第13話 蜘蛛の巣

 二日酔いの体を引きずるように廊下を進んでいると、目的の食堂に着いた。


 昨夜はここで散々飲んで喋っての繰り返しであったが、今はその面影はどこにもない。


 朝食用の食器が並べられており、給仕役の召使の姿も見えない。


 代わりにエプロン姿の夫人がいた。



「あら、ラルフェイン様、おはようございます。昨夜は少し飲ませ過ぎたと旦那様も心配しておりましたよ。今少しゆっくりなさっても良かったですのに」



「朝日の顔面パンチを食らって、無理やり起こされましてね」



「そうでしたか。ささ、こちらの席にどうぞ」



 そう言って、夫人は食卓の椅子を引き、剣士に座るように促した。


 目の前にはいくつかの食器類にパン籠が置かれていた。


 ただし“一人分”だけだ。


 そして、スープ皿にスープがよそわれ、少し焙ったであろう焼いたベーコンも皿に乗せられた。



「……あれ? 領主さんは?」



「旦那様はもうお出かけになられましたわよ。昨日見回りしている際に、森の結界に歪みを見つけたとかで、朝早くから直しに出かけてしまいました」



「あ~、聖地の管理者ですからね。そういうのもやっているんですか」



「ええ、この地を守る事が神に与えられた代々の職務ですので、試練とやらがちゃんと機能するように余念がございません」



 気ままな冒険者暮らしと違い、土地やお役目に縛られた領主と言う立場。あちらもあちらで大変なのだなと、剣士はしみじみと思った。


 やはり二日酔いでまだ頭がガンガンするが、食事を抜くのはご法度だ。


 旅から旅へ続ける身として、しっかりとした食事を取れるのがいかに幸せな事か、それを身に染みて理解していた。


 野宿と粗末な食事は常にセットであり、屋根があり、ベッドがあり、温かい食事にありつけるというのは、何よりの贅沢なのだ。


 とはいえ、少しだけ気になる点があった。



「ご夫人よ、少し気になる点があるのだけど?」



「何でしょうか?」



「料理人や給仕の姿が見えないのですが?」



 料理を作る料理人に、配膳をする給仕の召使い、貴族や富豪の邸宅では当たり前にいる。


 実際、昨夜はいたはずなのだ。


 だが、今はいない。調理も配膳も、夫人がしているように見受けられた。


 そのための違和感だ。



「ああ、それはですね、この屋敷の住人ではなく、村人から臨時で入れただけだからですよ」



「おや、そうだったのですか」



「はい。門構えは立派ですが、神よりこの地の管理を任されているとは言え、田舎の領主ですからね。この屋敷に住んでいるのも、夫婦二人だけ。昨夜は来客があったので人を入れただけです」



「門番も?」



「ええ。誰かが侵入してくると、村の若者が一応警戒のために武装するのです。あなたのような真面目な方ばかりとは限りませんので」



「あ~、ズルしたりする奴もいるとか言ってましたもんね。それに、こういう聖地には何かしらの魔力装置があったりしますし、それを狙った盗人の可能性もある」



「はい。ですので、基本的には二人暮らし。特に来客の無い日は気楽なものですわ」



 料理人や召使いにしても、それほど大規模の邸宅と言うわけでもないし、中身は夫婦と客の三人だけ。


 それこそ、夫人一人で事足りるということかと、剣士は納得した。


 だが、そこに思わぬ落とし穴があった。


 食事を終えて何気なしにテーブルの上に置いていた剣士の手に、不意に夫人の手が覆いかぶさってきたのだ。


 とてもしなやかで、ゆで卵のようにつるりと滑り、ほのかに温かい人肌の感触が手の甲に伝わってきた。


 緊張のあまり硬直し、ビクリと肩が浮いたが、その肩に乗せるかのように夫人の顔がグッと近付いてきた。


 逃がさない。そういう強烈な意志を感じた。


 さながら蜘蛛の巣にかかった羽虫を食むがごとく。



「……旦那様は、しばらく帰ってきませんわ」



 剣士の耳元に滑り込む貴婦人の甘い声。意識がそちらに引っ張られるかのような錯覚を感じる程に、その声は魅力的であった。



(年の差、仕事熱心、夫は良き領主ではあっても、男としては妻を満足させられていない……。と言いたいところだが! どう考えても美人局トラップだろ、これは!)



 昨日訪問した『奇麗すぎる村』に引き続き、あろうことかまたしてもエロ系の罠だ。


 確かに、肌を摺り寄せてくる貴婦人は、文句なしの絶世の美女だ。


 普段目にするいつものパーティーメンバーとは違う。


 ガサツな怪力田舎娘、チビでガリで見た目が完全にお子ちゃまなエルフの魔術師、神に身を捧げた性欲完全消滅の神官、どれもこれも“女”としては落第点だ。


 だが、目の前の貴婦人は違う。顔は端麗にして、お肌スベスベ。耳に刺さる吐息や甘い声は、抗い難い誘いであった。



(他に誰もいない屋敷! 二人っきり! 夫は仕事に出かけて帰ってこない! この状況で、何も起こらない訳もなくぅぅぅ!)



 剣士の頭は沸騰寸前であった。


 こんな美女からのお誘いなど、普段なら「はい、喜んでぇぇぇ!」と飛びつきかねない。


 童貞男の悲しきサガか。



(だが、落ち着け……。落ちつけ、俺! あんの性悪領主め、自分の奥さんにまでこんなことやらせんのかよ!? あ、いや、仕事上の仮面夫婦と言う可能性もあるが)



 なにしろ、禁令は自分にしか適応されないという事なので、夫婦だと紹介されても、それが嘘である可能性もあるのだ。


 とは言え、そんな思考は後だ。


 夫人があまりに魅力的過ぎて、その深淵の黒い瞳に吸い込まれそうになるほどに惹かれてしまう自分がいるのに気付いた。


 必死で気力を振り絞り、そして、ガバッと席を立った。



「失礼、御夫人。今日も散策に出かけますので、これにて! 朝食は美味しかったですよ!」



 据え膳食わぬはという言葉もあるが、今は試練の“ふるい”の時間であるというのが、剣士の認識だ。


 禁令を破るなど以ての外であると、魅力的なお誘いを放り投げた。


 そして、逃げるように屋敷を出た。


 童貞男、勇者候補にあるまじき撤退(二度目)であった。

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