パラレルワールドクライシス
針間有年
第一章
第1話 日常
知られてはならないからだ。
そうしているうちに、自分に起こる全ての出来事が他人事のようにしか思えなくなった。
一人にならないと実感できなくなった。
ただ、理解者はいた。
いつも隣にいてくれた
人間ですらなかった。
黒い心臓を持つ化け物だ。
***
「今日の授業も実に退屈だった。そう思わないか、悠馬?」
悠馬はあくびをしながら頷いた。
うつらうつらとしていた授業のことなど、あまり覚えていない。
隣に立つ高梨亜里沙が満足げに口角を上げる。
午後五時半の急行電車は込み合っている。
出入り口付近を陣取らないと気がすまない亜里沙だが、小柄な彼女は他の客に押しつぶされがちだ。
彼女の壁になることが電車の中での悠馬の使命だ。
亜里沙はいつも通り窓に張り付き、車窓を楽しんでいる。
「見ろ、悠馬。木々が色づき始めている。紅葉の季節だ」
この後、続く言葉を悠馬は大体察している。
「今年も紅葉狩りに行こうじゃないか。計画は任せたぞ」
目を輝かせる彼女の頼みを悠馬が断ることはない。
特に断る理由もないからだ。
それに、亜里沙は言い出したら聞かない性格の持ち主。嫌だと言ったところで、駄々をこねられるだけだろう。
亜里沙がリュックのサイドポケットから小さなメモ帳を取り出す。毎日持ち歩いているせいで、少し薄汚れている。
「今週末は紅葉狩り、と」
スケジュールとTODOリストを兼ねているのだとか。
中身は一度も見たことがない。
一度、落としていたのを拾っただけで、軽い突きをくらった。地味に痛かった。
『まもなく
車内放送が流れ、列車がスピードを落とす。
県内有数のベッドタウンである吉駒駅は乗降者数も多い。
二人は押し出されるようにホームに降りる。
改札に定期をかざすと期限が表示された。そろそろ定期の更新時期だ。
「ちょっとお金をおろしてくるよ」
「じゃあ、ボクはコンビニに行ってくる」
悠馬は亜里沙と反対方向に歩き出し、駅に設置されたキャッシュコーナーに向かう。
三か月分の定期代をおろし、ため息をついた。
今月も父から振り込まれる仕送り。
高校生が一か月に使う額ではない。
これが父なりの贖罪という訳か。
瞳に宿った陰がATMの片隅に取り付けられた防犯鏡に映る。
悠馬はそれをぼんやりと見やった。
暗い感情が湧いたとて、どうも自分事とは思えない。
定期代を封筒に入れる。
定期は明日買おう。
そう決め、キャッシュコーナーを出ると、亜里沙が駆け寄ってきた。
「見てくれ。サツマイモチップスが世に出回り始めたぞ!」
秋季限定のお菓子を両手に持ち、騒ぐ亜里沙を見ると自然と頬が緩んだ。
きっと、瞳の陰は消えているのだろう。
他人事のようにそう思った。
「どれ、気を利かせて悠馬の分も買ってきたぞ」
「いくらだった?」
「今日はボクのおごりだ。共にサツマイモを堪能しようじゃないか!」
駅構内のベンチに走り込み、亜里沙は背負ったリュックを膝に置く。
さっそくお菓子の袋を開けようとする亜里沙に悠馬は告げる。
「時間」
「え?」
「ケーブルカー、出るよ」
駅の吊り時計を指さすと、亜里沙はぎょっとしたように目を見開き、立ち上がる。
手にお菓子の袋を握ったまま、いそいそと歩き出す。
「サツマイモは帰ってからのお楽しみという訳か……」
「サツマイモは逃げないから大丈夫だよ」
「逃げるかもしれないじゃないか!」
「逃げないよ」
吉駒駅から徒歩三分で吉駒山ケーブルの乗り場に到着する。
その古びた駅は未だに電子カード非対応だ。
十一枚つづりの回数券を一枚切り離し、車掌に渡す。
緑と白の古びた車体がホームで待っていた。
この先、二駅しかないケーブルカーを使う客なんて限られている。
車内にいるのは皆顔見知りで、悠馬は軽く会釈する。
亜里沙はそんな悠馬に眉をしかめ、ずんずんと奥に進み、最後尾の定位置に腰を落ち着けた。
手に持ったお菓子を一瞥し、顔を上げて悠馬に視線を移す。
食べたいのだろう。
だが、悠馬は首を横に振る。
手を口に添え、亜里沙の耳元でそっと囁いた。
「駄目だよ。この前怒られたでしょ」
「――っ!」
亜里沙の手のひらが悠馬の頬を力強く押した。
「痛いんだけど」
「悠馬が悪い」
亜里沙はそっぽを向いてしまう。
どうやら、何か気に入らなかったらしい。
亜里沙の心はよく分からない。
いや、自分の心模様すらあやふやな悠馬に分かるはずもなかった。
加えて亜里沙は近所でも有名な変わり者。
「ボク」という一人称も、その硬い口調も、少年のようなベリーショートの髪型も、あの閉鎖的な土地ではかなり浮いていた。
ベルが鳴り響く。
ケーブルカー出発の合図だ。
車体が大きく揺れ、吉駒山を登りだした。
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