第50話 先生との邂逅
今、私は、ピアニストとしての大先輩、そして、プロとしての大先輩と2人きりでお茶している。
胃が痛い。
さてさて、それでは私がどうしてこうなったのかというと…。
「先生が…。」
「ん?先生がどうかしたんですか?」
「契約済ませたら家に来いって…。」
「えぇ…。」
その瞬間、中田さんの額に汗が浮かんだ。
「藤原様、契約書類等は、サインしていただくだけの状態にしましてお家にお持ちいたしますので、どうぞ弓先生のご用件を優先なさってください。」
「えっ、そんな悪いですよ、丸投げなんて。」
「別に先生も鬼じゃないんですから、そんなこまかいことでぐちぐち言いませんよ?」
「いえ、その。
大人の事情と申しますか…。」
額の汗がどんどん増える。
ハンカチで拭いても拭いても溢れ出る。
たちまち薄いブルーのハンカチが濃いネイビーのハンカチに変わる。
「まぁ。そこまでいうなら…。」
「わかりました…。」
「あの、くれぐれも、弓先生にはどうかよろしくお願い申し上げます。」
中田さんの深々としたお辞儀に見送られ、ショールームを後にする。
「なんだろうね、先生。」
「さぁ?なんですかねぇ。
あ、先生のお家どこです?」
「先生のお家はねぇ、ここ。」
実季先輩がスマホのアドレス帳で、弓先生の住所を教えてくれた。
港区のショールームから車を走らせること30分。
閑静な高級住宅街の中に、一際豪華で瀟洒な洋館が現れた。
「すごいお家。」
「私も小さい頃からよく来てて、あんま気にしてなかったけど、改めて今見るとすごいね…。」
車で門まで行くと巨大な門が自動的に開いた。
疑問はただ一つ。
ピアニストってそんなに貰えるの…?
のみだ。
駐車場に車を止めると、お手伝いさんらしき人が館(あえて家と呼ばずに館と呼ぶ。)から出てきてご案内してくださった。
だだっ広い応接室に案内されて、家主の登場を待つ。
その応接室にもピアノがあったのはさすがだと思う。
メーカーはあのアメリカ生まれの竪琴マークで有名な例のやつだ。
パタパタというスリッパの足音が聴こえてきて、やっと家主の登場だ。
「こんにちは。」
鈴を転がすような声音とはこのことを言うのだろうか。
ご挨拶のために向き直ると、とても華奢で素敵な、いかにもピアノの先生といった雰囲気の方が立っていた。
「先生お久しぶりです!」
「初めまして、藤原と申します。
本日はありがとうございます。」
「実季ちゃんはこの前のレッスン以来ね!
ちゃんと練習してるか、後でチェックするからね!」
「はひぃ!!」
「藤原君ははじめまして、ピアニストの弓です。
今日はちょっとお話をさせてもらいたくてきてもらったの。」
「お話ですか…。」
「先生、レッスン室お借りします!」
「はーい。
彼女、今からレッスンするからってウォーミングアップしに行ったわね…。」
「そうなんですか…。」
ここで、先程のお手伝いさんが紅茶とお菓子を持ってきてくれた。
「先にお茶にしましょうか。」
「恐れ入ります、いただきます。」
ここで会話が切れてしまって、2人が紅茶を飲む音しか聞こえなくなってしまった。
そして冒頭に戻る。
(気まずいっ!非常に気まずい!
お家を拝見するに、かなり高名なピアニスト様にあらせられるのは明白ッ!
その高名なピアニスト様と2人きりでしかも会話がないッ!
さて、どうする。
どうする藤原吉弘!
次回、藤原、死す。)
「そんなに緊張しなくていいわよ。
ただの近所のピアノの先生くらいに思って頂戴。」
先生がニコッと笑う。
上品だ。
「あ、いやぁ、そんな…(無理だ、そんな気安く接することはできない…!
現に今紅茶の入ったカップを持つ右手の震えは一向に止まる気配がない…。
ソーサーに置くときもカチャカチャカチャカチャと音を立ててしまった…。)」
「今日ね、藤原君にきてもらったのは、ほんとにお話がしたかっただけなのよ。」
「そ、そうなんですか?
あ、ピアノありがとうございました、ファツィオリのセミコンの、中が銀のやつにしました!」
「あらそう。
あれは私が選定したピアノだからいいピアノだと思うわ。
私もセミコンがいいと思って、手配したのよ。
フルコンはやっぱりホールで引いて初めて真価が分かるものだから。
小規模のサロンコンサートくらいまで対応できたら十分だと思ってセミコンにしたの。」
「えっ!選定してくださったんですか!
