第8話 新たなる敵地へ

 忍び返しとは槍の穂先を取り付け、城壁を登ってくる敵の侵入を阻止する装置。高知城天守に全国唯一残ってる。

 高知城にアレックスと凜は向かった。


 高知城は、高知県高知市にある日本の城。瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとして、鷹城とも呼ばれる。


 高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高45m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。


 戦国時代以前には大高坂山城おおたかさやまじょうまたは大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。最初の築造時期は南北朝時代。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は1588年(天正16年)、岡豊城おこうじょうからここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。


 長宗我部氏は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに翌1601年(慶長6年)、山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、1603年(慶長8年)に本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年(慶長16年)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていた。3層6階の天守は、一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれる。一豊により河中山城と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。


 江戸時代初期の建物は1727年(享保12年)の大火でほとんどが焼失し、1753年(宝暦3年)まで四半世紀かけて再建され、現存天守は1749年(寛延2年)造と推測されている。


 高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られていて、又天守と本丸御殿が両方現存する唯一の城である。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れて天守、本丸御殿、追手門など15棟の建造物が現存し、全て国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。


 城全域は高知公園として無料で開放されているが、天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料となっている。城の周辺には高知市役所、高知県庁、高知地方裁判所、高知地方検察庁といった行政・司法機関が立ち並び、高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。


 また、城内には一豊と妻の千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。予算の関係で二の丸御殿、三の丸御殿、鉄門等と言ったこれ以上の木造復元計画はない。


 

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