【短編】薄氷(うすらい)

Imbécile アンベシル

前編 -「契機」

 僕は、性に奔放な人間を軽蔑している。


 ありふれた高校の教室で、ありふれた喧騒をイヤホンでシャットアウトし机に突っ伏す。慣れれば大したことのない孤独だった。

 彼女なんていたことがないし、手を繋いだ経験は片手の指で数えられる歳に交わした些細な児戯だけ。

 頭も平凡で、趣味も平凡。週末はこれまた片手で数えられる数の友人と、電波に乗せた下らない会話をだらだら繰り広げテレビゲームに興じるのが習慣。

 そんな人間がポリアモリーな人間を、ましてや他者そのものを見下すなど大変烏滸がましいとだというのは理解している。


「うるせえ────」


 周りの話し声に乗じて、聞こえるかどうかの境目を探りながら罵言を飛ばす。

 近隣の、所謂底辺高校の私立よりも高専、それも商業科に入ったのが間違いだった。下手に見栄など張らずに弁えておけばいいものを。

 自分が嫌う存在がうようよといて、毎日顔を合わせなければならないのだから頭に来る。

 それだけならよかった。こうして好きな音楽や音で耳を塞いでいれば半分くらいはなんとかなると知っているから。

 でも今日は数ある最悪の中でも抜きん出て悪い日だ。


 レイカ。この高校だけに限らず、あちこちにその名を轟かせる不埒な人間。今日もスマホ片手に波打った頭検トーケンスレスレの髪を揺らしゲラゲラ笑っている。

 あまりにも表の面が軽薄すぎて、裏があったとしても覗こうとすら思わない。今日はそんな人間と教室の掃除当番がある。

 しかも二人きり。他にも該当する人間がいたはずだが、カラオケがあるとかなんとかで堂々とサボる宣言をかましている会話が聞こえてしまった。


 こういう時に限って時間は早く過ぎてしまうもので、あっという間に放課後になり、カバンを手に有象無象がぞろぞろ引き上げていく。

 僕はなにも言わないまま用具入れの扉を開け、柄のてっぺんに通された紐の輪っかをフックから外す。

 二本同時に取れてしまった。渡す相手がいないと思ったが、壁に寄りかかってSNSのチェックにご執心のレイカがそこにいた。


「.....はい」


「ありがと」


 とっとと帰れよ、一人の方が気楽だから。気の利いた話題なら持ってない。特にお前には。

 すると、丁寧なことにレイカは机の下の隅々までホウキを突っ込んで埃を掻き出している。友達が待ってるならバックレてしまえばいいのに、どうも解せない。

 突いた手を支えに腰を曲げている。嫌悪の意志とは関係なく本能が視線を誘導し、スカートに浮き出た身体のラインを数秒。つい目で追っただけだった。

 奥の方を覗き込もうと頭を下にした時。目が合ってしまった。情けなく鼻を伸ばして身体を眺めていた証拠、逸らすという形まで残して。


「なに見てたの?」


「別に.....」


「あんま話したことなかったけどさあ、キミって童貞?」


 これだ。こう易々と人のパーソナルスペースに踏み込んで、めちゃくちゃに荒らしていく。だからお前らみたいな人間は嫌いなんだ。

 そんなことは自分が一番よくわかってる。事実をいたずらに指摘されたら人は本当に不快なんだ、そんな当たり前のことくらい少しは推し量ってから物を言え。


「いいこと思いついたんだけどさあ」


「....なに?」


「シてみる?」


「え.......?」


「セックス。」


 ほんの片隅に過らせただけの、普通ならあり得ない考えが現実になって、疑問符が口をついて出てしまう。

 これだから。これだからと。自分に言い聞かせ、これまで保ってきた自尊心を崩さぬように気持ちを整理する。

 それは踏み越えてはならない一線だろ。気軽に他人に提案できるなんて、どれだけ汚い。


「どうなの?」


 後ろ手にホウキを持ち替えて、目線を合わせながらゆっくりと近づいてくる。表情に現れているのは誘惑とは違うそれだ。

 受け入れてしまったら、首を縦に振ったら、結局僕もあいつらと同じ。一時のテンションに身を任せて選択を誤る猿と同じで。


「.......はい」


 気づけば、僕は仲間入りを果たしていた。掃除をそこそこの結果に済ませ、切望していた自宅とは反対方向へ、あろうことか嫌いな人物と肩を並べて歩を進めている自分がいた。

 漫画やビデオなんかでしか知らない。それでも僕の信じてきた「それ」に対する価値はこんな薄っぺらく低いハードルじゃないはずだ。

 一歩二歩先を進む彼女に、先導されるまま。葛藤に混じった邪な歓喜が脆いプライドを着々と砕いていくのを感じる。

 案内されて入る、集合住宅の一室。玄関に並ぶ靴はおよそ女物ばかりでそもそも数が少なく、家族の存在感は一切感じさせなかった。


「一人暮らし....?」


 高揚だけで形作られた言葉。決してスムーズじゃない口の回りに、脳内で反芻し即興の反省会が起こり辟易する。


「そーだよ。私親と仲良くないし、小学校くらいに離婚しちゃったし」

「バイトしながらね。あとはパパの仕送り」


 親の離婚。自分にも振りかかったことがあり、この矮小な人格の形成に大きく携わった要素が意外な共通点となった。

 思わず親近感を抱いてしまうが、決して忘れてはいけないのは僕がここに来た理由だ。

 普段教室で見せる、喧しさすら覚える明朗さとは違うやや低い声。甘えを介在させないままにレイカは僕を座椅子に座らせた。

 恐る恐る見渡してみると、高校生らしからぬ生活感が溢れている。部屋干しの衣類と現実的なスケールをした家電。

 壁紙やカーペットは女子のそれ、ということもなく質素だ。そのようなものを見出だすならガラステーブルの上に並んだ化粧品くらい。想像していたものとはまるで違っていた。


「シャワー浴びる?私は別にいいけど」


「いや、ああ....シャワー....」


 自分にとっての「普通」を通すんだ。「それ」をする前に身体を洗い流すのは当たり前だろう、こんなことを見落とすな。


「じゃあ、借りてもいいかな....」


「ん。私ゴム買ってくるから」

「タオル勝手に使ってね」


 財布を手に部屋を出ていく背中を見送る。いざ一人になると、不安が一挙に込み上げる。それでいて後悔のようなものが欠片もないのが、これまで秘めていた一種の劣等感からの脱却に近づいた事実を知らせる。

 立ち上がり、風呂場に向かい中を覗く。電灯をつければ自宅の雰囲気とはさほど変わらない光景が広がり、少し安心する。

 どうせ一人だ、無為でしかない緊張を押し殺しながら制服を服を脱ぎ、意味もなく畳んで置いておく。


 足裏の皮膚が冷たいタイルを踏み締める。蛇口を捻り出てきた水を、湯に変わる間も無く頭から浴びて溜め息をついた。

 非日常。いつもの日々とは逸脱した帰路に、高鳴っている心臓が煩い。しかしここまで来て引き下がったら逆に負い目を生むだけだ。


「怖えなぁ.....」

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