ありがとうございます!!!!」
楽器の選定とは、サックスから本格的に音楽を始めた私にとって非常に馴染みが深い。
要は、工場から出荷されたばかりで、まだ眠っている状態の楽器を少しだけ起こして、どんな人に向いているのかをプロがプロの目線で選んでくれる制度があるのだ。
管楽器では特にポピュラーで、楽器を買うときに顧問に相談すると大体プロが選定してくれる。
そして、楽器自体も、間に学校が一枚噛むだけで結構値引きしてくれる。
「どういたしまして。
あの楽器、まだきちんと眠りから覚めてないから、どんどん弾きこんで、育てていくのよ?」
「はい!ありがとうございます!」
そう、楽器も生き物なのだ。
サックスの時は、それはもう嬉しくて嬉しくて、
たくさん息を吹き込んで、最低音から最高音まで毎日毎日飽きもせずひたすらにずっと吹き込んだ。
今ではもう完全に私の癖が染み付いているので他人ではまともに吹きこなせないだろう。
先生は、ピアノも同じでたくさん弾きこんで、世界に一つだけの自分のピアノに育てなさいと言っているのだ。
「さて、本題に入りましょう。」
「はい。」
「あなたは、ピアノでご飯を食べていくつもりですか?」
「はい!」
「あら?
えらく覚悟が決まった声を出すのね?」
「はい、私の中でここ数ヶ月、いろんな葛藤がありました。
周囲との評価のギャップとか、私の音楽を聞いてくれてるのかとか、本当にこれが私の道なのかとか、もうたくさん、悩みました。」
「誰かに相談しなかったの?」
「私の人生ですから。
自分のケツ拭けるのは自分だけです。
逃げたくなるときもありましたけどね。」
「そうね、確かにあなたの人生だわ。」
「今は、悩むことができるのも自分だけの特権だと思ってます。」
「そう、じゃあ私からはもう何もいうことはないわ。」
「お気にかけていただいてありがとうございます。」
「ところで、あなた誰かについてピアノやってるのかしら?」
「いえ!独学です!」
「ど、どくがく…?」
「幸い自分にはサックスで培った手先の器用さと、ゴルフで培ったフィジカルとメンタルの強さもありましたし、それだけあればあとは弾けるようになるまでなんどもなんどもなんどもなんども、狂ったように繰り返すだけです!」
「そ、そう、ね…。」
おかしい。
弓先生の顔が引きつってドン引きしている空気を感じる。
「最大で何時間くらいぶっ続けで練習してたことある?」
「うーん、三日間くらい練習室から出なかったことはよくありましたね!
4回実季先輩に助けてもらったことあります!
4回目は泣かれました!」
「…あのね、藤原君、体壊すわよ?」
「実季先輩にも言われました…。
なのでそこからはちゃんと睡眠と食事とトイレ、風呂はとるようにしてます…。」
「わかってるならいいけど…。
内容はどんなことしてるの?」
「だいたい基礎練から始めて、2〜3時間くらいずっとツェルニーとか弾いてますかね。
満足しなかったらもう1時間とか。
で、基本録音して、自分の音聞いてもう一回やってとかの繰り返しですかね。
基本的に徹底的な基礎練の反復です。」
「すごいわね…。
ツェルニー飽きないの?」
「吹奏楽の時はロングトーンで1日潰れるとかザラでしたから。
むしろそれでも基礎練足りないかもとか思ってますし。
あ、僕吹奏楽部でアルトサックスだったんですよ。」
「最近の子は基礎練嫌いな子が多いから感心するわ。
ちょっと聞かせて頂戴。」
そういって私は例の竪琴マークの応接室のフルコンサートピアノの前に座らせられた。
「基礎練少しやってもらえるかしら。」
「はい。」
先生が見ているからといって、何も関係ない。
普段通りやらないと、せっかくのチャンスなのに普段の課題が見えなくなってしまう。
先生が、手をパンと鳴らして、意識が戻ってきた。
「お帰りなさい、藤原君。
一言で言うと、この基礎練の習熟度は完璧ね。
もちろん細かいミスや、もう少しアーティキュレーションを整えて欲しいとかあるけどまぁ好みの問題レベルね。
さすが何度も繰り返してるだけあるわ。
あとあなた手がとても大きいわね。」
「確かにそうですね。
ドからオクターブ上のドを超えてソまで届きますから。サックス吹いてた時の影響で手がよく広がるのかもしれないです。」
「そんな簡単な話かしら…?
あと握力相当あるでしょ?」
「まぁ人並みじゃないですかね?
