第32話 ある聴衆の話。前編



「みんなうまいなぁ。」




「そうだねぇ。やっぱ音研の人ってすごいよね。」




「うんすごい!」






私は友人に、いろんな教科の過去問を融通してあげたことで、思いもかけずに、なんとかこのプラチナチケットを獲得することができた、幸福な友人Aである。






先輩から話を聞くと、プラチナチケットだなんて初めてのことだとか。


いつものように、モデルの人が来てくれての講演会とかならプラチナチケットになりうる。しかし、学生の、しかも音研のコンサートがプラチナチケットになることなんて聞いたことないとのこと。




確かにそりゃそうだろう。




ではなぜ今回のチケットがプラチナチケットになりうることができたのか。






それは1人の出演者の力による。






「放課後のピアニスト」


の存在だ。






私も彼の話を初めて聞いた時は


「なんじゃそりゃ」


という感想しかなかった。




そもそも大学生なのに放課後って。

まぁ、言葉的には間違いはないんだろうけどさ。



しかし噂が噂を呼びだんだんと好奇心を刺激される。




曰く、とんでもないイケメンらしい


曰く、とんでもなくピアノがうまいらしい


曰く、授業が終わった時にふらっと練習室に現れるらしい




などなど、彼の存在はもはや学校の七不思議並みだ。

ただのミーハー大学生である私が興味をそそられないわけがない。






そんなこんなでワクワクとしながらみんなの曲を聴く。

友達も出てたりするので、意外と面白い。

クラッシックなんて、ほとんど聞いたこともなかったが、

ちゃんと聞いてみると意外と楽しい。




コンサートの順番が進んでいく。




1人出番を終え、また1人出番を終えるたびに


会場全体が、どことなくソワソワしてくる。






みんな「放課後のピアニスト」を待っているのだ。

プログラムを見ると、放課後のピアニストらしき人物はトリ前らしい。




放課後のピアニスト「らしき」というのは、

プログラムの演奏者の欄に名前が書いていないのだ。




運営側まで、放課後のピアニスト伝説に乗った形?

そういうのちょっと萎えるかも。






そうこうしている間にいよいよ放課後のピアニストの出番がやってきた。

会場の電気が落とされ、彼にスポットライトが当たる。






スラッと高い身長に、仕立ての良さそうなネイビーのスーツ。

顔はスポットライトが当たっているため鮮明には見えないが、確かにかっこいい気がする。



俄然期待が高まる。



彼がピアノ椅子に座り、高さを調節し、手を鍵盤にそっと乗せる。




1曲目の、第一音が鳴らされる。


超満員の会場の全員が息を呑んだ。

全員が全員そうしたのかはわからないけど、

不思議な確信がある。




あの瞬間、私たちはみんな、彼の世界に連れて行かれたのだ。




クラッシックに全然興味がなかった私でも、

聞いたことがある曲を2曲弾いてくれた。

1曲目からは怯えや畏れ、ふつふつと湧き上がるくらい快哉、

遠くから聞こえる凱歌。

戦争の曲だろうか。


多分テレビやCMで聞いた方はあるのだと思うが、これまでこの曲を風景まで想定して聞いたことはなかったし、それらが浮かんでくることもなかった。




しかし彼の曲にはそれがあった。

確実に私の心に、ダイレクトに彼の世界が映し込まれた。


一曲目が終わって私は息をすることを思い出した。


大きく息を吸い込んだのは私だけではなかったはずだ。




2曲目は怖かった。

ゆらゆらと揺れる感じがして、怖かった。

遠くの方にぼうっと浮かぶ火のような物を、昔家族とスキーに行った時に見たのを思い出した。






そして、三曲目は私も聞いたことがある、ラ・カンパネラというやつだ。




カーン、カーンという音とともに始まったその曲。

その音が私には昔家族といったヨーロッパの教会の

鐘楼にある鐘の音にしか思えなかった。

後から調べたら、ラ・カンパネラって鐘って意味なのね。

恥ずかし。






慈しみや哀しみ、諦観、希望。

そんなすべての感情を私に想起させたその曲は

私のいちばん大好きな曲になった。




隣に座る幸福な友人Bが私に声をかける。


「どうしたの?」




「えっ、なにが?」




「涙出てるよ?」




「あれ?ってそういうあなたもじゃん。」




「あれ?なんでだろう。」




気づいたら私たちは涙が止まらなくなっていた。




三曲が終わり、彼が席を立ち、こちらに向けてお辞儀をする。

名残惜しい気持ちもあるが、その彼のお辞儀で現実世界に連れ戻された私たちは、割れんばかりの拍手で彼にお礼を伝えた。



体を深々と折り、お辞儀から帰ってきた彼の顔を見て驚愕した。



「尊い…。」


「ふつくしい…。」




私たちは、彼の、儚げで、それでいて、フニャリとした照れと達成感のないまぜになった笑みに脳髄を揺さぶられ、ぼくの心のやわらかい場所を締め付けられた。






その日の音研のコンサートが伝説となったのはいうまでもなく、

また、その日が彼の伝説の始まりになったということは、その時誰もまだ気づいていなかった。

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