片がよみがえってきた。

僕はあの畑からすぐ近くの家屋に運び込まれたのだ。

彼女自身の手で、半ば引きずられる形で。

「熱はだいぶ下がったけど、しばらくは安静にしてること」

「……ありがとう、夕月ゆづき

かすれた声で礼を言うと、彼女は黙ってうなづいた。


夕月は中学3年生のときの同級生だ。

同じ彼天教の信徒の家系だったこともあり、親同士の付き合いもあった。

転校生だった彼女と過ごした時間は1年だけだったが、彼女に対して特別な気持ちを募らせていたのを覚えている。

中学を卒業して以来会っていなかったが、作業着姿の彼女は以前より髪が短くなり落ち着いている印象を抱いた。

「ここ、夕月の家なのか?」

「そう。教団から借りてんの」

彼女のくだけた態度に少し安堵する。

もしかしたら僕のことなど覚えてすらいないのではないかと危惧していた。

「ウチの畑で何してたの?」

「……行き倒れてただけだ」

「こんな辺境までわざわざ歩いてきて?」

「夕月に会いに来たんだ」

彼女の淡々とした態度のおかげか、自分でも驚くくらい素直にその言葉が出てきた。


「何の用で?」

普通ならばドライに聞こえる彼女の物言いにも、僕の胸には懐かしい暖かさが広がった。

彼女はいつだって素直で真っすぐな対話を好んだ。

「……」

「まあ、いいよ。言いたくないなら」

僕が言葉に詰まっているうちに、彼女は立ち上がって部屋から出ていこうとする。

「あんたが傷物にした瓜の分だけ働いたら、さっさと帰ってもらうから」

僕はその時の味を思い出して吐き気を催し、慌てて水を飲み干した。


***


「これ、何の植物?」

目の前の鮮やかな緑色の植物を眺めながら、夕月に尋ねる。

土が盛り上がった長方形の一角にぎっしりと生えている。

「ネギって野菜」

「ネギ?」

「昨日、あんたが首に巻いてたやつ」

僕の脳内に、すぐさまあの時に嗅いだ匂いがよみがえる。


夕月が人里離れた田舎で農業に従事しているらしいことは知っていた。

聞いていた通り、周りには田畑以外には街灯ひとつ見当たらない。

僕の体調はといえば、昨日一晩で熱は平熱に戻ったものの関節や喉の痛みは残っていた。

とは言っても、何もない部屋でじっとしているわけにもいかず、手伝いを申し出たのだ。

「はい、これ」

夕月が二本抱えていたスコップの片方を手渡される。

「ここから一本ずつ掘り出していって。私は反対側から行くから」

「……ああ」

スコップの先端を突き刺してみると、土は乾燥していてかなり硬くなっている。

これは重労働だなと思っている内に、向かいの端では夕月が手際よく土を掘り始めていた。

見よう見まねでスコップを地面に突き立てて、力を込める。

しばらく悪戦苦闘していると、土の中から白い繊維が見えてきた。

「ある程度掘ったら、手で引っこ抜けるから」

彼女の言葉にしたがいネギの根本を掴んで引っ張ると、土がぼろぼろと崩れて簡単に抜けた。

その快感を覚えた後は、しばらく収穫に夢中になっていた。


長方形の一辺を掘り終えたところで、一度スコップを置いて地面に座り込む。

その間にも夕月は土を掘り続けて、僕の三倍ほどのネギを積み上げていた。

「なあ、夕月はこんなところで何してるんだ?」

「見たら分かるでしょ。農業」

彼女の口調は、手を動かしながらも相変わらず淡々としている。

「こんな土地も畑もお前の両親が持ってたわけじゃないだろ」

「教団からもらったの。私の希望で」

「ウチの教団ってそんなに気前良かったか?」

「私のお役目は知ってるでしょ?」

「……まあ」

僕は心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われ、それ以上の言葉を継げなかった。


彼女の言うお役目とは『人柱』のことだ。

夜明けの日を前に、塔の下に人間を埋めて救世主に祈りを捧げる。

文字通り、人間を魂の柱とする儀式だ。

人柱に選ばれてすぐに、彼女は家族から離れることを選んだ。

移り住んだこの場所についても、彼女の家族には秘匿されていたのだ。

「これから死ぬ人間の言うことなんて、だいたい通るものでしょ」

「……夕月は納得してるのか?」

「何が?」

「人柱になることに」

彼女は僕の言葉に答えず、黙々とスコップを動かす。

いたたまれなくなった僕は立ち上がり、彼女に背を向けた。

ふと、農道を歩く人影が目の端に映った。

僕がそちらに向き直ると、その男はこちらに向けていた視線を逸らして歩く速度をわずかに上げる。

僕は『やはり』と思いながら、その背中を見送った。


ありってね」

「蟻?」

いつの間にか手を止めて座り込んでいた夕月がポツリとこぼし、僕は振り返った。

「蟻って傷口の縫合に使えるんだよ」

彼女の手元に目を凝らすと、親指と人差し指の間で小さな黒い塊がうごめいていた。