ゴルフで鍛えられてる分そこそこあるとは思いますけど。」
一応、高3の時、仲間と生搾りりんごジュース選手権を開催して、優勝したことはある。
「そんな鍛えられるほどゴルフうまいの?」
「まぁ好きで小さい頃からずっとやってきたので。」
「ふぅん。
まぁゴルフも腕肩腰首と使うからピアノで使う筋肉と似てるわよね。」
「私もそう思います!」
「じゃあ何か覚えてる曲弾いてちょうだい。」
「はい!」
私が何か覚えてる曲といえばもちろんカンパネラ一択だろう。
先生の館のピアノがいいからか、いつもより指が動くし気持ちも乗る。
以前のように記憶を飛ばしながら弾くと言うこともなくなった。
ちゃんと理性と野生のバランスをとりながら演奏をできている自信がある。
なかなかの手応えを持って弾き終えることができた。
「お疲れ様。」
「ありがとうございました。」
「ねぇ、ほんとに独学?」
「はい、独学です!
あ、でもインターネットとかCDとかで音楽聴きまくりましたし、ウィーンにも上手くなるために行きました。」
「す、すごいね…。
でもたしかに、努力の跡が見て取れるね。」
「ほんとですか?」
「うん、オクターブのアルペジオなんて、血が滲むような努力してそう。」
「そうなんですよ、やっぱり、ダイナミックを追求するとこぼれたり滑ったりしますし、綺麗に弾きすぎると大人しくて面白味なくなりますから、さじ加減はほんとに苦労しました。
基礎練しといてよかったなって思いますもん。」
ついつい早口になってオタクみたいになる。
でもピアノオタクであることは間違いないので胸を張る。
「ねぇ、君私の弟子2号にしたいんだけどどう?」
「えぇ?いいんですか!?
私、権威と権力には全力で巻かれるタイプなんで、先生のお名前最大限に活用しますけど…。」
「そこまであけすけに言われるとこちらも毒気を抜かれるというか…。」
「ぜひよろしくお願いします!」
「あとね、それにあたって、あなたの権利を保護するために事務所を設立して、私が懇意にしている芸能事務所とマネジメント契約をしてほしいのよ。」
「えぇ…めんどくさそう…。」
「えぇ…。
こいつ音楽で飯食うんじゃねぇのかよ…。」
「会社設立とか絶対めんどくさいじゃないですか…。」
「じゃあそれは事務所に行って藤原君はハンコ押すだけでいいようにしとくわよ…。」
「ありがとうございます!」
「もうこれじゃどっちが弟子だかよくわかんないわ…。」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。
先生、ぼくおすしがたべたいです。」
キラキラの笑顔でおねだりしてみる。
「仕方のない子ねぇ…、
ハッ!危うく貢がされるところだったわ!」
「あと少しだったのに…。」
そのあと2時間くらいレッスンを受けて、先ほど実季先輩が向かった練習室に向かう。
ガチャっという重厚感のある音とともに防音扉が開く。
そこには壁一面の楽譜楽譜楽譜。
400や500では到底収まる数ではない冊数の楽譜があり、実季先輩が座っているのは、欲しくて欲しくてたまらなかったフルコンサートサイズで世界最大のファツィオリが鎮座していた。
「あっ、先生。
と吉弘くん。」
「お姉ちゃん、ぼくのことついでみたいにいうのやめてよね。」
「…………ハッ!!!!
今、吉弘くんが私のことお姉ちゃんて。
お姉ちゃんって呼んだ!!!!!!
イイ!これはいいぞ!!!!」
「ほら、お姉ちゃんも馬鹿なことやってないで、先生待ってるよ?」
「あぁ、腰砕けになるくらい甘美な響き。
ベーゼンもスタインウェイもベヒもファツィオリもかなわない甘い音色…。」
「ということで、実季先輩の弟弟子になりました。
今日からよろしくです。」
「な、な、な、なんだってぇ〜!?!?!?
先生ほんとですか!?」
「えぇ、ほんとに。
たしかに彼の演奏はまだ荒削りなところがあるけど、そこは私が磨いていくつもりよ。
弟子にしてあげたというか、弟子になってもらったっていう感覚に近いわね。」
「わたしは!?わたしは捨てられるんですか!?」
「何言ってんのよ、実季ちゃんがこの才能連れて来たんでしょ?
私も指導するけど、実季ちゃんも育てるのよ?」
「先生…!」
「ということで、よろしくお願いしますね、お姉ちゃん!」
「あぁー、たまんない。
もう一回。
「ねぇちゃん!しっかりしてくれよ!」
「可愛系もいいけど、活発少年系弟もいいわね…。」
先生が呟く。
「「先生…。」」
「今日はお寿司にしましょう。」
「やった!!!」
実季先輩が大喜びするが、先生がこっちにこっそりウインクをした。
このあと結局先生の家に泊まるのだが、
大量の楽譜があるのをいいことに、アホみたいに三人でピアノを弾き散らかした。
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