第100話 留学前夜


いよいよ明日は留学に出発する日。


我が家のピアノはすでに昨日空輸した。




専門の輸送業者さんと、調律師さんを呼んで、極力ピアノに負担が少ないように。

厳重な梱包でぐるぐる巻きにして、ちょっとやそっとじゃびくともしないようにして。


先生にもアドバイスをもらいながら、配送も先生御用達の業者さんを使わせてもらった。



ピアノがなくなったピアノ室はがらんとしていて、寂しげな部屋だった。



向こうで暮らすのは先生の家なので家具類を全く持って行かなくていいのがありがたい。



ピアノがない家にいてもすることはないので、大学に行き、久々に練習室の主になることにする。


練習室のピアノは久々にやってきた主を歓迎するかのようによく鳴った。

ガンガンに音を響かせると、ピアノが喜んでいるような気がする。

そんなふうにガンガンに音を鳴らしていると、何事かと練習室の防音扉の小窓を覗く人が増えてきた。




「この練習室も使いにくくなっちゃったな…。」


ピアノをガンガンに鳴らしているのでその呟きを聞いている人は私以外にはいなかった。



暑さが猛威を振るう8月。

クーラーを効かせて、早朝から弾き始めたが、弾きすぎたせいか気温のせいか体が熱くなってきたので少し休憩。




「クーラー効かせてるのに暑いよ。ちょっと汗かいちゃった。」




そこで大事なことを思い出した。




「あっ!!!!!ひなちゃんに明日から留学すること言ってない……!!!」




これはまずい。


すぐさまメッセージアプリでひなちゃんに会いたい、話があると伝えて呼び出す。

幸いにもひなちゃんは大学にいるらしく、すぐに連絡がついた。

夏休みなのに、大学来てるんだ…。




荷物を速攻で片付けて、楽譜をバッグに詰め込んで、急いで待ち合わせ場所に向かう。




ひなちゃんと集合したのは大学近くのカフェテリア。

穴場的な喫茶店で、大学近くなのに、知り合いや見たことある人と会ったことがない。


奥の4人がけの席で1人ひなちゃんを待っていると、レトロなドアベルの音がした。



「あっ、ヒロくん。」


「こっちこっち。」


ひなちゃんが席に着いたところで私はアイスコーヒーを、ひなちゃんはロイヤルミルクティーを注文した。


「こんな喫茶店あったんだね。」


「うん、穴場でしょ。

私も手書きで楽譜作る時とかこの店のこの席よく使うんだ〜。」


私はいつも、今座っている一番奥の窓際4人掛け席を使っている。

奥の狭いところって落ち着くんだよね。



「確かに集中できそう。」


そんなふうに世間話をしているとひなちゃんが核心に触れる。


「それで?どうしたの?」


「実はさ。」


「うん。」


「私アメリカに留学するんだ。一年。」


「あら!いいじゃない。いつから?」


「……。明日。」


「へぇ〜明日。




あした!?!?」

そりゃ驚くよね。

ここまで何回も一緒にご飯行ったり遊んできたし。

仲良しだったもんね。



「そう、明日。」


「なんでもっと早く言ってくれなかったのよ!」


「一緒にいすぎて、言うの忘れてて…。」


「もう本当、サイテー。」

返す言葉もございません。


「ごめんって〜…。」


「まぁでも言ってくれたので許そう。

突然いなくなっちゃうよりはね。」


なんとかなったか…?


「ありがとう。」


「で?どこに留学?」


「ニューヨークのジュリアードだよ。」


「へぇー!私でも聞いたことあるような音大!」


「まぁでも3週間か1ヶ月に1度は帰ってくる予定だよ。

家の管理もあるし。みんなにも会いたいし。」



「そうなのね。じゃ一年まるきり会えないってわけじゃないのか。」


「そうですね。」


「よかった、それなら待てそう。」


「?待つ?」


「一年ほったらかしにされて、もう会えませんって言われたらね。

流石に気が長い私でもどっか行っちゃうよ?」


やべえ、キュンとした。

これは技術点高い。


「そう言われたら、ますます会わないわけにはいかないね。」




何がますます会わないわけには行かないねだ。

偉そうにすんなよ?私。

結論も出さずになぁなぁの関係のぬるま湯に浸ってるくせによぉ!

せめてもっと可愛げのある返事せんかい!

と、思っているので許してほしい。




「だから、帰ってくる時は教えてね?

ご飯作って待ってるから。」


やべえー、何もしがらみなかったら絶対落ちてた。

でも普通の大学生だったらこんな風に仲良くなれてないんだろうなと思うと少し複雑。


「お願いします!」

出も全力でご厚意には甘える。


「はい、かしこまりました。でも寂しくなっちゃうなぁ。」



「そう?」


「うん。だって私にいろんなこと教えてくれて、

いろんなところに連れてってくれた人と一年も離れ離れだよ?

この一年何を楽しみに生きればいいのかしら…。」




「そっかぁ。じゃあニューヨーク呼んだら来てくれる?」


「絶対行く。」


呼んだら来てくれる?の、「き」のあたりで返事された。

食い気味というか食ってたな。


「じゃ向こうの生活が少し落ち着いたら呼ぶね?」


「首をながぁ~くして、お待ちしております。」




そのあと、解散の運びとなったのだが、ひなちゃんは居心地がいいのでもう少しここでゆっくりするのだと。






「じゃまたね!」



「うん!明日お見送り行くね!」


幸祐里とひなちゃん、実季先輩のバッティングは避けたいところだったが背に腹は変えられない。


「ありがとー!」






~~〜〜〜〜side 望月緋奈子~~~~~~




ヒロくんは帰った。


私はまだ店に残ってると伝えた。




私はうまく笑えてただろうか。


私はちゃんと彼のチャンスを喜べてただろうか。




留学って。


いいけどさ。


もっと早く言ってよ。


私だって心の準備あるんだよ。




これまで普通に会えてた大好きな人に、そう簡単に会えなくなっちゃうんだよ?




そんな簡単なもんじゃないよ。


割り切れないよ。






これまでの彼との思い出が自然と思い出される。


初めて手を繋いだ日。


一緒に食べたご飯の味。


ロシア旅行。


飛行機の中でこっそりハグしたこと。




涙止まらなくなってきちゃったよ。




見かねたマスターがロイヤルミルクティーのおかわりをくれた。


甘いミルクティーが少ししょっぱい。






彼にはどっかいっちゃうなんて言ったけど、行けるわけない。


私にたくさんのたのしみを教えてくれて、たくさんの刺激をくれた彼以上の人なんているわけない。


惚れた弱みと言いますか…。


一年長いなぁ。




頑張ってお金貯めてニューヨーク遊びに行こう。

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