彼女の顔は先ほどまでと異なり、寂しさと切なさが浮かんでいる。

「切り傷にあてがって噛みつかせて、胴体だけをねじり取るの」

「アリは一度嚙みつくと離さないから」

「あとは、傷がふさがった後に残ってるアリの頭を外して完了」

そう言うと、彼女は指先の黒い塊を押しつぶした。

「そういう使い方もあるんだよ。命って」


***


街灯のない農道の夜は、自分の住んでいるところとは全く種類が違っていた。

夜目が効く僕でも、目を凝らさないと自分の身体すら不明瞭だった。

鼻から血が流れる感覚を覚え、何度も拭う。

子どものケンカすら経験のなかった僕には、顔面を殴られた感覚は新鮮だった。

夕月の家にたどり着く前に、血が付いているであろう上着を投げ捨てる。


家の中では物音ひとつ聞こえなかった。

夕月がいる寝室につながるふすまの前に座り込んで、息を整える。

「まだいたの?」

ふすまごしに彼女の声が聞こえた。

「夕方から見なくなったから、勝手に帰ったんだと思ってた」

「……頼みがあって、来たんだ」

鼻血でうまく呼吸ができず、ときおり深く息を吸う。


「生きてほしい、夕月に」

「お役目から逃げて、生きてほしい」

「……なにそれ?」

「私のお役目とあんたは関係ないでしょ」

いつもの淡々とした口調で彼女の言葉が返ってきた。

「僕、代行者になるんだ」

「塔の上で約束した通り、僕が空を見せる」

「だから、生きてほしい」


「……勝手なこと言わないで」

「そんなの、あんた一人の勝手な夢でしょ」

長い沈黙の後、彼女は涙声に変わった。

「お役目をもらってから、私はずっと準備をしてきた」

「自分の死に場所と役割は、あの塔の下で死ぬことなんだって」

「ずっと言い聞かせて」

「この場所でいろんな命と向き合って、自分に言い訳するだけの時間を過ごして」

「無理だよ。もう遅いよ、今さら。生きるなんて無理だよ」


「夕月」

僕は努めて明るい声で呼びかけた。

「死ぬのは、いつでもできる」

「空を見て死のう。本当の空を」

「同じ時、同じ場所にはいられないけど、同じ空を見て一緒に死のうよ」

僕は彼女がむせび泣く声が止むのを待って、言葉を継ぐ。


「空が本当は何色か知ってる?」

「本当の空は、青いらしい」


***


「何の用ですか?先生」

ある朝、僕は担任教師と並んで登校していた。

もちろん、互いに示し合わせてのことだ。

「代行者とは個人的に会わないのが原則でしょ」


「三森、ケガは大丈夫なのか?階段で転んだって聞いたが」

「まあ、ちょっと骨にヒビが入ってたくらいで」

僕は自分の鼻先を撫でながら答える。

「お役目に支障はないんだろうな?」

「……大丈夫ですよ」

「今後は気を付けます。話はそれだけですか?」

「人柱が逃げた」

彼は、意図的に僕の言葉に被せるように切り出した。


「一週間前から行方不明になってる」

「はあ」

僕は、心の機微を悟られないように気のない返事をする。

「お前もよく知っている人間だろう」

「中学で同じクラスでしたからね」

「教団としても信頼を置いていた巫女だった」

「人を見る目がなかったんですね」

そう言うと、初めて先生が僕の目を見た。

僕は無意識に歩くペースを上げていた。


「お前、何か知らないか?」

「なんで僕が?」

半笑いで言葉を返しても、彼は硬い表情を変えなかった。

「彼女には複数の見張りが付いていた」

「そいつらは一晩の内に何者かに縄で縛りあげられていた。声を出せないように口も塞がれて」

「脱走を手引きした者がいる」

僕は小さくため息をついた。

「もう一回聞きますよ?」

「なんで僕が?」

「見張りの一人が『お前と背格好の似た男だった』と」

「『もみ合いになり何度か顔面を殴った』とも言ってる」

「それだけで僕だと?」

「容疑者にはなる」

「僕じゃないです」

僕は今日初めて彼と目を合わせた。

「……分かった」

「それを聞きたかっただけだ」

言葉とは裏腹に、彼の表情はより険しくなっていた。

彼は歩く速度を上げて、遠ざかっていく。

「これは独り言だけどな」

「俺がかばい切れることと、そうでないことがあるぞ」

その後も彼は何事かぼそぼそと喋っていたが、聞き取ることはできなかった。


「何の話?」

彼が曲がり角の向こう側に消えていったところで、少し離れて着いてきていたムトが声を掛けてくる。

「さあね」

僕はわずかに速くなっていた心臓の鼓動を落ちつけてから、また歩き出した。

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虚空をつかむとき 桐林才 @maruhito

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